新田義貞とは 鎌倉幕府を滅亡させるも

新田義貞

新田義貞(にった-よしさだ)は、鎌倉時代末期の1301年頃に新田朝氏の嫡男として生まれました。
母は不詳ですが、諸説ある出生地のひとつは、反町館となっています。
新田義貞の正室は、常陸・小田城主である小田真知の娘(小田治久?の娘)で、側室は天野時宣の娘です。

反町薬師

新田氏(にった-し)の先祖は、河内源氏の棟梁・源義家(源八幡太郎義家)の3男である源義国とされ、河内源氏の所領になっていた足利荘を本拠としました。
そのうち、源義国の長男である新田氏の宗家は、上野・新田荘を開発し、次男である足利義康は足利荘に分家したと言う形になります。
源頼朝鎌倉幕府を開くと、同族だった新田義重(源義重)は協力しました。
しかし、源頼朝が見初めた新田義重の娘・祥寿姫を側室を出すことを拒んだとされ、新田氏は冷遇されました。
やがて、世良田氏、額戸氏、岩松氏など一族に領地も分割し衰退して行き、分家の足利家の方が勢力を伸ばしています。
そんな中、1318年に父・新田朝氏が死去すると、新田義貞が家督を継ぎましたが、大舘家氏・世良田満義や新田義貞も、資金に困っていたのか、領地を奪われないようにしたのか?、新田一族は所領を長楽寺などに売却しています。
この頃、後醍醐天皇は鎌倉幕府への不満を抱いており、やがて倒幕計画を立てます。


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1331年、新田義貞は大番役として京におり、1332年、後醍醐天皇の呼びかけにて河内・下赤坂城にて楠木正成が挙兵すると、新田氏は鎌倉幕府の命を受けて討伐に向かい、千早城の戦いに参加しました。
ところが、1333年、新田義貞は病気を理由に突如、新田荘に帰還していまが、護良親王から倒幕の打診を受けたものと推測されています。
この理由としては、軍費が重なった鎌倉幕府が、臨時の税金を新田荘から徴収しようとしてトラブルになった可能性があります。
新田義貞は、幕府から派遣された黒沼彦四郎を殺害したともされ、執権北条高時は報復として、江田館主・江田行義の所領を勝手に寄進したともあります。
そのため、ついに新田義貞は挙兵を決意し、賛同する一族や周辺豪族を生品神社に集めました。

下記は、新田義貞挙兵の地となっている生品神社です。

生品神社

挙兵時に集結した武士は、新田義貞、弟・脇屋義助、親族の大舘宗氏、大舘氏の子である大舘幸氏、大舘氏明、大舘氏兼、堀口氏館の堀口貞満、江田館主である江田行義、岩松経家、里見義胤、桃井尚義ら、ほとんど新田一族で、兵力としては600程度でした。
笠懸野から西へ進み、越後から駆けつけてきた新田一族に1万と利根川で合流し、そして、甲斐源氏・信濃源氏も合わせると新田勢は約2万5000(7000騎)の大軍になったようです。
こうして、新田義貞は南下を始めて武蔵へ進みました。
挙兵した日にちは、1333年5月8日頃と推測されています。


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一方で、足利尊氏も、1333年4月29日に、丹波・篠村八幡宮にて挙兵し、京の六波羅探題を攻めていたことから、鎌倉で人質になっていた足利尊氏の嫡男・千寿王(足利義詮)が、鎌倉から新田義貞の軍勢に加わります。
そのため、河越高重ら関東各地から加勢する者が現れ、その数は20万騎にまで膨れ上がったとされています。

これに対し、鎌倉幕府は、桜田貞国を総大将、長崎高重、長崎孫四郎左衛門、加治二郎左衛門らを派遣して入間川で迎撃態勢とる予定でしたが、新田勢の進軍は早く、小手指原の戦い、久米川の戦いで勝利しました。

その後、鎌倉幕府は北条泰家を大将に増援したため、分倍河原の戦いでは、苦戦を強いられましたが、北条氏寄りだった相模の三浦一族も新田勢に加わり、形勢逆転しています。
更に、関戸の戦いにて幕府勢に大勝すると、勢いに乗った新田義貞は、そのまま鎌倉になだれ込みました。

霞ノ関南木戸柵・関戸

由比ヶ浜の戦いで、鎌倉幕府軍は最後の抵抗を試みましたが壊滅し、長崎思元、大仏貞直、金沢貞将らの奮戦むなしく執権・北条高時らは自刃しています。
新田義貞挙兵から、僅か15日程度で、鎌倉幕府は滅亡しました。

京都では足利尊氏の尽力で、後醍醐天皇が復帰しており、天皇により論功行賞が行われると鎌倉にも伝わると、御家人らは、みな、京へ上洛したと言います。
1333年6月、新田義貞も京に上ったため、足利氏が鎌倉の統治を行う余地を与えてしまいました。
上洛すると、無官だった新田義貞は従四位上に叙され播磨守となり武者所頭人、弟の脇屋義助は駿河守、長男・新田義顕も越後守と従五位上になっています。
ところが、後醍醐天皇から勲功第一とされた足利尊氏は、従三位と武蔵守に任官された上、鎮守府将軍に任ぜられ、弟・足利直義が鎌倉を支配し、武家政権を築いて行きます。

しかし、父・後醍醐天皇と仲が悪かった護良親王が、足利尊氏とも対立して失脚すると、1334年、護良親王は鎌倉で幽閉されました。

護良親王が幽閉された土牢

1335年7月には、北条高時の遺児・北条時行が擁立されて北条氏の残党が信濃で放棄すると、鎌倉を占領した中先代の乱となります。
このとき、新田一族の岩松経家が討死し、足利勢の中では、新田一族の鳥山氏盛、烏山宗兼、烏山氏綱、大舘時成も討死していますので、新田一族も、新田義貞に従ったものと、足利尊氏になびいたものと分裂していたようです。
更に、岩松家の所領は、足利家が擁立した岩松直国に与えられ、新田義貞と足利尊氏の対立は決定的となりました。
足利尊氏は、鎌倉幕府打倒の功績は、息子・千寿王(足利義詮)によるものであり、新田義貞の挙兵は朝廷への忠義でも無く、私利私欲に走ったとして認めなかったようです。
しかし、足利尊氏は無断で鎌倉奪還のため関東に出兵し鎌倉で独自に恩賞を与えはじめたのと、鎌倉にて護良親王を足利直義が殺害したことを重く見た朝廷は、足利氏討伐の方向に傾き、後醍醐天皇は新田義貞に対して、足利尊氏・足利直義追討の宣旨を発します。

こうして「官軍」となった新田義貞は、尊良親王を奉じ、脇屋義助・脇坂義治・堀口貞満・千葉貞胤、宇都宮公綱、北畠顕家、武田氏、河越氏、大友氏、大内氏、厚東氏、佐々木氏などの大軍にて鎌倉へ進軍しました。
朝敵となった足利勢は士気が上がらず、新田勢は箱根まで連戦連勝でしたが、足柄峠の戦いなどでは、足利尊氏の直接指揮にて足利勢が有利に進めました。
その結果、大友貞載、塩冶高貞、佐々木道誉らが寝返り、新田勢は大敗を喫して総崩れとなりました。


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新田義貞らは京に戻りましたが、そのうしろからは、足利尊氏が破竹の勢いで迫ってきました。
足利尊氏は光厳上皇と連絡を取って京へ入ったため、後醍醐天皇は比叡山に楠木正成・新田義貞らと逃れています。
しかし、奥州から駆けつけた北畠顕家が後醍醐天皇と合流すると、反撃に出て、足利尊氏を一時九州へと退かせています。
新田義貞は戦功第一と目されて、後醍醐天皇より、勾当内侍と言う美女を、恩賞として与えられたとされます。

ところが、逆に足利尊氏は、九州に逃れる途中、光厳上皇から、新田義貞追討の院宣を獲得すると、少弐頼尚・宗像氏範・吉川実経など、後醍醐天皇に不満を持つ武士らが続々と味方します。
そして、足利勢が再び京へ進軍したため、湊川の戦いで新田義貞と楠木正成は敗れて、再び京都を失いました。
小山田高家が、自分の馬を新田義貞に差し出し、身代わりとなって討死して、逃したとあります。
そして、光明天皇を擁立した足利尊氏は、、建武式目十七条を定めて「室町幕府」を発足させました。
後醍醐天皇は吉野に逃れて、南朝を設立することになりますが、新田義貞は、恒良親王・尊良親王と共に、北陸方面に後退し、新田一族の江田行義、大舘氏明、洞院実世、千葉貞胤、宇都宮泰藤らが従っています。
そして、勾当内侍と別れ、敦賀に入ると、金ヶ崎城にて籠城しました。

金崎宮

やがて、高師泰を総大将にした、斯波高経、仁木頼章、小笠原貞宗、今川頼貞、細川頼春らの軍勢によって包囲されると、長期間に及ぶ籠城となり、餓死する者が多数出たと言います。
そして、落城すると長男・新田義顕と尊良親王は自害し、恒良親王は捕虜となりました。
新田義貞はその後、再挙を図った杣山城からも後退し、1338年、越前・藤島城を攻撃しようとした、灯明寺畷の戦いにて、斯波高経や吉見頼隆らと交戦し討死しました。享年38。

燈明寺畷新田義貞戦歿伝説地

現在、新田義貞の墓は、丸岡城近くの称念寺に伝わっています。

生品神社

新田義貞が挙兵した生品神社(いくしな-じんじゃ)は、、群馬県太田市新田市野井町にある神社で、国の史跡「新田荘遺跡」の一部として指定されています。

生品神社

下記は、生品神社の御神木で、毎年5月8日には「鏑矢祭」が行われています。

生品神社の御神木

生品神社への交通アクセスですが、神社の南側に無料駐車場があります。
ただし、神社に用事が無い方も、止めているケースがあるようです。
近くには、反町館跡もありますので、セットでどうぞ。

新田義貞とは~鎌倉を落とした男【新田義貞挙兵の地】
脇屋義助の解説 新田義貞の実弟
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