本能寺とは 京都・本能寺の歴史 織田信長との本当の関係

本能寺

本能寺とは

本能寺(ほんのうじ)は、京都府京都市中京区下本能寺前町にある法華宗本門流の大本山の寺院です。
本能寺の変に関しては、聞いたことがあっても、その本能寺とはなんぞや?と言う事で、本能寺に関して徹底的に調べてみました。

本能寺の創建は、室町時代の1415年で、最初は「本応寺」と言う漢字だったそうです。
法華宗(日蓮宗)の僧侶・日隆(にちりゅう)が京都油小路高辻と五条坊門の間に造りました。

本能寺

日隆の出身は越中の富山県射水市で、父親は桃井尚儀と言う事です。
越中の桃井氏と申しますと足利氏一門であり、越中守護を務めた桃井直常などがいますが、斯波義将に敗北してからは勢力を弱めています。
その桃井氏の一族と考えられる桃井尚儀は越中・浅井城主であり、その次男だったのでしょうか?桃井尚儀と斯波義将の娘・益子との間に生まれた子が本能寺を開いたと言う事になります。


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しかし、もともと修行していた妙本寺の新しい住職と法華経の解釈をめぐって争いとなり、完成して3年の1418年に、本応寺は壊されてしまったそうです。
その後、日隆は大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の保護も受けたようで、1429年に京に戻ると、小袖屋宗句から寄進を受けて、千本極楽付近の内野(大内裏跡)に本応寺を再建しました。
建設費用を負担した、小袖屋宗句(山本宗句)は、当時の京都でも指折りの呉服豪商だったそうです。

1433年、更に檀那・如意王丸と言う不詳の人物から、六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進されて再び再建すると、寺号を「本能寺」と改めたました。

本能寺

そして、本能寺は法華経弘通の霊場として栄えて伽藍が造営され、最盛期には末寺30ヶ寺を持ち、将軍・足利家の保護を受け、京都でも1位・2位の地位にもなりました。
ただし、創建以来4回場所を移転しており、7回火災に見舞われています。

本能寺8世・日承の時には、畿内・北陸・瀬戸内沿岸の諸国や種子島まで末寺が拡大していたことから、種子島に伝わった鉄砲・火薬の入手も早く、戦国大名との関係を深かめていたようです。


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特に織田信長は、本能寺の住職・日承に帰依していたことから、京都に上洛した際に宿所には本能寺を使用しました。
日承上人は、天皇の親戚でもありましたので、天皇家との繋がりも得たいと、また鉄砲と言う兵器も欲しいと言う織田信長の思惑もあったようです。
また、当時の本能寺は、高い塀と深い堀で囲まれていたことから、ある程度の防御性もあり、織田信長も気に入っていたようです。
織田信長が本能寺に発行した「禁制朱印状」には、天下布武の印も押されているそうです。

天正10年6月2日(1582年6月21日)、明智光秀の軍勢によって本能寺は包囲され、諸堂は焼失し、一般的には織田信長は本能寺で幸若舞を舞い、切腹したとされています。
ただし、その遺体は発見されず、最期は明らかではありません。

山崎の戦いにて、明智光秀は敗れ、織田信長の子・織田信孝によって、6月16日、本能寺の焼け跡に、明智光秀の首と胴、明智勢3000の梟首が晒させています。
その後、織田信孝は跡地を墓所とさだめ、離散していた僧侶に戻るように命じています。
ただし、具体的にどうなったのかは、わかっていないようです。


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現在の本能寺

いずれにせよ、豊臣家の天下となり、1591年に豊臣秀吉が、現在ある中京区下本能寺前町に、本能寺を再建し、1592年に完成しました。
今の敷地よりも、もっと広大だったようです。
江戸幕府からは1615年に朱印地40石を授かっており、1633年の「本能寺末寺帳」では、末寺92とありますので、大寺院へと復活していたようです。

幕末には長州藩の京都藩邸と隣接していたこともあり、禁門の変(蛤御門の変)にて火災が延焼して焼けましたが、砲撃の被害を受けて燃えたともあります。
現在の本堂は1928年(昭和3年)に再建されたものです。

本能寺

と言う事で、織田信長が命を落とした本能寺の場所と、今の本能寺の場所は離れていますが、信長公御廟所拝殿は新しい本能寺の境内にあります。

信長公御廟所拝殿

織田信長の墓には、信長が使用していた愛刀が収められていると言います。

織田信長の墓

隣には、森蘭丸などの、一緒に討死した織田勢の供養墓があります。

本能寺 織田勢の供養塔

現在の本能寺ですが、境内への出入りは無料で、本堂の内部での参拝も無料です。
本堂内は撮影禁止ですが、靴を脱いで入ることができ、御本尊様の姿を拝むことが可能でした。

ただし、大寶殿(宝物館)のみ有料拝観となります。
大寶殿の内部はは撮影禁止ですが、織田信長の肖像画としては、ひげが描かれていない珍しい絵が展示されており、本能寺の変が起こる前夜に、突然鳴いて信長に異変を知らせたとされる三足の蛙が常設展示されています。

織田信長と本能寺

開門は朝6時~17時で、御朱印受付時間は朝9時からとなります。

本能寺・御朱印

行き方・アクセス

本能寺への交通アクセスですが、京都市営地下鉄・東西線「市役所前駅」から徒歩1分です。
入口は東西南北4箇所ありますが、工事していて通行できない場合もあります。

いずれにせよ、移転しているとはいえ、京都の本能寺は歴史も由緒もある寺院で、毎年6月2日には、信長公忌として信長公のご命日法要が執り行われます。

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