天王寺の戦い~奇策によって数的不利から勝利した織田信長

天王寺の戦い

信長包囲網

天王寺の戦いは、1570年(天亀元年)から始まった織田信長石山本願寺(一向一揆)との戦いである石山合戦の1つとされています。
この戦いは、1576年(天正4年)6月3日に摂津天王寺(現在の大阪府大阪市)で行われました。

石山合戦に至ったのは、織田信長の無理難題によって苦しめられていた石山本願寺宗主・顕如が、1570年(天亀元年)に各地へ打倒信長を呼びかけて本願寺門徒に一向一揆を起こさせたものですが、将軍・足利義昭による信長包囲網の一端を担うものでもありました。

それから本願寺も一向一揆で織田軍と一進一退の攻防を繰り広げていったのです。
しかし、圧倒的に有利と思われた信長包囲網に暗雲が立ち込め始めます。


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1573年(天正元年)4月に武田信玄が上洛途中に急死。
1573年(天正元年)7月に将軍・足利義昭が織田信長によって京から追放。
1573年(天正元年)8月に一乗谷の戦いで朝倉氏滅亡、9月に小谷城の戦いで浅井氏滅亡
1573年(天正元年)11月に若江城の戦いで三好氏滅亡
1574年(天正2年)7月の第3次長島攻めで一向一揆の門徒衆2万人を殲滅

この段階で既に信長包囲網は崩壊しかけていましたが、勢いが止まらない織田信長。
1576年(天正4年)5月
これまでの戦い方を大きく変えた鉄砲中心の長篠の戦いで、戦国最強と謳われた武田騎馬軍団に大勝利を治めるのでした。

これが決定機となり、信長包囲網は完全に崩壊してしまいます。
そして、この段階で信長包囲網に加わっていたのは石山本願寺だけとなり、顕如は追い詰められていくことになります。

そんな危機的状態の顕如のもとに朗報が届きます。
石山本願寺が織田信長に追い詰められていることを知った中国地方の大大名・毛利輝元が、兵糧や武器などの援助するため瀬戸内海を経由して運んでくれることになったのです。


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これによって大きな後ろ盾を得た石山本願寺の宗主・顕如。
再び畿内の門徒衆に向けて動員令を発動して5万の兵力を確保します。
これにより、石山本願寺が織田信長に降参して終わると思われた石山合戦が再燃することになったのです。

石山本願寺包囲網

1576年(天正4年)4月
石山本願寺は、織田軍が守る桜ノ岸砦を奪うと砦を強化するための改修工事を始めます。
また、兵糧などの物資を安全に確保するために大坂湾に接する木津に砦を設けて補給基地としたのです。

毛利からの物資の搬送の護衛には、当時の海上で最強を誇る毛利水軍と村上水軍が担っていたため織田軍が搬送を阻止することは非常に困難でした。

毛利輝元の援助を知った織田信長。
各諸将へ石山本願寺への攻撃命令をだします。
織田信長の命を受けた荒木村重明智光秀細川藤孝塙直政は、直ちに石山本願寺包囲網を開始したのです。

荒木村重は、尼崎から海を経って石山本願寺の西に野田砦を築いて西方面からの物資の搬入を阻止。
明智光秀と細川藤孝は、石山本願寺に繋がる主街道(京街道、奈良街道、紀州街道)を抑えるために明智光秀は東に森河内砦<、細川藤孝は北に守口砦を築きます。
塙直政は、本願寺の南に天王寺砦を築いて大阪湾(木津砦)からの侵入を阻止したのです。

また、織田信長は石山本願寺の一向一揆門徒衆に対して殲滅作戦を貫いてきましたが、ここで戦い方を大きく変えます。
戦となった時、戦う意思のない女子供や一般門徒を赦免(しゃめん)として石山本願寺から解放することにしたのです。


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そこには、石山本願寺の宗主である顕如さえ潰してしまえば、門徒宗が逆らうことはなくなろうという考えと殲滅作戦を続けていくには非常に多くの兵を必要だったからです。
また、念仏を唱えながら死を恐れずに向かってくる門徒衆に恐れている兵士も多く、多大な犠牲者を出す危険性もあったからです。

一方、周囲を包囲された石山本願寺の中には、一向衆門徒の中でも鉄砲の傭兵集団として有名な雑賀衆も含まれていました。
石山本願寺にとって、海から物資が届いたとしても信長による包囲網によって生命線といえる坂路を絶たれることが一番の課題だったため、何としても木津砦から続く街道沿いにある天王寺砦を雑賀衆たちによって潰しておく必要があったのです。

織田信長は、物資輸送阻止の重要拠点である天王寺砦の防備強化をしている間、石山本願寺周辺の田畑や建物などを全て焼き払うとともに一般門徒を赦免(しゃめん)するという札を周辺に立てはじめます。
そして、石山本願寺を包囲していた諸将は、織田信長が摂津に向かうまでに補給基地の木津砦を潰しておくように指示されたのです。

織田信長の思惑としては、毛利からの補給基地を絶ち、田畑を焼き払ったことで秋の収穫を見込めなくすることで門徒衆の戦う気力を奪い、赦免を周知させて多くの離脱者を出そうとしたのです。
また、そうすることで味方の犠牲を最小限にして兵糧攻めも早期に終わらせる予定でした。しかし、織田信長が思うようには事は上手く運ばなかったのです。

(1)織田軍の敗走と危機
1576年(天正4年)5月3日 早朝
織田信長の思惑通りに石山本願寺から赦免を願い出て多くの門徒が離脱していくのを確認した織田軍。
5月3日の早朝に塙直政を中心とする2千の兵は、木津砦攻略の前に石山本願寺への水路の確保先となっている三津寺攻略に向けて天王寺砦を出陣します。

塙直政率いる織田軍が、三津寺近くに着陣して攻撃の準備をしているところに、雑賀衆を中心とした石山本願寺勢1万5千が突然出現します。
それを見て混乱する織田軍に向けて鉄砲による一斉射撃をする雑賀衆。
あっという間に総崩れとなった織田軍は、塙直政を含めた多くの兵が討死となり、天王寺砦まで辿り着いた兵は半数以下でした。

この報せは、明智光秀の森河内砦にも届きました。
もし、天王寺砦が敵に攻め落とされれば、包囲網が完全に崩れてしまうと危機感を感じた明智光秀。
少数の兵を従えて急ぎ天王寺砦に向かったのです。

天王寺砦に入った明智光秀は、総崩れから戻ってきた兵が半分以下と知り、直ちに織田信長に向けて援軍の要請をします。
逆に勢いに乗った石山本願寺勢は、しばらくすると1万5千の軍勢で天王寺砦を完全に包囲したのです。

天王寺砦は、まだ十分な防備体制が整っていなかったため、砦内にある物で防御策などの代用にしましたが、数的状況からいっても非常に厳しく数日が限界でした。

天王寺の戦い

1576年(天正4年)5月5日 早朝
天王寺砦の戦況と明智光秀からの援軍要請を聞いた織田信長。
直ちに諸国に向けて動員令を出すと、自らも僅か100騎で出陣します。

突然の出陣であったため、兵が集まるまで若江城に留まった織田信長。
翌日には、3千ほどの兵が集まりましたが、本願寺勢の1万5千という兵を相手にするには無謀と言える数でした。

それでも天王寺砦の者たちを見殺しにするわけにはいかなかったのです。
このことは「天王寺砦で戦っているものを攻め殺させてしまったとあっては世間の笑いの種になる」信長公記にも記されています。

出陣から2日後の5月7日の早朝に天王寺砦近くに到着後、包囲網の背後から猛烈な勢いで突撃を開始した織田信長。
突然背後を突かれた本願寺勢は混乱状態に陥りますが、雑賀衆を中心とした鉄砲隊が体制を整えると織田軍に向け迎撃に入ったのです。

しかし、織田信長を中心とした織田軍による統率の取れた攻撃は、本願寺勢を圧倒して次々に蹴散らしていったのです。
僅かな犠牲で天王寺砦に入ることが出来た織田信長。
明智光秀との再会も早々に兵たちを砦も防衛に当たらせ守りを固めさせ、砦内の将たちを招集して軍議を開きます。


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一方の本願寺勢は、織田信長が天王寺砦に入ったことを知ったので、ここは一気に大勢で押し寄せて砦を落とそうとすることは明白でした。
また、織田信長が砦内に入ると直ぐに守りを固めさせていたので、援軍が到着するまで籠城作戦に出るのだろうと本能寺勢はみていたのです。

織田信長は、そんな本願寺勢の考えを見抜き、包囲網が手薄になっている南から全軍で直ぐに打って出るという、相手を逆手に取る作戦(奇策)を伝えたのです。

天王寺砦内の織田軍は時を待たずして砦の南虎口より本能寺勢に向けて突撃を開始します。
まさか、織田軍の方から砦を出て攻めてくるとは考えていなかった本願寺勢は、臨戦態勢に入ることも出来ず次々と倒されていったのです。

決死の覚悟で突撃してくる織田軍の勢いは衰えることなく、砦を包囲していた南と西側の本願寺勢を瞬く間に蹴散らした後、休む間もなく本陣に向かって再び突撃を開始したのです。

包囲網が崩れたことで、次は本陣に向かってくるだろうと予想していた本願寺勢は、雑賀衆で厳重に守りを固めます。
突撃してきた織田軍が鉄砲隊の射程内に入ると一斉射撃が繰り返され、兵が次々と倒れていき織田信長も足に被弾してしまいます。
しかし、死に物狂いで突進してくる織田軍の勢いの方が凄まじく、接近戦を恐れた本願寺勢の本陣は撤退を余儀なくされたのです。


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さらに織田信長は、本陣が撤退を開始したことで総崩れとなった本願寺勢に対して、石山本願寺近くまで徹底的に追い打ちをかけたのです。
この戦いによって、織田信長は圧倒的な数的不利にもかかわらず1,500~2,000人の本願寺勢を討ち取ったといわれています。

この後、石山本願寺を完全に包囲した織田信長は、本格的な兵糧攻めに取りかかるのでした。

(寄稿)まさざね君

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