土佐の山間地に伝わる織田信長朱印状〜筒井定次にまつわる伝承~

土佐の山間地に伝わる織田信長朱印状〜筒井定次にまつわる伝承~

筒井順慶織田信長朱印状

令和2年1月10日(金)~3月5日(木)まで高知県立歴史民俗資料館で開催された企画展「遠流の地 土佐」において、高知県大川村の指定文化財となっている【筒井順慶宛織田信長朱印状】が初公開されました。
朱印状の存在自体は、大川村史にも記載されているとともに、1954年5月11日の高知新聞記事にも発見の記事が掲載されていましたが、これまで公開されたことはなかったそうです。

※本来、企画展は3月8日(日)までの開催予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため、3月6日(金)~臨時休館となったことに伴い、会期が短縮されています。

筒井順慶といえば、大和(現在の奈良県)を本拠地としており、なぜ高知の、しかも山深い大川村に朱印状が残されているのでしょうか。
今回の企画展の図録や、大川村史、過去の新聞記事などを読み解くと、その理由がわかってきます。

大川村筒井家にまつわる伝承

大川村史には、筒井順慶の養子であった筒井定次が生き延びて潜入し、筒井市正と名前変えて、郎党七人を連れて、土佐郡本川郷南野山(現:大川村南野山)に屋敷を構え、住んだという伝承が紹介されています。そして本川郷葛原の名主伊藤某の娘と通じて男子を産み、それが大川村筒井家の祖となったとか。現在でも大川村には筒井姓の方が多く住んでおり、今回公開された朱印状は、その筒井家に代々伝わっていたものだそうです。

朱印状は残念ながら火縄銃の火が燃え移り、半分消失していますが、筒井家が分家する際に、この朱印状の写しと、家系図を書き写して渡していたようで、消失する前の朱印状の写しも展示されていました。
朱印状には高知県立歴史民俗資料館だより「岡豊風日」の記述によると、「安土城の築城が終わり次第、天主を立てるので、大和国内の木は一本たりとも切ってはならない」と書いてあるそうです。年号は付されていませんが、天正4年の可能性が高いとのことでした。

この朱印状を筒井定次が持っていた!と
いう確証はありませんが、少なくとも筒井家にゆかりのある者が朱印状とともに大川村に入り、以後一族の宝として大切に守ってきた可能性はあるのではないでしょうか。

通説

通説では、筒井定次公は慶長13(1608)年5月に改易となり、鳥居忠政に預けられたという書物と、藤堂高虎に預けられたという書物があるようです。
1615年大坂冬の陣にて大坂方への内通を疑われ、嫡男とともに切腹させられたとされています。

筒井家に伝わる話では、賤ヶ岳の戦いで、柴田勝家側についたことで改易され、土佐に流れ着いたとされていますが、筒井家は秀吉方についていましたし、1608年までは少なくとも家として存続していました。

以下は筆者個人の考えですが、筒井定次公は、1608年に改易後、藤堂高虎公に預けられていたとの書物が残っております。
このころ、藤堂高虎公は三重県にも領地を持っていたため、わかりませんが、伊予今治に預けられていたなら、愛媛県と国境を接する大川村は距離的に離れておらず、行けないことはないと思います。
また、筒井定次公本人でなくとも、縁者が隠れ住んだ可能性もあるかなと思っています。
いずれにせよ、新たな伊予側の信頼できる文書などが出てこない限り、真相はわかりません。

誤った伝承もあり、真相は謎ですが、分家の際に朱印状の写しを渡していたことや、火縄銃の火で半分消失してしまったとはいえ、これまで大事に保管されてきたことを思うと、決して恵まれているとは言えない土佐の山間の地で、大名家である、大和筒井家の血を引いているのだという誇り、家としてのアイデンティティだったのではないかと想像して、ロマンを感じずにはいられません。

その他

(参考文献・引用文献)
石畑匡基「資料見聞 織田信長朱印状 筒井順慶宛 個人蔵」『岡豊風日』高知県立歴史民俗資料館,2019年
『高知新聞』1954年5月11日「信長、元親の書?大川村の旧家から発見」
『大川村史』「第三節 筒井氏」大川村史編纂委員会,1962年
金松誠「筒井順慶」戒光祥出版,2019年

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