丹後内侍 丹後局 2人の解説【島津忠久の母】

丹後内侍 丹後局

丹後内侍とは

丹後内侍(たんごのないし)は、平安時代末期~鎌倉時代初期の女性で、比企掃部允の娘として生まれました。
生没年は不詳ですが、母は比企尼(ひきのあま)で、1147年に、藤原季範の別邸(熱田・誓願寺)にて由良御前源頼朝を産むと、母・比企尼は源頼朝の乳母を務めていました。
母・比企尼が産んだ娘としては、長女と考えられる丹後内侍の他に、次女と推測される河越重頼の妻(河越尼)、三女である伊東祐清の妻(のち平賀義信の妻)の3人がいます。
男子はいなかったようで、比企家の養子になった、比企能員がおり、源頼朝の信任厚い側近となりました。

<注釈> 同年代に、後白河法皇の寵愛を受けた「丹後局」の解説は別途こちら


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吉見系図では、丹後内侍は、京の二条院(二条天皇)のもとで、女房(女官)となっていました。
内侍(ないし)と言うのは役職名で、天皇の近くで宮中における経理・総務・人事・庶務などの事務処理全般を行う、女性だけの機関で、今でいう「秘書」のような仕事をしていたと言えます。
そして、丹後内侍は、貴族・惟宗広言に見初められたようで、密かに通じると、島津氏の祖となる島津忠久(惟宗忠久)を生んだとされています。
ちなみに、二条院には、源頼政の娘・二条院讃岐も、女房として出仕しておリ、1165年、二条天皇院が崩御したあと、藤原重頼と結婚しています。

離縁して関東の実家に赴いたあと、源頼朝の近くに仕えていた安達盛長に嫁ぎました。
安達景盛、安達時長、源範頼の妻(亀御前)を産んでいます。

なお、伊豆で流人となったいた源頼朝に対して、比企掃部允と比企尼は、挙兵するまでの20年間、武蔵国比企郡の領地からずっと仕送りを続けたと言います。
源頼朝が伊東祐清の姉妹・八重姫と恋仲になり、千鶴丸が産まれた際には、八重姫の父・伊東祐親は千鶴丸を殺害して、源頼朝も討ち取ろうと考えます。
このことを、伊東祐清(いとう-すけきよ)の妻は、丹後内侍の末妹である・比企尼の三女(名前不明)であったため、その三女を通じて、源頼朝に危険を知らせたとあります。
源頼朝の挙兵後、捕らえられた伊東祐親と伊東祐清の父子は、命を許されると平家に再び加わりましたが、1182年2月15日、伊東祐親が自害した際に、伊東祐清も死を願ったため、源頼朝は、心ならずも殺害したとされています。
こうして、未亡人とになった丹後内侍の末妹(比企尼の三女)は、連れ子を伴って源氏の平賀義信に再嫁しました。

1182年3月9日、北条政子が懐妊すると、丹後内侍が、着帯の儀式で給仕を務めています。
1182年8月12日に、北条政子が源頼朝の嫡男・源頼家を、比企能員の屋敷にて産むと、丹後内侍の妹・河越重頼の妻(河越尼)が、乳母となって、最初の乳を含ませる「乳付けの儀式」を行っていますが、比企尼の三女も乳母となりました。
その河越重頼の妻(河越尼)が産んでいた郷御前は、源義経の正室になっています。
そのため、源義経が鎌倉幕府の言う事を聞かなくなると、1185年、河越重頼は所領を没収され、子の河越重房と共に誅殺されました。
そのため、比企尼の次女(河越尼)は出家しています。

1186年、丹後内侍が病に伏せると、源頼朝は、小山朝光(結城朝光)と千葉胤頼(東胤頼)の2人だけ連れて、安達盛長の屋敷を密かに訪れて見舞い、願掛けも行ったと言います。


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丹後局(丹後の局)ですが、北条政子から命を狙われた際に、一夜にして白髪になったため、厚木の「小野の里」にて匿ったともあります。
保護した場所は、愛甲城なのか、愛甲三郎館なのか定かではありませんが、日向薬師に預けたともされ、北条政子が差し向けた軍勢により、愛甲館、相模・石田城が焼討ちされたともあります。
小野の里は、小野妹子の子孫とされる横山党の一族・愛甲季隆の領地でして、美しい黒髪で名高かった小町姫(愛甲氏の娘か?)が数日間祈願を続けたところ、不思議なことに丹後局(丹後の局)は黒髪に戻ったとされています。
(注釈) 1213年、和田合戦のあと、大江広元の4男・毛利季光も、この付近(毛利荘)を領有し、戦国武将・毛利元就に繋がります。

和田合戦

丹後内侍が産んだ島津忠久(惟宗忠久)ですが、島津氏の資料では、母は「丹後局」とあります。
この江戸時代に作成された島津氏史料によると、丹後局(たんごのつぼね)は、源頼朝の寵愛を受け、身ごもりますが、北条政子の逆鱗に触れて、鎌倉から追放されました。
そして、西国へ下る途中、摂津の住吉神社(住吉大社)の境内で、男子を出産したと言います。
その子は、丹後局が再嫁した惟宗広言のもとで養育され、7歳のとき、鎌倉にて父・源頼朝と対面し、畠山重忠より一字を得て惟宗忠久(これむねただひさ)と称したとあります。

他には、横浜市戸塚区上矢部にも、丹後の局・供養塔や、丹後の局が出産したと言う神明社の伝承があります。

丹後の局・供養塔

このように、島津忠久(惟宗忠久)は、源頼朝の落胤だとする伝承があり、別の説では、丹後局ではなく、八重姫との子ともあります。
のち、島津忠久(惟宗忠久)は、源頼朝から薩摩・大隅・日向と三カ国もの守護を任じられていることからも、源頼朝の庶子である可能性があります。
しかし、母親に関して、丹後内侍は、はたして、丹後局なのか?と言うところに、疑問を感じる次第です。

丹後内侍は丹後局なのか?

丹後内侍 = 丹後局 と言うのは、単に呼び名が似ているだけでして、丹後内侍が、丹後局である確証は、乏しいのではと小生は考えております。

惟宗広言(これむねひろのり)は丹後局とともに薩洲に下向し、薩摩・鍋ヶ城に入ったとあります。
また、市来駅の近くに「丹後局舟着場跡之碑」があり、島津忠久が薩摩に下った際に、生母・丹後局と一緒に上陸した地点とされます。

これらを受けますと、丹後局と言う女性は存在したものと推測されます。
しかし、丹後局が、丹後内侍と同一人物であるとするのには「無理」があるように感じます。
推測になってしまいますが、丹後局は、丹後(たんご)から来た女性で、鎌倉幕府にて北条政子に仕えていた女官だったものと感じますが、要するに、源頼朝の手がついて、ご落胤・惟宗忠久を産んだのでしょう。
しかし、惟宗忠久の初見は1179年で『山槐記』や『玉葉』に「左兵衛尉忠久」として記載されていますので、生まれた年を想像しますと、1165年前後ではないか?と推測されます。
仮に、島津忠久は、1165年に生まれたとして、源頼朝の子だとすると、源頼朝が伊豆で流罪となっていた際の19歳頃に「丹後局」に産ませたことになります。
北条政子が大姫を産んだのは1178年で、。源頼朝の最初の妻とされる八重姫が千鶴御前(千鶴丸)を産んだため、伊東祐親が源頼朝を殺害しようとしたのは1175年とされますので、それよりもだいぶ前に「丹後局」が、島津忠久を産んでいたと言う事が言えます。


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比企尼は、1180年頃まで、伊豆の源頼朝を支援していましたので、側近くに、娘を給仕として使わしていた可能性はある訳です。
比企尼の次女・河越尼が、北条政子が産んだ源頼家の乳母になったは、1184年です。
その頃、河越尼が子供を産める若い女性だったとして、仮に15歳と見積もった場合、河越尼の生年は1169年頃より前となります。
となりますと、その河越尼の姉である丹後内侍は、何年頃に誕生していたのか?
丹後内侍が丹後局と同一人物だとして、子供を産める若い女性だったとして、仮に15歳と見積もった場合には、1150年頃の前の生まれとなります。
となると、丹後内侍が丹後局と同一人物の場合、妹・河越尼とは、14歳くらい、年が離れていたと言う事が言えます。
14歳くらい、姉妹で離れていても、問題は無いのですが、あくまでも仮説での年齢ですが、通常で考えますと、ちょっと、離れ過ぎかな?とも感じます。
二条天皇が崩御したのは、1165年ですので、仮に天皇の存命中に丹後内侍が、二条院で女房をしていたとした場合、1165年の時点で、上記に推測によると、丹後内侍は16歳くらいですので、年齢的には、ギリギリ、若い女官として、入ったばかりとも推測されます。
ただし、丹後内侍が秘かに通じたとされる惟宗広言は、1132年の生まれで、1189年に没していることがわかっていますので、惟宗広言の子として、島津忠久が存在するのは不思議ではありません。
そして、島津忠久は、1165年に生まれたとも推測される訳です。
ただし、丹後内侍の「内侍」と言うのは、それら、女官らを取り仕切る主任のような役割ですので、若い女官として、宮中に入ったばかりで、丹後内侍になったと考えるのは、妥当ではありません。


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これらの当方の仮説から、考えられる線としては、やはり、丹後内侍は、丹後局と「同一人物ではない」と推測する次第です。(あくまでも、ひとつの説としての推測です)
ただし、丹後局も、丹後内侍も、女性として、同じ時代に、存在したものと推測します。
島津忠久の母が「丹後局」とした場合、この丹後局と言うのは、恐らくは、たまたま、丹後内侍と似た名前で重なったものと推測します。
伊豆にて女中をしていた女性に、源頼朝が手を出したとは考えにくいのですが、いずれにせよ、島津忠久の母は、惟宗広言の世話を受けて、島津忠久は惟宗忠久として育った可能性はあるでしょう。
気になるのは、比企尼の出身ですが、伝わっていません。
しかし、そもそも、夫である藤原秀郷の流れを汲む比企掃部允と「京」にいたことから、比企尼は、京の貴族などが出自である可能性もあります。
比企尼は、藤原公員の妹であったともされ、藤原公員の子を養子に迎えたのが、比企能員ともされます。
宮中にした丹後内侍が、島津忠久を産んでいないとしても、比企尼が、源頼朝の落胤である島津忠久の養育者を探したところ、同じ藤原氏で縁があった惟宗広言が引き受けてくれたとも考えられます。
そして、島津忠久の母は、丹後局と言う事であったので、いつのまにか、惟宗広言と丹後内侍に生まれた子が、島津忠久であると言う事に、なってしまったとも考えられます。
いずれにせよ、島津忠久は、比企尼と縁があったため、源頼朝の死後の1203年、比企能員の変の際に連座し、北条時政によって、大隅・薩摩・日向の守護職を没収されました。
しかし、1213年、薩摩国の地頭職に復帰し、薩摩・島津氏の租となったのです。
なお、島津忠久は、惟宗忠康と丹後局の子で、1179年に惟宗忠康が死去したので、妻子で、一族の惟宗広言の屋敷に入ったとする説もありますので、念のため、明記しておきます。

宜秋門院丹後の存在

更に、ややっこしくするようで、恐縮ですが、宜秋門院丹後(ぎしゅうもんいんのたんご)と言う、源頼行の娘がいます。
源頼行(みなもと-よりゆき)は「丹後守」であり、兄の源頼政は、以仁王の挙兵に加担し、宇治にて自刃したので、宇治平等院に墓があります。
その兄・源頼政の娘である二条院讃岐(にじょういんのさぬき)は、内裏女房として出仕していたのは、前述したとおりです。
宜秋門院丹後も、二条院讃岐と共に「女房三十六歌仙」に、女性歌人として選出されるなど、1175年頃から多くの歌会・歌合に参加しました。
島津忠久は、1165年に生まれたとも推測されるのですが「丹後局」とは、宜秋門院丹後の事、もしくは、丹後守である源頼行の別の娘で、1179年に死去した惟宗忠康との間に生まれていたのが、島津忠久であったとも推測できます。
まぁ、このように、色々と推測することが、できてしまいますので、島津忠久の出自は不明といったところでしょう。

ちなみに、比企能員と丹後内侍の娘・若狭局(わかさのつぼね)は、鎌倉幕府第2代将軍・源頼家の寵愛を受け、1198年に、一幡(いちまん)という子供を生みました。
しかし、比企能員の乱で、比企一族が自刃した際に、6歳の一幡と、若狭局は、北条義時の追っ手により、殺害されました。


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以上ですが、上記にあくまで仮説でして、サイトに入っている他の記事も含めて、すべて正しいと主張するものではありません。
皆様も色々なご意見をお持ちだと存じますので、何かあれば、コメント欄にお寄せ頂けますと幸いです。
※折り返しのコメントの返信は差し控えますので、ご了承願います。

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