弥助(やすけ)の解説 アフリカ生まれのサムライ

弥助

日本をほぼ手中に治め、天下統一目前であった織田信長のもとを訪れた宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが連れてきていたのが、後に弥助(やすけ)と名付けられるアフリカ出身の大男であった。
信長の家臣として召し抱えられた弥助は、明智光秀による日本史最大のクーデター「本能寺の変」の渦中にも身を投じることとなるのであった。

アフリカで生まれ、日本の武士となった弥助は、見知らぬ異国の地でどのような人生を送ったのであろうか。
そして、信長との関係とは。

今回は、アフリカ出身の武士として織田信長に仕えた、弥助の人物像に迫ってみたい。

弥助-ヤスケ-

生誕・没年:不詳
出身:アフリカ、現在のモザンピーク(当時ポルトガル領東アフリカ)
「信長公紀」によると、推定年齢26~27歳、十人力の剛力、牛のように黒き身体と記されている。

弥助の来日

弥助が日本に来た経緯には、15~19世紀に行われていた、ヨーロッパ~アフリカ~アメリカ大陸による大西洋奴隷貿易(三角貿易)が関係している。
その頃、同じアフリカの国々による戦争の捕虜や、奴隷、犯罪者をはじめ、奴隷狩りによって拉致された人々がスペイン・ポルトガル・オランダ・イギリス・フランス・デンマーク・スウェーデンといった欧州諸国に売買されていた。



一部のアフリカの国は、同じアフリカ大陸に住む人々をヨーロッパの貿易会社に売り渡すことにより利益を得ていたのだ。
まれに、ヨーロッパ人によって直接現地の人を奴隷狩りで拉致をしたケースもあったとされる。

詳しい経緯は不明だが、弥助も奴隷としてインドに渡り、イエズス会の宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノに買われた。
そして1581年3月27日(天正9年2月23日)、織田信長に謁見したヴァリニャーノが引き連れていた奴隷が弥助であった。

ヴァリニャーノが連れていた奴隷を見た信長は、アフリカ人であった彼に対し、今までに見たこともない風防に大変な興味を抱いた。
そんな信長は、ヴァリニャーノと交渉し彼を譲り受け「弥助」と名付ける。
しかも、信長は弥助を奴隷としてではなく、正式に武士の身分を与え、自分の身近に置いたのだった。

信長と弥助の関係

弥助を気に入り、いずれは城主にしようとも考えていたともされる信長であったが、当初は肌の黒さを信じることができず、バテレン(キリシタン)が自分を騙すために黒い墨を体に塗っているという疑いを持つほどであったという。
そこで信長は小姓に命じ、弥助の体を洗わせた。しかし、洗っても体は白くはならず、きれいになっていっそう黒光りしたのを目にし、ようやく弥助の肌が本当に黒いことを信じたという逸話が残っている。

さらに、弥助が身を置いていた京都では、日本人とは異なる容姿により、物珍しさのため周囲には見物人が殺到した。
大騒ぎとなり、その原因が自分にあることに、弥助も見知らぬ地で困惑していたに違いない。



信長も弥助と幾度かにわたり引見し、仲を深めていった。
弥助も日本語を学び、徐々に会話ができるようになり、怪力を用いた芸なども信長に披露していたという。

そんな折、信長は家臣を引き連れ弥助に市中巡りを行わせた。
これは、京都の庶民に、弥助が信長の家来であることを知らしめるために行ったとされる。
それだけ、信長が弥助を気遣っていたことの証拠でもあろう。

本能寺の変とその後の弥助

織田信長は弥助に、私宅や腰刀も与え、道具持ちもさせるほど身近に置き、戦も同行させていたとされる。
後の天下人、徳川家康の家臣であった松平家忠の記した「家忠日記」には、甲州征伐(武田勝頼征伐)の帰路にて、織田軍が徳川領を通過した際、弥助という名の黒き大男が扶持もちとしての士分として召し抱えられていたという目撃談の記述もある。

そして、1582年6月21日(天正10年6月2日)に起こった「本能寺の変」の際にも、弥助は信長に同行していた。
弥助は、明智光秀の謀反により、炎に包まれた本能寺から、信長に家督を譲られた織田信忠のいる二条新御所に異変を知らせるために向かう。
これが信長の命令であったのか、本人の意思であるかは不明である。

そこで弥助は、やがて二条新御所押し寄せてきた明智軍と、信長の後継者である信忠を護るために戦った。
奮闘の末、敵軍の呼びかけにより投降し、明智軍に捕縛されるのだった。



「イエズス会日本年報」によれば、形勢不利の中長時間にわたり戦っていた弥助に、明智の家臣が近付き「恐るることなくその刀を差し出せ」と言われ、これを渡したとある。

その後、弥助の処分をどうするかという家臣の問いに、明智光秀は「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」と応え処刑は行わず、さらに「インドのパードレの聖堂に置け」と命じる。
これにより弥助の身柄は、イエズス会により京都に建造された教会堂「南蛮寺」に送られ、一命を取り留めたのだった。

このときに光秀が発言した内容については、人種差別からだという見方と、弥助への温情で助命するための方便であるという説があるが、真相は明らかではない。

それからの弥助がどのような運命を辿ったかは、史料には残っておらず定かではない。
後年の史料にも、アフリカ系だと思われる人物が登場する記述や絵がある。それが弥助だという説もあるが、その後アフリカ人が何人も日本にやってきていることもあり、信憑性を裏付ける証拠は何もない。

そのため、弥助が南蛮寺に送られた後、どういう人生を送ったかはわからない。
しかし、何も知らない異国の地で、不安と絶望を感じていたであろう弥助に、奴隷としてではなく、ひとりの人間として手厚く遇してくれた信長に対し、恩義の念を抱いていたことは間違いないであろう。
だからこそ、織田家のために彼は自らの命を賭けて戦ったのだ。もはやそこに、日本人やアフリカ人といった人種の問題など何も存在しない。
肌の色が白かろうが黒かろうが、そこにあったのは、人と人との心が通った関係だけである。
むしろ他に何が必要であろうか。



そんな信長との思いを胸に、弥助がその後、幸福な人生を送ったことを願わずにはいられない。
これは、当時の日本で頂点に立った男と、異国の地より家族と引き離され連れてこられた男との絆が生んだエピソードである。

(寄稿)探偵N

ルイス・フロイス ヴァリニャーノ 黒人・弥助
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