長篠・設楽原の戦い 合戦の常識を変えた男・織田信長

長篠・設楽原の戦い

戦国時代の戦い方を根底から変えてしまった合戦

『長篠・設楽原の戦い

これまでの合戦は、両軍で鉄砲や矢を撃ち合って尽きたら、
接近戦というのが常識でした。

しかし、この戦いは織田・徳川の連合軍が、大量の鉄砲と弾薬を用意して
尽きることなく撃ち続けたことによって、武田軍が多数の死傷者を出して
大敗してしまうのです。

信玄の死後、後継者・武田勝頼が領土拡大するために、徳川領に侵攻して
きたあたりからストーリーは始まります。


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三河侵攻

武田勝頼
「皆の者! これより三河(愛知県)に向けて出陣じゃー!!」

家臣団
「うおおー!」

武田勝頼
「儂(わし)は、偉大なる父・信玄を必ず越えてみせる!」
勝頼は堅い決意と共に自分の中で大きく叫んだのでした。

1575年4月12日
前当主・武田信玄の3回忌法要後、徳川家康の領地(三河)に向けて
武田勝頼が率いる武田軍が出陣。

その数、総勢1万5千の大軍!
部隊の中心は、武田家が誇る主力で構成されていました。

だが、この三河侵攻は、武田勝頼が父・信玄を超えたいという個人的な
野望であって、武田家が望むものではなかったのです。

今しばらく我慢するようにとの重臣たちの意見も聞き入れてもらえず、
武田信玄の遺言にも背くものでもありました。

信玄の遺言には、

・信長と家康に対して好戦的にならず、相手の運が尽きるまで待て。
・相手が戦を仕掛けたら、自分の領地に引き入れて必勝の決戦をしなさい。
・後継者は勝頼の子・信勝とし、16歳になるまで勝頼が代理をやりなさい。

などが、後の事を案じて細かく書かれていたのです。

三河侵攻の報せ

一方の織田信長は、畿内(大阪周辺)で三好氏や石山本願寺と対戦中でした。

信長が10万の大軍で石山本願寺と対戦していると知った武田勝頼は、
家康の援軍は困難だろうと想定しての三河侵攻でもありました。

しかし、その思惑は大きく外れてしまいます。
信長は、信玄が亡くなったとはいえ武田の存在を脅威に感じていたので、
早い段階から間者(スパイ)を送り込んで武田の動向を探っていたのでした。


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武田軍による三河侵攻を知った信長。
織田信長
「武田の奴! 儂が、三好や石山本願寺に苦戦してるでもと思ったな(笑)」

「いよいよ、儂の考えてた作戦を実行するときが来た。」

「時は熟したな(笑) 戦の歴史を変えるのは、この信長じゃ!」

「おいっ、サル(秀吉)! 今から鉄砲と弾薬をあるったけ、かき集めてこい。」

「金なら心配いらん、ケチったりするなよ。 わかったな!」

羽柴(豊臣)秀吉
「ははっ! この秀吉にお任せ下さい。」

「殿が満足するだけの鉄砲・弾薬を早急に揃えてみせましょう(笑)」

織田信長
「そうでなくてはな。 頼んだぞ、サル!」

羽柴(豊臣)秀吉
「では、失礼いたします。」

約束通りに岐阜を出陣する2日前には、信長が満足するだけの
鉄砲と弾薬を用意した羽柴秀吉。

鉄砲・弾薬集めの苦労など微塵も見せないところが、秀吉らしさ
でもありました。


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1575年5月13日
3万の軍勢で岐阜城を出陣する、織田信長。
沿道を進む信長軍の様子は、これまでの常識を覆すものでした。

軍隊の中心が鉄砲と丸太担ぐ足軽(軽装した下級武士)ばかりで、
騎馬隊がほとんどいなかったのです。

それを見送る岐阜城下の沿道では、
町人1
「これから信長さま自らが、軍を率いて戦に行くみたいだけど‥‥。」

「こんな鉄砲の数は、今まで見たことねーぞ。」

町人2
「信長さまは、日本中から鉄砲なんか集めて一体何処に行くんだ?」

町人3
「普通だったら、騎馬隊とかいるはずだよな。」

「それが、どういうわけか足軽しか見かけないな。」

「鉄砲を持っていない奴は、長い丸太なんか担いでいるし‥‥。」

「どこかに建物でも作んのかな?」

町人4
「あれでは、軍隊とは言わねーだろ。」

「信長さまが戦に行くって本当なのか?」

など、沿道で信長軍の行列を見送っていた人達は、只々その光景に
圧倒されていました。

そんな信長軍の進軍は順調に進み、翌日には家康の居る岡崎城
入城したのでした。

長篠城からの救援

三河に侵攻してきた武田軍は、大軍による力攻めで次々と城を落として
勢力拡大の重要拠点となる長篠城を包囲します。

長篠城を守る奥平貞昌(おくだいら さだまさ)の兵力は500人ほど
だったので、武田との兵力の差は圧倒的でした。

ただ、城内には鉄砲や食糧などが豊富にあり、地形にも恵まれていたので、
武田軍も長篠城を責めあぐねていました。

しかし、兵力で圧倒する武田軍は猛攻撃を連日繰り返したことで、
あと数日で落城という危機に陥ったのです。

そこで家康への援軍要請を決意した奥平貞昌は、密使を送ることにしたのです。
*密使:秘密の任務を行う使者

長篠城主:奥平定昌
「(鳥居)強右衛門(すねえもん)、この城は、あと数日しかもたない。」

「この城が、武田の手に渡れば三河の大半を取られてしまう危険があるのは、
承知しているな。」

「儂(わし)は、この城を密かに抜け出して、殿(家康)に援軍の要請を決めた。」

「そこで頼みがあるのだが‥‥。」

「強右衛門(すねえもん)、お前が密使をやってもらえないか?」

「非常に危険な使命なのは、十分承知している。」

「こんな重要なことを頼めるのは、お前しかいないのだ。頼む! 」

鳥居強右衛門(とりいすねえもん)
「貞昌さま! ここに呼ばれた時には覚悟を決めていました。」

「城に残っている者のためにも必ず、殿(家康)にお伝えします。」


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1575年5月14日の夜
鳥居強右衛門は、城内の抜け道から家康の岡崎城に向けて出発しました。

決死の伝言

武田軍の厳重な警戒線を突破して、翌日(15日)に岡崎城にたどり着いた
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)。

信長と家康に戦況について報告すると、
「既に出撃の準備が出来ているから翌日には出陣する」と伝えられました。

この朗報を一刻でも早く長篠城の仲間に伝えるために強右衛門(すねえもん)は
急ぎ引き返すのでした。

しかし、城を目前にして運悪く武田軍に見つかり捕まってしまいます。

その後、武田軍から厳しい尋問を受けますが、密命を受けた時から死を覚悟して
いたため、全く動じる様子がありませんでした。

これに感心した武田勝頼は、
「援軍は来ない。 開城すれば皆の命を助けてくれるぞ。」
と言って開城(降伏)させたら、命だけでなく所領も与えるとの取引を
強右衛門(すねえもん)に持ちかけました。

強右衛門(すねえもん)は、これを承諾します。
取引が成立した強右衛門(すねえもん)が、長篠城の前に引き出されると

「あと2、3日で援軍が来るぞー! それまで頑張って耐えるのだー!」
と取引とは全く逆のことを叫んだのです。

これを聞いた武田軍は、すぐに取り押さえて磔(はりつけ)にすると
仲間に見えるように強右衛門(すねえもん)を槍(やり)で突き殺したのでした。

決死の報告によって、援軍が来ることを知った城主・奥平定昌をはじめとする
城兵の士気は一気に盛り上がり、援軍が到着するまでの2日間、必死で城を
守りぬいたのでした。

織田・徳川軍 着陣

1575年5月18日
長篠城手前の設楽原に到着した信長軍3万、徳川軍8千の連合軍。
休む間もなく信長は、武田騎馬隊を封じるための采配を振るいます。

織田信長
「これより打ち合わせ通り、鉄砲大将が中心となって隊単位で散開とする。」

「各隊所定の位置で斜面を切り崩して堀を造り、その土で土塁を築くのだ。」

「最後に丸太で幾重にも馬防柵を設置するまでの行程を急ぎ取りかかれ。」

「ここからは時間との勝負だ。 その前に攻められれば確実に負ける。」

「足軽、大将も関係ない! 皆でやるのだ!! よいなっ!!」

複数の鉄砲奉行(前田利家など)
「ははっ! 早速取りかかります。」

この鉄砲奉行には、前田利家、佐々成政などの信長の側近が確認されています。
信長は、長篠・設楽原を武田との決戦場としたのでした。

信長は、大量の鉄砲で武田騎馬隊を迎え撃つという
今までにない戦術をとったのです。


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勝頼の決断

織田・徳川連合軍の到着を知った武田陣営は、直ちに軍議を開きました。

武田勝頼
「たった今、信長と家康の軍が設楽原に着陣したと報せが入った。」

「信長の軍は、鉄砲や柱を担いできた足軽ばかり。」

「騎馬隊は、ほとんどいないらしい。」

「我が軍は長篠城を包囲しているが、このままでは挟み撃ちになってしまう。」

「そこで、今から話す2つの案について協議してもらいたい。」

「1つは、長篠城包囲に一部の兵力をあてて、主力部隊で信長・家康の討伐に向かう」

「1つは、信長と戦をすれば被害も大きくなるので、兵力温存のため一旦引き上げる」

山県昌景(猛将で信玄時代からの重臣)
「殿、物見(偵察)に報せでは、信長軍は今まで見た事のない数の鉄砲を持ってきて
いると聞いております。」

「信長は、これまで常人が考えもしなかったような戦で数々の戦功をあげてます。」

「今度は、この鉄砲を使ってどのように戦をするのか見当もつきません。」

「順調に勝っている時だからこそ、ここは勢いに任せて戦って兵を消耗させる
べきではないと思います。」

「きっと亡き信玄公も、ここは一旦引くべきだと進言するはずです。」

勝頼の側近⓵(若手重臣)
「何と弱気な事を言っているのだ、昌景どの!」

「我々は、順調に勝ち進んで三河北部を手中にするところまで来ているのだぞ!」

「この肥沃(ひよく)な土地が我らの領地となれば、武田に大きな富をもたらして
くれるというのに、みすみす見捨てろというのか?」

馬場信春(信玄時代からの重臣)
「そんなことは、昌景どのだって十分に分かっている。」

「そもそも、信長が畿内で苦戦している間に、三河に侵攻して勢力拡大するという
戦だったではないか。」

「まさか信長自らが、見た事もない数の鉄砲隊を率いての援軍には我らも予想外だった。」

「儂も鉄砲隊が気になる。無理に戦をすれば信長の罠にハマりそうな気がするのだ。」

「ここは、一旦引き返して、時期を見て再度攻めても悪くないと思う。」

勝頼側近⓶(若手重臣)
「昌景どのも信春どのも、そんな弱気でどうする?」

「我々は、あの謙信公とも何度も戦ってきた最強の武田騎馬隊ではないか!」

「ここまで来て引き上げてしまう?!(笑)」

「こんな絶好の機会が逃がすなど、どうかしている。!」

「騎馬隊がいない信長の援軍は、烏合の衆という考えはないのですか?」

「何を恐れているのか、儂には全くわからん!」

山県昌景
「お前は、信長という男を甘く見過ぎている!」

「儂は、信長と直接戦ったことはないが、あの謙信公とは違う得体の知れない
脅威を感じるのだ。」

「これは、数多くの戦を経験した者にしか分からないと思うが‥‥。」

勝頼の側近⓵
「はっはっはー。」
突然大きな声で笑ったかと思うと、

「昌景どの、歳を取られて臆病風にでも吹かれたのかな?」

「あとの事は大丈夫! ここは甲斐に戻って勝利の報せを待っていて下さい。」

山県昌景
「ふざけるな! 武田随一の赤備え大将を馬鹿にするのか!!」

「儂は、戦で怖いとか、命が惜しいと思ったことなど一度もないわ!!」

武田騎馬隊の象徴ともいえる赤備え(全身赤い甲冑)の大将である
自分を老人扱いしたことに激怒したのでした。

内藤昌秀(信玄からの重臣)
「お前たち、口が過ぎるぞ!!」

「勢いだけでは戦には勝てぬ!」

「お前たちは、これまで色んな武将が勢いだけで戦って、無駄に命を落としていった
のを知っているのか?」


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信玄時代からの重臣と勝頼の若手側近との間で、意見が真っ二つに分かれてしまいました。
目を閉じて話を黙って聞いていた武田勝頼でしたが、突然立ち上がると、

武田勝頼
「儂は決めた! これより我々は設楽原に向かう!!」

「信長と家康に武田騎馬隊の恐ろしさを見せてやるぞ! よいな!!」

「長篠城包囲に3千、残りは設楽原で決戦!」

重臣たち
「ははっ! 承知しました!」

軍議は決戦することで決着し、一斉に皆が散っていきました。
勝頼が決戦と決断した裏には、ここまで連戦連勝している奢り(おごり)と
信長と家康の首が取れれば父・信玄公を越えられるという野心があったの
だと思われます。

しかし、この決断が武田の衰退と滅亡を招くのでした。
その日の夜、古くから武田に仕えた重臣たちは敗戦を覚悟して、
皆と酒を飲みながら別れを惜しんだと言われています。

長篠・設楽原決戦

武田陣営

1575年5月21日 早朝
武田軍の先鋒隊が信長の陣めがけて突撃を開始したのです。

先鋒は戦において命知らずの猛将が務めるため名誉とされています。
武田騎馬隊の顔ともいえる山県昌景が先鋒に名乗りをあげ、勝頼から
許しをもらいました。

山県昌景
「信長に武田騎馬隊の強さを見せつけてやるのじゃー!」

「山県隊、突撃!!」

山県昌景隊
「うおーーっ!! 織田の奴らを叩き潰せ!!」

騎馬隊が凄い勢いで突っ込んで両者の顔がハッキリと見えたところで、
織田軍による鉄砲の集中攻撃が行われました。

その鉄砲の数、数百丁!

騎馬隊への射撃が終わると辺りは、霧がかかったように煙に包まれたのです。
すると、また別の方角から騎馬隊に向けて一斉射撃が行われたのでした。

しばらく多方向からの銃撃が続きましたが、射撃終了の合図で轟音が消えて
辺りは静まり返ります。

煙が風に流され視界が開けると、山県昌景の眼の前に騎馬隊の悲惨な光景が
広がっていたのです。

山県昌景
「なんと‥‥、これは夢なのか。 それとも‥‥ここは地獄なのか。」

武田最強を誇る騎馬隊が、ほぼ全滅していたのです。

他の部隊の騎馬隊が、
「おのれー! 足軽の鉄砲にやられるような儂らではないわー!!」

と言って波状攻撃を繰り返しますが‥‥。
無残にも死体の山だけが増えていくだけでした。

覚悟を決めた山県昌景は、
「我こそは、武田随一の赤備え大将! 山県昌景である!!」

「織田の卑怯者め! 鉄砲など使わず、正々堂々と儂と勝負せんかー!!」
信長の陣に向かって叫び、突進していったのです。

山県昌景も他の騎馬隊と同じく、鉄砲による集中攻撃を受けてしまいます。

山県昌景
「殿(信玄公)、、、。 今、そちらに行きます。」

先鋒隊大将・山県昌景の討死は、すぐに本陣の武田勝頼にも知らされました。

武田勝頼
「あの猛将と言われた昌景が討死とは、、、。」

使者
「申し上げます! 長篠城を包囲していた我が軍3千。」

「織田・徳川連合軍の奇襲に逢い壊滅!」

「河窪信実さま(勝頼の叔父)、名和宗安さまなど多数が討死!」

「我が軍の退路(逃げ道)も断たれました!」 

武田勝頼
「なにっ! 信長め!!」

この間も武田軍による波状攻撃が続きますが、多くの将兵が次々と
織田足軽鉄砲隊の放つ鉛の弾に倒れていったのです。


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信長・家康陣営

一方、信長陣営では、
いよいよ信長の戦略を試す時が訪れたのです。

武田の騎馬隊と歩兵が、鉄砲大将・前田利家の陣に向かって凄い勢いで
近づいてきました。

怒号と地響きが入り混じり迫ってくる様に、前田利家の背中は、
恐怖と緊張でひどく濡れていました。

鉄砲足軽も同様で、中には恐怖で尿を漏らしている者や逃げ出そうと
する者までいたのです。

前田利家
「まだ撃つな! 確実に仕留めるのだ!!」

「ここから逃げ出した奴は、容赦なく斬る! わかったなー!!」

一人でも逃げ出せば、総崩れになってしまうので、前田利家と組頭
(直近の部下)が刀を抜いて足軽鉄砲隊の後ろに控えたのです。

武田軍の顔がハッキリと見える距離まで近づいてきた瞬間!
前田利家
「今だ! 撃てー!!」
と叫んだと同時に鉄砲の轟音(ごうおん)が一斉に響き渡りました。

自分たちの周囲が煙で濃い霧がかかった状態になると、弾を撃ち込んだ
辺りが怒号から悲鳴や呻き声に変わっていったのです。

すると、間もなく別の陣から自分たちが撃ち込んだ方角に向かって
一斉に弾が撃ち込まれました。

多方向からの連続的な攻撃は、鉄砲大将から「撃ち方、止め!」の命令が
出るまで繰り返されたのです。

銃声が鳴り止み、煙が風に流されて視界が開いてくると、そこには驚きの
光景が広がっていました。

ほぼ壊滅状態の武田軍。

そんな光景に唖然とする間もなく、第2波、第3波と武田軍は無謀にも
波状攻撃を仕掛けてきたのです。

最初の攻撃で自信を持った鉄砲隊は、冷静さを取り戻していきます。
武田の波状攻撃に対し、十分引き寄せてから多方向射撃を繰り返して
いったのです。

ただ、武田軍も撃たれてばかりではなく、竹束(竹でを束ねた盾)で
火縄銃の弾をかいくぐり、馬防柵を破壊して攻めてくるようになって
きました。

ちなみに火縄銃の弾丸は、大きく貫通力が弱かったため竹束でも
十分に効果があったらしいです。

しかし、織田軍の陣内に入ってきても鉄砲隊の後ろに控えていた守備隊に
追い払われて、逃げたところを撃たれるという悪循環でした。


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武田軍撤退

武田本陣では、
山県昌景の討死から間もなく、次々と諸将(部隊を指揮する武将たち)の
討死の報せが入ってきました。

ほぼ全てが織田の足軽鉄砲隊によるものだと知った武田勝頼は、
言葉を失いました。

使者⓵
「お知らせします! 織田・徳川の連合軍が勝利を確信して掃討中!!」

「その数、1万以上!」

使者⓶
「お知らせします! 長篠方面から約4千の敵が攻めてきます!!」

武田勝頼
「ええいっ! 何をしている!!」

「最強の武田軍が織田や徳川などに負けるはずないわー!」

馬場信春
「殿! 冷静になって現状を受け入れるのです!!」

「我が軍は撤退するべきです。」

武田勝頼
「し‥‥しかし。」

馬場信春
「これまで武田を支えてきた重臣たちが、次々と討死しているのです。」

「これ以上の死は無用! いい加減に目を覚ませ!!」

武田勝頼
「すまない‥‥信春。」

「儂の判断が誤っていた‥‥。 信春の言う通り撤退する。」

馬場信春
「殿(しんがり)は、信春の隊が務めます。」

「殿、安心して下さい。」

「儂の後ろには一兵たりとも行かせませんから」

「では、どうかご無事で!」

武田勝頼
「信春‥‥、本当にすまない。」

午後2時頃、この戦いの勝負のゆくえがハッキリしました。
武田勝頼は、数百の兵を伴って敗走したのです。

討死した武田軍の兵は1万以上で、その中には譜代家老(代々仕えてきた重臣)、
重臣、指揮官など甚大な被害を伴うものでした。

対する織田・徳川の連合軍の討死は5千でしたが、銃撃戦のときに逃げ出した
数が含まれているとも言われています。

連合軍の勝利

徳川家康
「信長殿の鉄砲を使った戦略、お見事でございます。」

「あの武田騎馬隊を殲滅とは誠に恐れ入ります。」

織田信長
「家康が、提案した長篠城包囲の奇襲作戦があったから、思っていたより
早く決着がついたのだ。」

「あのまま戦が続けば、こちらの被害も大きかっただろう。」

「もし、これが信玄公との戦だったら、負けていたかもしれない。」

「ただ、これからの戦のやり方は、大きく変わるな。」

徳川家康
「そうですね。」

「信長殿が、戦の新たな歴史を作ったのです。」


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まとめ

この長篠・設楽原の戦いは、資料が少なく詳細については分かっていません。
間違いないのは、信長が大量の鉄砲を用いて武田軍に大勝利を収めた事です。

実際の武田騎馬隊は、騎馬で攻めるのではなく指揮官と側近が馬を活用して、
あとは槍などを持った足軽だったらしいです。

ただ、今回ストーリー上、騎馬軍団として書かせていただきました。(汗)
この戦いは、諸説あるので深堀りしていく価値大ですね。

きっと新しい発見があるかもしれません。

(寄稿)まさざね君

戦国時代最大の番狂わせ 桶狭間山の戦い
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鳥居強右衛門の解説 崇敬され続ける武士の生き様
長篠の戦い(設楽原の戦い)の解説と考察 戦跡・史跡・場所・写真・地図

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