源頼朝~武家政権確立のための非常なる決断の真相を探る

源頼朝~武家政権確立のための非常なる決断の真相を探る

征夷大将軍として武士による政治体制【鎌倉幕府】を樹立した源頼朝
頼朝といえば多くの人々は貴族社会から武家による政治を切り開いた偉人であるとともに、非常なる人物というイメージが強いのではないだろうか。
弟である源義経を討ったことでも知られているからだ。
頼朝が義経を討った原因としては多くの場合、弟への嫉妬や妬みなどが挙げられることがある。
しかし、実際には国家の体制を動かす立場にある人物が、嫉妬や妬みなどの個人的な感情で大軍を差し向けるなどあるはずがない。



では、頼朝が弟・義経を討った経緯にはどのような背景があったのであろうか。
今回は源頼朝の障害と、源義経討伐に隠された真相について迫ってみたい。

源頼朝-みなもとの・よりとも-
1147年5月9日(久安3年4月8日)-1199年2月9日(建久10年1月13日)
源義朝の三男で幼名は鬼武者・鬼武丸。
1192年(建久3年)に、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、統治大権の行使(将軍宣下)が認められた。
これにより武家政権による鎌倉幕府を設立。
日本初の幕府・征夷大将軍となる。
(幕府以外には源頼朝以前に多治比県守・坂上田村麻呂などが征夷大将軍に任命されている)。
鎌倉幕府の成立年については、1185年・1180年・1183年・1190年という見解もある。

源頼朝の挙兵

1160年(平治元年)の平治の乱で、平清盛率いる平家軍との戦いに敗れた源義朝軍に参戦していた源頼朝は、伊豆国に流刑になっていた。
北条時政の長女、政子との婚姻は伊豆に流刑なっていた時期である。
その間、天下は平家による栄華を極めていた。
1180年(治承4年)平氏追討の命が以仁王(後白河天皇の第三皇子)により源氏に下り、伊豆国にいた頼朝にも叔父である源行家よりその知らせが届いた。



これにより頼朝は300の手勢を率いて挙兵する。
初戦には惨敗を喫するものの、頼朝は徐々にその勢力を拡大ししていき、挙兵から2ヶ月余りで20万という大軍を率いる程へとなっていった。
短期間でこれほどの軍勢が頼朝のもとに集結してきた背景には、各地の武士や民たちの平家への不満や憎悪などがあり、新しい指導者の出現を願っていたからである。
頼朝は終結してきた関東各地の武士に対し、土地支配権の保証をすることで従わせていった。
この自分の領土の支配権問題こそ現体制への不満の要因でもあったからである。

頼朝と義経の出会い

1180年11月9日(治承4年10月20日)、富士川にて頼朝軍は甲斐の武田信義軍と共に平維盛の軍勢と対峙する。
そして富士川の戦いに勝利した頼朝のもとに、奥州・藤原秀衡のもとに身を寄せていた弟・源義経が兄・頼朝の挙兵を聞き、平家を打倒し源氏の世を築くために駆けつけたのだった。
その後、頼朝は鎌倉に軍を退いた。
そこで頼朝は自らに従う武士たちを統率するための体制を整える取り決めの制度を確立していくのだった。
武士たちの忠誠の程度に応じて土地を与えるなどの、主従関係の確立である。
これにより、頼朝と配下の武士たちとの主従関係を強固なものにしていった。
そのためには、いくら兄弟とはいえ他の武士たちへの示しもあり、義経を特別扱いすることはできなかった。

義経の快進撃と深まる対立

1184年3月4日(寿永3年/治承8年1月20日)頼朝の配下に加わった義経は、兄弟でもある源範頼と共闘し源義仲を討ち、その後もその才能を遺憾なく発揮し快進撃を続けていく。
義仲を討った直後の3月20日には一ノ谷の戦いにて平知盛・平忠度率いる平家軍と対峙。
この戦いは総大将である範頼の軍勢5万6千と、義経軍2万とで二手に分かれ平家軍を谷の両側から挟み撃ちにするという作戦であった。
しかし、進軍中に義経は自らの軍勢から離れ、70騎を従え一ノ谷の頂上から一気に崖を駆け下り平家軍の陣営を攻めるという奇襲戦法を用いたのだ。
虚を突かれた平家軍は総崩れし、海に逃れて行った。
僅か70騎の手勢で数万の軍に勝利する結果となった。
ところが、義経のこの功績に頼朝は恩賞を与えることはなかったのだ。
結果的に勝利は収めたものの、スタンドプレーともいえる義経の行為は軍の統率を乱すものでもある。
ましてや一軍の将たる者が自分の軍勢を置き去りにして勝手な行動とることは、兵の反感を買うことになり士気の低下にも繋がる。
武士たちの社会を確立するためにも、頼朝としては義経の身勝手な振る舞いを認めるわけにはいかなかったのだ。
それとは裏腹に民衆の義経への人気は高まっていく。
そんな頃、義経は京都御所にて後白河法皇より検非違使(違法を検察する役職)に任ぜられ、主君である頼朝に事前報告することもなく独断で賜る。
これに頼朝は激怒し、義経を平家追討軍から外してしまう。



統率や規律を乱す義経の行動と、自分を認めてくれない頼朝への不信感は二人の溝を深めていった。
義経からしてみれば、自らの活躍で平家に勝利し、法皇から官位を賜ることは源氏にとっては名誉なことだと考えていた。
そもそも、頼朝と義経には思想に相違があった。
平家を滅ぼし源氏の世を築くという目的は共通しているものの、その先にある展望が異なっていたのだ。
頼朝は従来の貴族社会を根絶し、武士による新しい国家建設を推し進めていく思想に対し、義経はこれまでの伝統や権威というものを重んじる考えであった。
つまり、朝廷から賜る栄誉を欲していたのだ。
平家による体制を改めるのではなく、それに取って代わりたいという思想でもあった。

義経追悼の決断

義経を欠いた源氏軍は平家との戦いに苦戦を強いられることとなる。
この事態に再び義経の手腕に頼らざるを得なくなった頼朝は京都にいた義経に出陣命令を下す。
そして義経が参戦した源氏軍は、平家軍を屋島の戦いから壇ノ浦の戦いで勝利を収め、ついに平家は滅亡。
またも義経の華々しい活躍が源氏を勝利に導いたのだ。
しかし、この戦いにおいても他の諸将の反対を押し切り、独断で兵を動かすなどの報告が頼朝に届く。
そんな義経に対し、頼朝は鎌倉より追放し、立ち入ることも禁じる処断を下す。
京都に赴いた義経は後白河法皇より伊予守(伊予の国司)に任ぜられる。
一方、頼朝のもとに義経謀反の企みありの噂が届く。
すぐさま京都に密偵を放ち義経の身辺を探らせた。
それを察知した義経は、朝廷に頼朝追討(勅許)を願い出る。
そして後白河法皇はこの願いを聴き入れたのだ。

朝廷より頼朝追討の命が義経に下ったことを知った頼朝は、ついに弟・義経の追討を決断。
武士による政権を築くには、もはや義経を討たなければならない状況へと展開してくのだった。

文治元年10月29日、頼朝は京都へ向けて出陣。
頼朝軍出陣の知らせは京都に届くと、公家たちは慌てふためき、朝廷は打って変わって頼朝に対し義経追討の命を下す。
義経のもとには頼朝軍と戦う戦力は集まらず、僅かな従者を引き連れ都を逃れることとなった。
この機に乗じて頼朝は朝廷に守護・地頭という役人を全国に置く制度を認めさせている。

1188年(文治4年)、義経が奥州藤原氏に身を寄せていることが発覚。
1189年(文治5年閏4月30日)頼朝の圧力により朝廷から義経追討の命が下っていた藤原泰衡は、それに屈し衣川館の義経を襲撃し義経はこの地で果てた。



そして頼朝は、義経を匿っていた藤原泰衡も反逆者とみなし、7月19日、泰衡追討のために出陣。
逃亡を続けた泰衡を追い、奥州軍を破り、追い込んでいく。
9月3日、従者の裏切りに遭い泰衡は殺害される。

征夷大将軍就任と鎌倉幕府の成立

1192年7月12日(建久3年)、後鳥羽天皇により頼朝は征夷大将軍に任命される。
そして、武家政権による政治体制が確立されるこことなったのだ。
一般的に、頼朝が征夷大将軍に就任したこの年を鎌倉幕府成立年とする見方も多い。

1199年2月9日(建久10年1月13日)源頼朝死去。享年53歳(満51歳)。
頼朝の死因として死の前年に落馬したことが原因とされることがあるが、真相は定かではない。

(寄稿)探偵N

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