藤原秀郷をわかりやすく解説~坂東武士の憧れとして多くの武家を残し現代日本人に通じる英雄

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藤原秀郷

藤原秀郷とは

藤原秀郷(ふじわら の ひでさと)は、平安時代中期の貴族で武将で891年頃生まれた。
通称は俵藤太(田原藤太)と言う。
<注釈> 藤太は藤原氏の長であり太郎と言う意味と同じ。

父・藤原村雄(ふじわら の むらお)は藤原北家の一族で従四位下・河内守・下野守。
下野大掾を世襲しており、父・藤原村雄も下野国にいたものと推測される。

<注釈> 大掾(だいじょう)と言う役職は「大掾とは」だが、下野国にて一番エライ人は下野守で、No2が下野介、そして、No3が下野大掾(だいじょう)と言う事になる。
追捕使・押領使・大掾などの地方派遣の任期は約3年程度で、任期満了となると中央(京都)に戻るのが普通。ただし、実際にその国での実務(税徴取・田植えに必要な稲貸しなど)を担当できるため、富を得やすく京に戻らず土着する者もいた。


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そもそも藤原氏の始まりは、飛鳥時代の669年に天智天皇(中大兄皇子)が中臣鎌足(なかとみのかまたり)に対して「大織冠」という当時最上級の冠位と「藤原」の姓を与えた事から始まる。
子の藤原不比等は、天皇の臣下として最高位となる藤原朝臣(ふじわらのあそん)の姓を賜り、藤原氏は藤原四家となって繁栄した。
平安時代・平安京にいた貴族の約6割~7割は藤原氏を称していたと推測できる。
そのため、中級・下級貴族の中には活躍の場を地方に求める貴族もいたのだ。

下野・藤原氏を少し詳しく明記すると、諸説あるが一般的には藤原北家魚名流とされる藤原魚名の子で、伊勢守・藤原藤成が下野史生・鳥取業俊の娘との間にもうけたのが下野権守(下野少掾とも)・藤原豊沢。
その藤原豊沢が下野史生・鳥取豊後の娘と結婚し、生まれたのが下野大掾・藤原村雄(藤原秀郷の父)であり、栃木の有力者である下野掾・鹿島直行の娘との間に生まれたのが藤原秀郷と言う事になる。
鹿島直行は常陸・鹿島神宮の大宮司(社家)に縁がある一族と思われるが詳細は不明。

このように、成長した藤原秀郷も権力を保持し、下野国の豪族や農民を配下に収めていた。
弟らに、藤原宗郷、藤原高郷、藤原永郷、藤原興郷、藤原友郷、藤原時郷、藤原春郷、そして平国香の妻になった女性がいる。

藤原秀郷の妻として伝わっているのは、侍従・源通の娘、秦氏の娘。
子としては、藤原千常、藤原千時、藤原千晴、藤原千国、藤原千種がおり、秀郷流の藤原氏として子孫を多数残して行くことになる。
そのため、鎌倉武士や戦国武将などを調べていると、かなり高い確率でこの藤原秀郷にたどり着くため、長年、気になっていた武将であった。


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なお、藤原秀郷は権勢を振るい過ぎたのか?、日本紀略によると916年、隣国である上野・国衙への反対闘争に加担した罪を問われて連座したようで、一族17人(もしくは18名)とともに配流が決定した。
理由など詳細は不明だが、916年、上毛野ノ基宗が上毛野貞並と一緒に、上野介・藤原厚載を討ったので、基宗と貞並は武蔵国で捕縛されている。
この時、上野大掾家・藤原連江は中立を保っているが、この事件に関連する可能性がある。

しかし、莫大な財力から賄賂でも送ったのか?、実際に配流にはならなかったようだが、その後、929年、藤原秀郷は乱行があって、下野国衙より糺勘(きゅうかん)されたともある。
そのためか、佐野に唐沢山城を築城したとされる。

そして、藤原秀郷を一躍有名にしたのは、平将門の乱を鎮圧したことだ。

平将門の乱を平定

平将門の父・平良将は平高望の3男で、898年に平高望が上総介に任じられ、関東にやってきて下野・藤原氏と同じようにそのまま土着し、勢力を強めていた。
そして、平氏一族の争いを制すと常陸国府を焼き討ちした。
更に、下野・上野の国府へも進撃し、武蔵・相模も掌握かるなど関東八カ国の国府を攻めた。
このままでは関東から税収の見込みが大きく減るため、朝廷は藤原忠文を征夷大将軍として派遣する。(平将門の乱)
このとき、朝廷から下野押領使・藤原秀郷にも援軍を出すように命が下ったのである。
940年、軍略に優れていた藤原秀郷は、平国香の子・平貞盛、工藤氏の祖である藤原為憲と共に、平将門の不意を突き討伐に成功した。
この頃、藤原秀郷はかなり高齢だったと考えられるが、征夷大将軍・藤原忠文の官軍が到着する前に、平将門の乱を平定したと言う偉大な功績を残した。
そのため、藤原秀郷は下野守となって下野国司になっただけでなく上野国(群馬県)と武蔵国(東京・埼玉)の国司にも任命され、坂東一の武将として人気を博し鎮守府将軍も兼任して武門の棟梁となった。
こうして、征東大将軍・藤原忠文の副将だった武蔵の源経基、平貞盛らとともに関東の武将が
軍事貴族として中央進出する道も開いた。


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その後の藤原秀郷に関しては没年などもよくわかっていない。
しかし、藤原秀郷の子である藤原千常、藤原千時、藤原千晴、藤原千国、藤原千種らは中央において源高明に仕え、官職を得るなどした。
また、鎮守府将軍となって陸奥国に勢力を伸ばしたり、関東中央部を支配する武家諸氏を輩出した。

藤原北家秀郷流

下野国
佐野氏、足利氏 (藤原氏)、小山氏、下河辺氏、益田氏、長沼氏、皆川氏、薬師寺
田沼氏、下野・小野寺氏、榎本氏

上野国
丸橋氏、大胡氏

武蔵国
比企氏、吉見氏(小山氏の支流)

常陸国
那珂氏、安島氏、小野崎氏、小貫氏、内桶氏、茅根氏、根本氏、助川氏、川野辺氏、佐藤氏、水谷氏、江戸氏、綿引氏

下総国
結城氏、下河辺氏、伊藤氏

上野国
赤堀氏、岩櫃・斎藤氏、桐生氏、佐貫氏、大胡氏、山上氏、園田氏

相模国
山内首藤氏(首藤氏→山内氏)、波多野氏(秦野氏)、沼田氏

紀伊国
佐藤氏、尾藤氏、伊賀氏、湯浅氏

近江国 近藤氏、蒲生氏、今井氏

伊勢国 伊藤氏、大口氏

信濃国 大石氏
陸奥国 奥州藤原氏

その他
内藤氏、佐藤氏、大友氏、少弐氏、龍造寺氏、立花氏、武藤氏、平井氏、筑紫氏、田村氏、大屋氏、長沼氏、長谷川氏、末次氏、大平氏など

以上のように、平泉で栄華を極めた奥州藤原氏も藤原北家秀郷流。
源義経に従った佐藤継信・佐藤忠信も藤原北家秀郷流。
鎌倉御家人となった関東武士の多くも藤原北家秀郷流。
もちろん諸説あるが、戦国時代に大名として知らせれる結城政朝、蒲生氏郷大友宗麟立花道雪龍造寺隆信波多野秀治なども藤原北家秀郷流。

このように、藤原北家秀郷流を称する武家は多い。
家系に英雄・藤原秀郷の血筋がちょっとでも入っていれば、藤原北家秀郷流を称するケースもあったと考えられるため、このように多いと言える。
例えば、波多野氏は、もともと佐伯氏であるが、平安時代後期に相模目代となった波多野経範(佐伯経範)が「妻」を藤原北家秀郷流から迎えると、佐伯氏から藤原氏を称するように変わっている。


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現代に繋がる藤原北家秀郷流のご子孫としての姓名は下記の通り。

(敬称略・順不同)

佐藤・尾藤・後藤・武藤・首藤・内藤・進藤・白川・須藤田原・亘理・鎌田・蒲生・足利・淵名・佐野・山内・大友・太田・長島・前原・柴田・高柳・園田・富田・寺内・小倉・大屋・鍋島・錦戸・泉・波多野・島田・松田・長沼・河内・伊賀・小山・結城・中沼・池田・小郷・近藤・皆川・河村・淡路・時古・林・久賀・阿曽沼・南摩・鹿沼・田沼・岩佐・新荘・増山・関・下河辺・網戸・幸島・田村・中野・南池・大河戸・大川・薬師時・神谷・山越・舟越・戸室・木村・桐生・西場・中田・岡・那珂・江戸・神馬・大胡・益田・小川・吾妻・加川・藤岡・寒川・須永・赤荻・赤堀・山上・大抜・篠崎・利根・柏木・榎本・天沼・諸野・舘野・片倉・矢島・桂野・青柳・出井・市橋・三橋・田子・武沢・小曽根・平泉・樋爪・多久・村田・室木・小谷・外島

今、ご覧頂いているあなた様が上記の姓名に該当しなくても、友人・知人の2人や3人くらいは当てはまる名字であることでしょう。
例えばですが「佐藤さん」。
佐藤さんの場合、同じ藤原北家秀郷流でも次男・3男などで直系からはずれて、別の姓名を名乗ることになったと言う訳ですが、仕事は藤原氏を補佐する「佐」(佐の意味はたすける)だったので「佐藤」と呼ばれたと言う事が言える。
飛鳥時代の日本の人口は600万人程度。
あなた様自身が、藤原氏と直接関係なくても、ご先祖様には藤原氏から妻を迎えたりしたことも考えられるし、藤原氏が登場する以前の古代からの人々の婚姻関係も含めると、日本人の多くは皆「遠い遠い親戚」と言えよう。

そんな中でも、藤原秀郷の子孫は多い部類だと推測できる。
ただし、必ず藤原北家秀郷流だと確実性が保証されるわけでいないため、家系図などの確認が必要であることは言うまでもない。

下記のような家系図制作サービスもあるため、ご参考までに。

家系図作成サービス Kakeizu Plus

流れ的に家系図づくりの話に落ち着いてしまったのは想定していなかったので、お詫びを申し上げたい。
そもそも藤原秀郷に関して詳しく調べて記事であり、気を取り直してもう少しだけ藤原秀郷に触れさせて頂く。

百足退治伝説

藤原秀郷の名が後世に伝わったのは、平将門の乱の平定だけではなかった。
御伽草子(おとぎぞうし)にある俵藤太物語として、近江国の二上山にいた大百足を退治したことが華々しく語り継がれている。

琵琶湖・瀬田にある唐橋で大蛇が寝ていて、人々が橋を渡れず困っていたところ、たまたま通りがかった田原藤太秀郷は、気にせず大蛇を踏み越えていったという。
驚いたのは、むしろ大蛇の方であり、夜、下野に下り藤原秀郷が宿泊した東海道の宿に美しい娘が訪ねてきた。
琵琶湖に住む龍神一族の娘であったとされる。
その娘は、三上山(太平記では比良山)に住む大百足が悪さをするので退治してほしいと懇願した。
そして、藤原秀郷は三上山(近江富士)に到着すると、強弓を放つも大百足の肌は固く、弓を跳ね返してしまったと言う。
困った藤原秀郷は、百足(ムカデ)は人の唾に弱い?という噂を思い出し、矢に唾を付け弓を放つと、ついに倒すことができたという。

喜んだ龍神の娘は大蛇が変化したとされ、藤原秀郷を竜宮(竜宮城)に招いて苦労をねぎらい、園城寺(三井寺)に伝わる鐘などを贈ったと言う。
伊勢神宮に奉納されている刀剣・毛抜形太刀(伊勢)と、蜈蚣切(むかできり)の二振も藤原秀郷の刀とされる。


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平安時代末期の「今昔物語集」にも俵藤太の名が登場しているが、この伝説が成立したのは南北朝時代ころのようだ。

現実的に、藤原秀郷が下野(栃木)を離れて、京に往来した記録は見当たらない。
そのため、藤原秀郷流の蒲生氏が、この物語に関わっていた可能性があるのか?
ともあれ、藤原秀郷は平将門に勝った優秀な武将と言うより、多くの武将があこがれた「偉人」の部類に入るかも知れない。

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