根来大善(根来盛重) 根来衆の頭領

根来大善(根来盛重) 根来衆の頭領

根来盛重(ねごろ-もりしげ)は、戦国時代から江戸初期の僧侶であり武将です。
根来寺・成真院の住持で、根来衆の筆頭と目されました。
もともとは、和泉・熊取谷(泉南郡熊取町)にある郷士・中家に生まると、幼いころから根来寺にて修行し、成人すると成真院の住持になりました。

どうやら、根来大善(根来盛重)は3男だったようで、長兄・中盛吉(中左近)は中家を継ぎ、次兄・中盛豊(中左大夫)は降井家にと家督を分離した模様です。。
また、時期は不明ですが、根来大善(根来盛重)は同郷である霜盛勝の養子にもなったようです。

長男は根来中左近盛吉、次男は根来左近左、三男は根来右京進と称しています。
なお、次男の根来左近左は、大久保村の古井太三郎の養子となって、中左近盛勝の家督を分離すると中を苗字にして、中左太夫を名乗ったともあります。


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根来盛重(成真院盛重)自身も、異名がたくさんあります。
姓名は、奥、高瀬、隆井(高井)、北、西、霜、口、若、門村、門、門野、門ノ、目、目形、女形、樫井、清原、藤原、そして根来です。
ただし、中、または門村、根来を使った史料が多いです。
名もたくさん用いており、熊取大納言坊、小左次盛繁、中盛政、根来右京進、根来大膳、根来大善、嘉祥寺右近、北右近、根来左京(2代目)など伝わります。
この別名の中では、根来大善、熊取大納言坊、根来右京進、根来左京、嘉祥寺右近の名がよく知られています。
このように、非常にたくさんの名前があるため、これまでの研究者の資料じたいが混同している部分も多々あり、調べるのも難しい人物です。

1584年、根来大善(根来盛重)は、小牧・長久手の戦いの際に、手薄となった大阪城を狙おうと雑賀衆、粉河衆と連携し、根来衆ら3万にて岸和田城を攻めました。
根来大善(根来盛重)は、愛染院長算とともに、根来衆の中心人物として出陣しており、蜂須賀家政の家臣・山中左平次を討ち取るなどしています。
しかし、中村一氏松浦宗清らは岸和田城をよく守り、落とすことはできませんでした。

1585年、豊臣秀吉は10万とも言う大軍にて紀州征伐を開始すると、根来衆・雑賀衆らは和泉の戦線にて抵抗しましたが敗走し、根来大善(根来盛重)は根来寺を捨てて郷里に逃れたようです。
そのあと、高野山の富喜(ふき)を経て、根来衆50名と根来法師を引き連れると、浜松城徳川家康を頼りました。
そして、還俗すると根来氏を称したようで、成瀬正一の配下となった根来組・鉄砲隊を率いた模様です。

根来大善(根来盛重)は関ヶ原の戦い、大坂冬の陣・大坂夏の陣にも参じて功績をあげ、1622年には、和泉国の代官を命じられました。
1625年、大和宇智郡にて750石となっていますが、最終的に根来氏は、3450石の旗本になった模様です。


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根来盛重は、1641年に死去しました。享年86。
墓所は大阪市中央区の法雲寺です。

根来寺 荘厳な雰囲気な根来衆の本拠地
積善寺城 根来衆などが立て籠もった和泉の城跡
千石堀城 和泉にて対抗した根来衆の砦
和泉・高井城 失われつつある遺構
中村一氏 秀吉に信任され対徳川家康の最前線を守った譜代の臣
岸和田城 数々の合戦を経験した続日本100名城
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