浅野長晟と浅野長重 赤穂浪士へと繋がる関ヶ原以降の浅野家

浅野長晟と浅野長重 赤穂浪士へと繋がる関ヶ原以降の浅野家

浅野長晟(あさの-ながあきら)は、浅野長政の次男として1586年に近江・大津城?にて生まれました。
兄には豊臣秀吉のもと活躍していた浅野幸長がいましたが、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方します。
この功績で、紀伊37万6560石となり、浅野家は和歌山城に入りました。

父・浅野長政は、関ヶ原の直前に徳川家から謀反の嫌疑をかけられ、武蔵・府中で謹慎していましたが、子らの活躍で許されて、常陸・真壁城にて5万石となり隠居していました。

浅野長晟は豊臣政権下では3000石を授かっていましたが、弟の浅野長重と共に、関ヶ原のあと徳川秀忠の小姓も務めています。
その後、浅野長晟は、1610年、木下家定が改易された備中・足守陣屋を、2万4000石で継ぐことになり大名に抜擢されました。
弟・浅野長重は、徳川家康の養女(松平家清の娘)を正室に迎えて、下野・真岡藩2万石となっていました。

1611年、隠居していた父・浅野長政が真鍋陣屋にて死去します。
このとき、真壁藩5万石は、浅野長重が継いでいますが、真岡藩2万石は幕府に返上しています。
父の遺領を浅野長重が継いだと言う事は、浅野長晟が宗家の後継とある程度定めていたものと推測致します。
紀州藩の兄・浅野幸長は、娘はいたものの男子には恵まれていなかったのです。
そして、兄・浅野幸長は、1613年に病死しました。享年38。

家督相続について、重臣の田辺城主・浅野氏重は、徳川家と親しい真壁の浅野長重を後継に推しました。
しかし、浅野幸長の遺言と、浅野長政の正室・長生院の周旋にて、新宮城主・浅野忠吉らが推した次兄の浅野長晟が紀州藩主を継ぐことになります。
長生院(ちょうせいいん)は、豊臣秀吉の正室・北政所の妹です。

1614年、大坂冬の陣となると、浅野長晟は徳川勢として序盤の木津川口の戦いなどに参じています。
浅野長晟は賢かったのか、徳川家康の方がしたたかだったのか、まぁ、利害が一致して、1615年に、徳川家康の三女・振姫(ふりひめ)の再婚相手となりました。
豊臣家の一族とも言える武家で潰されなかったのは、浅野家と、足守藩2万5000石の木下利房、同じく2万5000石にて豊後・日出城に入った日出藩主となった木下延俊くらいでしょう。
前田利家の前田家からは、豊臣秀吉側が養女をもらっていますが・・。

そして浅野長晟は、1615年、大坂夏の陣では、北山一揆、紀州一揆と土着勢力の相次ぐ蜂起に遭いますが、樫井の戦い塙団右衛門と淡輪重政らを討つ戦功を挙げています。
一方、真壁藩では浅野長重も大坂の陣に参じており、重臣の大石良勝が活躍した結果、1500石にて筆頭家老となった大石家は、のち赤穂浪士で有名な大石内蔵助を輩出します。

これらの功績の結果、1619年、福島正則が改易されたあとの安芸・広島藩42万石に加増移封されて、浅野長晟は広島城に入りました。

浅野長重は、5万石にて笠間藩主となったあと、子の浅野長直のときである1645年、池田輝興が改易された赤穂藩主5万石となって、赤穂城を築城します。
その赤穂藩3代藩主が、浅野内匠頭と言う事になります。

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