宗悟寺の解説【比丘尼山】比企氏の本拠地にある森川氏俊の菩提寺

宗悟寺

宗悟寺とは

宗悟寺(そうごじ)は、埼玉県東松山市大谷にある、曹洞宗の寺院です。
地元の扇谷(おうぎがやつ)と言う地名から、扇谷山・宗悟寺と書きます。

宗悟寺

扇谷と申しますとね関東管領・上杉氏を連想してしまいますが、上杉氏は、鎌倉の扇谷に屋敷があったので、扇谷・上杉氏になりました。
こちらは、東松山の扇谷と言う事になりますが、平安時代~鎌倉時代初期には、比企氏の本拠地でもあったとされます。


スポンサーリンク



宗悟寺は、もともと、西にある比丘尼山の麓にあったとされます。
戦国時代の1590年、徳川家康江戸城に入り、関東を治めた際に、武蔵国比企郡を知行したのが森川氏俊と言う武将になります。

森川氏俊

この森川氏は、もともと尾張・織田家の家臣で、尾張・比良城の堀場氏でしたが、佐々成宗に屈したようです。
今川勢の遠江・曳馬城主である飯尾連龍(いのお-つらたつ)が、徳川家康に内通すると、1565年、今川氏真が曳馬城を攻めて、今川家の新野親矩や三浦正俊、中野直由が討死しています。
この曳馬城の戦いの際に、飯尾氏の客将に、森川氏次がおり、奮戦するも命を落としたとあります。
その森川氏・森川定兼の娘の嫁ぎ先が、堀場氏兼でして、その子・堀場氏俊が、森川氏の家督を継ぐ形で、徳川家康に取り立てられました。
森川氏俊(もりかわ-うじとし)は、堀川城の戦い、姉川の戦い三方ヶ原の戦い長篠の戦い小牧・長久手の戦いと活躍し、1592年、武蔵国比企郡・上総国山辺郡にて合計2000石となった次第です。
南にある秋葉神社が、森川氏の陣屋跡(屋敷跡)とされます。


スポンサーリンク



1592年、森川氏俊は、比丘尼山の麓にあった壽昌寺(寿昌寺)を、現在地に移して再建しました。
そして、1598年7月20日、森川氏俊は死去し、宗悟寺に葬られています。
森川氏俊の戒名が「宗悟」だったため、寺の名前が、宗悟寺に改称したようで、森川氏の菩提寺と言う事になります。

宗悟寺

宗悟寺・本堂の裏手には、森川氏累代の墓があるそうです。
ちなみに、森川氏俊の3男・森川重俊は、徳川秀忠の近習として、関ヶ原の時には、上田城の戦いで真田昌幸とも戦っており、のち1627年、下総・生実藩1万石の大名になっています。

もともと比丘尼山にあった大谷山・壽昌寺の創建は、若狭局が、伊豆・修禅寺にて殺害されたという源頼家の菩提を弔うため、比丘尼山の麓に草庵を設けたのが、壽昌寺(じゅしょうじ)の始まりとしています。
そのため、現在の宗悟寺には、源頼家の位牌があるそうです。

宗悟寺

若狭局は、この地の領主とされる比企能員の娘とされます。
鎌倉幕府2代将軍・源頼家の妻妾となって、1198年に、鎌倉・比企氏館にて源一幡を産みました。
1202年にも、娘・竹御所が誕生しています。
その翌年1203年、比企能員の変にて、北条時政の策略にはまり、比企一族は、鎌倉・比企ヶ谷の比企氏邸にて討死・自刃し、比企氏は滅亡しています。
吾妻鏡では源一幡と若狭局も焼死したとしています。
下記は、若狭の局を祀ったともされる、鎌倉・蛇苦止霊之墓です。

讃岐局蛇苦止霊之墓

愚管抄によると、一幡と母は、逃げましたが、11月になってから、北条義時の郎党により、刺し殺されたとあります。
源頼家は失脚し、伊豆・修善寺にて謹慎となっていましたが、1204年7月18日、金窪行親に襲撃されて殺害されました。享年23。
修禅寺には、源頼家の墓があります。


スポンサーリンク



そして、壽昌寺(宗悟寺)にて伝わる伝承では、夫・源頼家の遺骨を抱いて、若狭の局は、比企郡大谷村に逃れたとあります。
比丘尼山に庵を結ぶと、源頼家らの菩提を弔いました。
串引沼などに若狭局の伝承があります。
下記は、比企一族顕彰碑です。

比企一族顕彰碑

しかし、宗悟寺に、比企尼や比企能員の位牌が伝わっていないのが、残念なところです。
ちなみに、比企能員の妻である三浦氏の娘と比企能本(比企大学三郎能本)が、和田義盛の世話を受けて生き残り、鎌倉の比企氏館跡に鎌倉・妙本寺が建立され、若狭局の蛇苦止堂や、比企一族の墓などがある、比企氏の菩提寺になっています。

比丘尼山

比丘尼山は、伊豆にて流刑となっていた、源頼朝を経済的に援助した比企掃部允の妻が、夫の没後、比企禅尼となって、草庵を営んだのが始まりとされます。
となると、源頼朝が挙兵した1180年前後には、草庵があったのかも知れません。
比企尼(ひきのあま)は、源頼朝の乳母を務めて女性でした。
比丘尼ゆかり寺としては、源頼朝も訪れていたと言う、伊豆の函南(かんなみ)に、函南・高源寺があり、比企尼の宝篋印塔があります。
比丘尼山は、宗悟寺から西に約1km、徒歩15分くらいのところにあります。

比丘尼山

比丘尼山横穴墓群と言う横穴式の墓が有名なところです。
麓に、壽昌寺(宗悟寺)があったとされますが、今は、ただの田園地帯と丘と言う感じになっています。
比丘尼山の近くは、クルマを止めることができませんので、案内板がある場所などへ、近寄っての撮影は自粛しました。


スポンサーリンク



ちなみに、比企尼の夫・比企掃部允は、ココより西にある、三門館に住んだと考えられているようです。
宗悟寺から北に約700mほどにある城ヶ谷には、比企能員の比企氏館の推定地と言う話になっています。

いずれにせよ、比企能員と家族は、ほとんど、鎌倉・比企ヶ谷の比企氏館に住んでいたと考えられます。


スポンサーリンク



なお、川島町に比企館がありますが、川島の比企館跡は、鎌倉時代より後年、生き残った比企氏の館となります。
戦国時代に、故郷の比企郡に戻った比企政員が、扇谷・上田憲定岩槻城太田資正に仕えました。
そして、北条氏康に臣従すると、武蔵・松山城の松山衆に組み込まれました。
江戸時代になると、比企則員は結城秀康に仕えています。

交通アクセス

宗悟寺への行き方・交通アクセスは下記の通りです。
東武東上線・東松山駅から、東松山市循環バス「大谷コース」に乗車(100円)して、所要21分、大谷交差点バス停下車して、徒歩約15分です。
コミニティーバスのため、運転日・時刻表なども、変わりやすいため「東松山バス」と検索して最新情報のご確認をお願いします。


スポンサーリンク



タクシーだと約6km、15分くらいです。
東松山霊園が目印になります。
宗悟寺の門前に、未舗装の参拝者用駐車場が完備されています。
トイレは無いようです。
駐車場の場所は、当方のオリジナル地図にてポイントしておりますが、道路狭いのでご注意を。

武蔵・比企氏館(比企能員館)の解説~東松山にある比企能員の本拠地推定地
謎の【比企能員】出自・出身を探る~安房国出身の三浦一族なのか?
比企尼(ひきのあま)~わかりやすい解説【鎌倉殿の13人】源頼朝の乳母
比企能員(ひき-よしかず)の解説 北条氏にハメられた?【比企能員の変】
比企能員の妻~鎌倉殿の13人で堀内敬子さんが演じられる「道」(みち)と言う女性とは?
比企朝宗の解説【鎌倉殿の13人】比企一族で姫の前の父
比企尼の謎の出自や出身を調査~大中臣倫兼の長女か?
比企能員の娘【若狭局】(讃岐局)~次期将軍・源一幡の母
比企掃部允の解説~謎の出自に迫ってみると阿波・佐藤氏(藤原氏)出身か?
鎌倉・妙本寺(みょうほんじ)の解説~一幡の袖塚・比企一族供養塔・竹御所の墓・蛇苦止堂【鎌倉・比企氏館】
比企氏の乱(比企能員の変・比企能員の乱)~わかりやすく徹底解説
源頼家の解説~5分でよくわかる鎌倉幕府第2代将軍「2代目鎌倉殿」
源媄子(竹御所・源鞠子)の解説~2代将軍・源頼家と若狭局との娘
伊豆【高源寺】の解説~源頼朝挙兵軍勢ぞろいの地とも
比企能本の解説~生き残り順徳天皇に仕えた比企氏出身の僧侶
三門館(比企遠宗の館)の歴史解説~比企氏館跡のひとつ・五所五郎丸館・毛呂季綱の館?
鎌倉・妙本寺(みょうほんじ)の解説~一幡の袖塚・比企一族供養塔・竹御所の墓・蛇苦止堂【鎌倉・比企氏館】
史跡めぐりにも便利なオリジナル関東地図

フィードバックする
スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。