濃姫はいつどこで死去したのか? お濃の墓(濃姫遺髪塚、帰蝶の墓)

お濃の墓(濃姫遺髪塚、帰蝶の墓)

濃姫遺髪塚

斎藤道三の娘にして、織田信長に嫁いで正室となった女性「お濃」(のう)別名は帰蝶(きちょう)、濃姫(のうひめ)/鷺山殿のお墓と伝わる塚が、帰蝶が生まれた岐阜城下の岐阜市にあります。
伝承によると、濃姫の遺髪(いはつ)を供養のために埋葬した「濃姫遺髪塚」と言う事ですので、骨を埋めたと言う事ではなく、遺髪を埋めて供養したと言えます。

岐阜に伝わる伝承では、濃姫は本能寺の変の際に、織田信長と共に亡くなり、家臣が岐阜に遺髪を持ち帰って、岐阜城下を守る四天王のひとつである西野不動に埋葬したと伝わるようです。
その西野不動がある場所が、ここだったのですが、太平洋戦争の際にアメリカ空軍の空襲にて、西野不動は焼けました。
戦後、不動は再建されなかったことから、かつての境内は住宅街となりましたが、その境内の一角にあったムクノキだけは残されていたことから、遺髪塚を再建した模様です。

お濃の墓(濃姫遺髪塚、帰蝶の墓)

ここからは、濃姫の「死」について、検証したいと存じます。

帰蝶(濃姫)はいつ死去したのか?

織田信長の正室であった濃姫(帰蝶)ですが、有名な戦国大名の妻にしては、残っている記録が非常に少なく、よくわかっていない点が多く、謎の多い女性です。

斎藤道三と、側室・小見の方との間に、1535年、生まれた長女が帰蝶と言う事になります。
別名は、於濃、胡蝶、鷺山殿とも書きます。
母の小見の方は、明智一族の出て、明智光秀とも縁者だったようです。


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最新の研究によると、帰蝶は、最初、土岐頼純の正室となりました。
これは、1546年に斎藤道三が朝倉孝景と和睦し、美濃守護だった土岐頼芸が、守護職を土岐頼純に譲る際に、和睦の証(人質)として、斎藤道三は娘を土岐頼純へ嫁がせたと言う史料があります。
こうして、土岐頼芸と土岐頼純は、美濃へ復帰するのですが、この斎藤道三の娘に関しては名前が不明です。
しかし、他に生まれていた娘の存在が確認できない事もあり、濃姫であった可能性が高いと考えられています。
濃姫であれば、12歳前後で、美濃守護・土岐頼純(23歳くらい)の正室になったと言う事になります。

ただし、大桑城に入った土岐頼純は、翌年の1547年に突然、急死します。
この死は、斎藤道三が暗殺したものと考えられていますが、討死した可能性もあります。
そのため、濃姫は、父・斎藤道三のもとに帰ってきたと推測されます。
なお、この頃、美濃を巡っては、尾張・清洲城織田信秀が攻勢に出ており、稲葉山城を攻撃もしていました。
この、織田勢の侵攻は、必要に続いたため、斎藤道三は政略結婚として、1549年に、濃姫(15歳前後)を織田信秀の子・織田信長に嫁がせて、斎藤家と織田家は婚姻同盟を結んだわけです。
仲介・交渉したのは、明智光安平手政秀であったとされます。

1552年、織田信秀が亡くなり、織田信長が家督を継ぎます。
その後、1556年、斎藤道三は、子の斎藤義龍から攻撃を受け、長良川の戦いにて討死しました。
この時、織田信長は、濃姫の父・斎藤道三を助けるため、援軍として出陣しましたが、道三敗死の知らせを受けて退却しています。


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のち、岐阜城下の常在寺に、濃姫は、父・斎藤道三の肖像画(国の重要文化財)を寄進しました。
この寄進した時期は不明なのですが、織田信長が稲葉山城を攻略して、美濃を治め、本拠として移転したのが、1567年からです。
正室だった濃姫(帰蝶)も、恐らくは改築した岐阜城に入ったことでしょう。
それを考慮しますと、1568年頃に濃姫は常在寺に父の肖像画を奉納して供養したものと推測されます。
ただし、それ以前、父が死去した直後に奉納していたとしても、おかしくはありませんので、いつ頃だったのかは不詳と言う感じです。

山科言継が1569年に記した言継卿記では「斎藤家親族・信長本妻」との記述がありますが、100%確実に、濃姫の事であったとは断定できません。

以上が濃姫に関して、わかっていることでして、これ以降、濃姫の動向は不明となっています。
織田信長との間にも、子は生まれなかったとされています。(実は娘を産んだともあります。)
濃姫の没年も不明であり、菩提寺も戒名もわかっていません。

そのため、濃姫の死に関しては、諸説あります。


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死の諸説

帰蝶(濃姫)が織田信長に嫁いだことから、わかっていることは、下記の点です。

・織田信長とは再婚だった可能性が高い
・織田信長との間に子はいない
・織田信長は側室のほうに執着であった

まず「離縁説」ですが、子が産まれていないことからも、早い時期に織田信長が離縁したのではとも考えられています。
この場合、斎藤道三が死去し、織田信長は婚姻同盟も、意味が失われたため、濃姫を母・小見の方の実家である明智光安の明智城に離縁して返したのではないかと推測されています。
その後、斎藤義龍は、明智家を5ヶ月後に攻撃しており、明智城が落城した際に、濃姫(22歳)は、明智一族と運命を共にしたともされます。

一般的には、1582年、濃姫は、織田信長と本能寺にいて、明智光秀が謀反を起こした本能寺の変にて、濃姫も運命を共にしたとされています。
明智軍記では、最後に、48歳の濃姫(帰蝶)は、織田信長を裏切って明智家に味方したともありますが、なんとも言えないのが実情です。

なお、生存説として、本能寺の変の際に、濃姫は安土城にいたとも推測されています。
特に、本能寺の変のあと、安土城から日野城へ「信長公御台君達など」を避難させたと言う史料があります。
ただし、それが、濃姫であったとは記載されていません。
しかし、最長で1612年に死去した(享年78)と言う説もあります。

また、1587年の史料にて、織田信長の次男・織田信雄が一族・家臣団の記録として残した「織田信雄分限帳」には、あつち殿(安土殿)という女性の名前が記載されています。
この安土殿と言う記述の場合、織田信長の正式な妻であった可能性もあることから、この安土殿は濃姫の事ではないのか?と言う説もあり、本能寺の変のあと、生存してとも考えられています。
ただし、安土殿が本当に濃姫の事だったのかは、不明と言ったところです。

この頃、織田家の奥を取り仕切っていたのは、濃姫(帰蝶)ではなく、側室・お鍋の方でして、安土城にて実質的な正室のような存在となっていたようです。
そのため「あつち殿」と言う女性は、お鍋の方だった可能性もあるのです。


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話を「濃姫遺髪塚」に戻しますが、自分の髪の毛は、なんらかの理由で「生前」に「奉納」したりすることがあります。
他の人物としては、江戸幕府にて政治のブレーンになったと言う天海(生き残っていた明智光秀であったという説もあります)の毛塚も、東京・上野公園にありますが、生前に作ったものです。
天海は、江戸城の鬼門に当たる上野に、自らの髪塚を造り江戸を守ったとされます。
でも、天海の毛塚に対しては、坊主頭ではなかったんかい?と、ツッコミしたくなります。
もし、毛がふさふさだったのであれば、ハゲていたともされる、明智光秀とは別人だった可能性もありますが・・。

女性にとって髪の毛は命とも言えますが、帰蝶が髪の毛は、死亡したからではなく「出家」して髪の毛を切ったからとも考えられるのではないでしょうか?
自分の分身である大事な髪の毛を、織田信長の供養のために、岐阜に納めたのかも?知れません。


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このように、実際に濃姫が亡くなった時期は不明であり、濃姫の伝承も非常に乏しいと言う事になります。
もっとも、日本の場合、貴重な史料の多くは、太平洋戦争の空襲にて、灰と化したため、残っていないのです。
もし、焼けた西野不動が残っていたら、名古屋が空襲を受けていなければ、新たな史料の発見があったかも知れません。

濃姫遺髪塚への交通アクセス

濃姫遺髪塚がある場所、交通アクセス・行き方ですが、当方のオリジナル地図にてポイントしてあります。
車を長時間、止められるような駐車場はありません。

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