高城胤吉とは 千葉氏の一族として松戸を領した戦国武将

高城胤吉

高城胤吉(たかぎ-たねよし)は、戦国時代の武将で、生年は1484年の説と1501年の説があります。
父は下総・根木内城である高城胤忠で、母は不詳。
妻は千葉勝胤の娘(月菴桂林尼)で、子に高城胤辰がいます。

高城氏(たかぎし)は千葉氏の一族とされますが、肥前・高城の高城胤雅が没落して、先祖を頼って千葉氏に仕えたとも言われています。
そして、同じ千葉一族である小弓城の原胤隆に高城胤吉(高城下野守胤吉)は仕えていたようですが、1518年、足利義明が小弓城を攻略すると、生き残った原胤清(はら-たねきよ)を高城胤吉が保護しています。
やがて、高城胤吉は千葉昌胤に従うようになり、小弓公方の勢力に対抗するため、1537年には、下総・小金城を築くと本拠を移しました。
千葉昌胤が完成した下総・小金城(小金大谷口城)や、国府台城を視察したことも伺えます。



1538年、小弓公方・足利義明が、古河公方・足利晴氏に味方した北条氏綱へ決戦を挑むと、千葉昌胤と高城胤吉は、北条家との連合軍として第1次国府台合戦にて勝利を収め、小弓城を一時奪回しています。

このようにして、千葉氏が北条家に取り込まれていくのと同じく、高城氏も原胤貞や成田長泰らと北条家の他国衆に分類されるようになりました。

ただし、1560年、上杉謙信が関東に遠征した際には、古河公方・足利義氏は高城氏の下総・小金城に逃れ、後に佐貫城に移りましたが、上杉勢が来ると高木氏も降伏したようです。
しかし、上杉謙信が春日山城に戻ニると、再び北条氏に従いました。

里見義堯・里美義弘の父子が太田資正と結んで第2次国府台の戦いになると、北条勢として活躍し、里見義弘を撃退しています。
この時、高城胤吉の嫡男・高城胤辰(高城式部大輔胤辰)と、弟・高城胤正(高城源六郎胤正)が、一族の高城四郎右衛門、重臣で流山の下総・深井城主である安蒜但馬守、下総・花輪城の田島時定(田島兵部少輔)、鈴木新右衛門らと出陣したとあります。

みれらの功績から松戸以外に、北条氏康から相模・小園(神奈川県厚木市)に所領も与えられ、江戸城の遠山綱景から命令が届くと言う感じに至りました。

永禄8年(1565年)、高城胤吉は死去しています。
墓所は広徳寺で、法号は伝昭玄心。



子には、箱根へ湯治に行ったこともある高城胤辰、のち増上寺17世となった照誉了学らがいます。

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