牧の方 (北条時政の継室) 解説【流れをわかりやすく】

牧の方 (北条時政の継室)

牧の方 (まきのかた)は、鎌倉幕府の創設に尽力し、その後、鎌倉幕府の初代執権になった北条時政の継室(後妻)です。
父は牧宗親とも、牧宗親の妹ともされ、沼津の大岡牧が出身地のようです。
1159年、平治の乱の際に、源頼朝の助命に尽くしたという、平清盛の継母・池禅尼の姪に当たります。
生没年は不詳ですが、平安時代末期に生まれた女性で、鎌倉時代初期に亡くなっています。
北条時政の前妻は伊東祐親の娘であり、北条宗時阿波局北条義時が産まれています。
しかし、早くに死去したようで、牧の方が継室となりました。
牧の方の兄としては大岡時親(牧時親)がいます。



牧の方は、勝気で傲慢(ごうまん)な性格であったとされ「ワカキ妻」との記載もあることから、夫の北条時政とは、だいぶ歳が離れていたと伝わりますが、吾妻鏡によりると、1182年11月10日の段階では、既に結婚していたようです。
2人の仲は良かったようで、子は、1187年生まれの宇都宮頼綱の正室、1189年生まれの北条政範、平賀朝雅の正室、三条実宣の正室の4人の子は、牧の方が産んだことが分かっています。
北条時政の子としては、生母不明として、他に、北条政子、北条時子、稲毛重成の正室、畠山重忠の正室、北条時房などがいますが、側室が産んだのか?、牧の方なのか?などは、不明です。

1182年8月、継娘・北条政子が源頼家を出産しますが、その間、夫・源頼朝は亀の前を寵愛していました。
この事を、牧の方は、北条政子に伝えます。
北条政子は嫉妬して、牧の方の父・牧宗親に命じると、1182年11月10日、亀の前が住んでいた、飯島(逗子)にある伏見広綱の屋敷を打ち壊させました。
伏見広綱は、亀の前を連れて、命からがら大多和義久(三浦義明の子)の鐙摺(葉山)の邸宅へ逃れています。
怒った源頼朝は、11月12日に、牧宗親を連れて鐙摺にいる伏見広綱のところに行き、事の経緯を聞いて、牧宗親を問いただしました。
牧宗親は、顔を地にこすりつけて平伏するばかりでしたが、牧宗親の髻を、自ら切り落とす恥辱を与えられ、泣きながら帰ったと吾妻鏡に記載されています。
※髻(もとどり)とは、髪を頭上に束ねた結髪のこと。
この仕打ちに、北条時政が怒り、北条一族を伊豆に引き揚げる騒ぎになりました。
その後に関しては、吾妻鏡では欠落となっていて、どのようになったのかは不明です。
12月10日、亀の前は小坪にある、小忠太光家の邸宅に移され、引き続き、源頼朝の寵愛を受けました。
ただし、北条政子の怒りは収まらなかったようで、12月16日、源頼朝の右筆であった伏見広綱は、遠江国へ流罪となっています。

1199年、源頼朝が死去すると、北条政子の実父・北条時政は、有力御家人である梶原景時比企能員らを滅ぼし、権力を高めていきます。



鎌倉幕府2代将軍・源頼家は、妻の実家である比企(ひき)氏を重用していた経緯があり、北条政子の命で伊豆の修善寺に幽閉され、1204年に殺害されます。
阿波局が乳母を務めていた、源実朝が3代将軍になっていました。

1205年6月22日、畠山重忠の乱が発生しますが、牧の方の娘が嫁いだ平賀朝雅と、畠山重保(畠山重忠の次男)との確執が発端とされます。
平賀朝雅は、悪口を受けたと牧の方に報告したため、牧の方は、畠山重忠父子の謀反であると、北条時政に訴えたと言います。
このようにして、畠山重保は謀反の疑いを掛けられて、鎌倉・由比ヶ浜に呼び出された所を、北条時政の命を受けた三浦義村によって討ち取られました。
畠山重保が殺害されたことを知らないまま、武蔵・菅谷館から鎌倉に向かっていた畠山重忠は、6月23日、北条義時が率いる軍勢に急襲されて、二俣川にて討死しています。
また、その日の夕方に、畠山重忠の同族である稲毛重成の父子、榛谷重朝の父子も、畠山討伐の軍勢に加わっていましたが、鎌倉に戻ったところを、三浦義村らによって殺害されました。

北条時政の子・北条義時は、畠山重忠と親しかったため、強攻策のあと反感を強め、北条時政と、牧の方と対立するようになっていきます。
また、北条時政と牧の方は、3代将軍・源実朝を殺害して、源氏一族である平賀朝雅を新将軍に擁立しようと画策しましたが、先妻が産んだと考えられる北条政子と北条義時に知られました。
1205年閏7月20日、北条政子は、長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野正景らを派遣して、北条時政邸にいた源実朝を保護して、北条義時邸に移動させました。
そのため、鎌倉幕府内で孤立した、北条時政と牧の方は、その日のうちに出家し、翌日には鎌倉から追放されて伊豆・北条に隠居となっています。
京都守護として滞在していた京の平賀朝雅も、閏7月26日に鎌倉幕府の命によって殺害されています。 (牧氏事件)
牧の方の娘を妻としていた宇都宮頼綱や小山朝政にも追討令が出されました。



1215年、北条時政が死去していますが、平賀朝雅の妻だった娘が、公家の権中納言・藤原国通に再嫁していたため、牧の方は京都の藤原家に身を寄せて、贅沢に暮らしたと伝わります。
嘉禄3年(1227年)3月、藤原国通の屋敷にて、北条時政の13回忌を行なった記録がありますが、羽振りがよい振る舞いを、明月記を著した藤原定家は批判しています。

ただし、牧の方の父とされる牧宗親は、藤原宗親(ふじわら-むねちか)と、同一人物とする説もあります。
その場合、平清盛の継母・池禅尼(いけのぜんに)の弟が藤原宗親ですので、牧の方は、藤原氏が出身で、京から嫁いだと言う事になります。
それを考慮すると、平賀朝雅の妻だった娘が、藤原国通に嫁いだのは、容易に考えられる次第です。

1979年のNHK大河ドラマ「草燃える」では、女優の大谷直子さんが、牧の方を演じられました。
2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、牧の方を、女優の宮沢りえさんが演じられます。

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