川中島の戦い 経済的視点から覗いてみる武田信玄と上杉謙信の名勝負

川中島の戦い

 戦国期の名勝負の1つとして数えられる越後の龍・上杉謙信(1530~1578)と甲斐の虎・武田信玄(1521~1573)の『第4回川中島の戦い』(1561年)は、江戸期から現代に至るまで、多くの小説や映画・ドラマなどで取り上げられています。
 一例を挙げさせて頂きますと、江戸幕末の詩人であり、江戸幕末の志士たちに多大な影響を与えた「日本外史」を著した偉大な歴史家・頼山陽(1781~1832)が、有名な「鞭聲粛々夜河を過る~」から始まる漢詩『不識庵機山を撃つの図に題す』を作り、現代でも作家・井上靖・新田次郎の両先生が、武田信玄側を主人公とした長編小説『風林火山』(新潮社)・『武田信玄』(文藝春秋)を敢行され、一方の上杉謙信側では、海音寺潮五郎先生の名作『天と地と』(朝日新聞社など)があります。また近年では、乃至政彦先生をはじめとする研究家の間でも、実戦における陣形・陣立ての研究サンプルとして川中島の戦いが扱われている例もあります。



 上記のように、各時代を代表する歴史家・小説家の各氏によって描かれるものは何れも素晴らしく、筆者如き謙信・信玄の両雄が好きな者を感奮興起せしめるほどの題材となる『川中島合戦』でございますが、明治期以後に成立した大日本帝国陸海軍でも、「川中島戦役」は軍人(戦後は自衛官)の戦術教育として貴重な戦史教材として重宝され、軍人の中には川中島おける謙信と信玄の駆け引きを戦術として熱心に研究する人物が幾人かおりました。
 例えば山梨勝之進(1877~1967)という海軍軍人がいました。この人物の名前を始めてお知りになられる方もいらっしゃると思いますが、昭和天皇陛下が戦前の文官や軍人の中で、最もご信頼されていたと伝わるほどの軍内切っての博識と誠実な人格を有していた大人物です。
 山梨は宮城県出身であり、明治・大正・昭和の3代にかけて帝国海軍の軍人(主に軍政家)として活躍、海軍次官などの要職を歴任し、最高位の海軍大将まで昇進しました。軍人にも関わらず温厚篤実かつ非常な勉強熱心な人柄であったために、将来は連合艦隊司令長官か海軍大臣に就任するであろうと有望視されていましたが、海軍内部分裂騒動(大正軍縮期における「条約派」と「艦隊派」の内訌)に巻き込まれたことにより予備役に編入され、海軍を追われることになりました。
 その後は、昭和天皇陛下の強いご要望により1939(昭和14)年に17代学習院長に就任し、当時皇太子であられた上皇陛下(当時は明仁親王)の教育を担当しました。
 戦後は、旧日本海軍の重鎮として海上自衛隊の設立などに尽力。同隊設立後は高齢にも関わらず、山梨は海上自衛隊幹部学校で戦史講義を定期的に担当しました。
 講義内容は、古今東西の名将である仏国の英雄・ナポレオンや英国の初代ウェリントン公爵、英米両国の海軍史、天才参謀・秋山真之の才知、山梨自身も参戦した日清・日露大戦についての論証などの解説と多岐に渡り、山梨が有していた教養の深さを知ることが出来るのですが、日本戦史からは「川中島合戦」を名戦史例として山梨は採り上げ、当時の幹部候補生たちに講義を施しています。



 山梨が語った「川中島合戦」の講義内容は、『歴史と名将』(毎日新聞社 1981年敢行)の「第5話 川中島合戦」で掲載されており、現在でも気軽に読むことが可能であり、前述のように古今東西の戦史に通暁する偉大な博識家であった山梨が織りなす川中島合戦の戦評は実に明解であり、読んでいて実に面白いのであります。
 また山梨本人も第5話冒頭にて、『私は、川中島の戦史は、日本人と生まれた者は、軍人であろうと、軍人でなかろうと、そんなことはかかわりなく、ぜひ読むべきであろうと思うのであります。』と、川中島合戦の戦史を知ることを強く推しているのであります。その山梨の川中島戦評の要点を箇条書きで挙げさせて頂くと以下の通りです。

⓵『信玄が甲斐国(山梨県)から南信濃および川中島を有する善光寺平(長野県)へ侵攻を開始した理由』
⓶『謙信が川中島を信玄進攻から死守した理由』
⓷「第4回川中島における武田・上杉両軍の布陣についての分析」
⓸「信玄、武田軍別働隊が敢行した上杉軍本陣である妻女山の奇襲作戦での失策」
⓹「謙信の方が一枚上手であった第4回における作戦行動、および麾下の謙信麾下の名将・甘粕近江守景持の奮戦」
⓺「名戦略家・信玄、戦闘家・謙信の違い」
⓻「信玄・謙信の当代の名将が繰り広げた川中島合戦が後世に遺した精神とは」
 
 7つの要点は筆者の勝手な判断で抜き出したモノではございますが、兎に角も上記の要点を以って山梨は、詳細かつ分かり易く川中島合戦について論評しています。山梨流川中島戦評についてご興味のある方は、『歴史と名将』をお買いになられてお読みになることを強くおススメさせて頂きます。因みに前述のナポレオンやウエリントン、秋山真之などの名将の論評についても本書内で収蔵されており、更に読み応えがある内容となっています。
 
 以上のように(長々として申し訳ありませんでしたが)、近世~現代という長い歴史において物語や戦史研究の対象として主に語り継がれる『川中島合戦』についてですが、近年では、戦国期当時から甲信越における『経済・信仰の要地』であった川中島を含める善光寺平の領有を巡って謙信と信玄が雌雄を争った一種の経済戦争であったことに注目されています。
 今回は、その風潮に便乗されてもらい筆者も経済的視点から川中島合戦について探ってゆきたいと思っております。筆者が尊敬する前述の山梨勝之進ほどの深い評論は到底不可能であり、筆者のハンドルネーム(「鶏の肋」)のようにに肉付きが薄い内容になるかもしれませんが、少しでも良き内容にできるように励んで参ります。



 今更ですが、信玄と謙信が1553年~1564年の11年間に渡って通算5度戦った合戦のことを総称して「川中島の戦い」と言われいることは皆様ご承知の通りであり、その中でも第4次川中島合戦、即ち「八幡原の戦い」が、信玄vs謙信の一騎打ちの伝説が生まれるほど最も激戦であったこともまた有名であります。
 第1次~第5次の全合戦は、何れも善光寺平、つまり現在の県庁所在地である長野市一帯を舞台としているのでありますが、信玄・謙信という甲信越地方に拠る当代きっての両雄にとって、信濃北方の善光寺平というのはとても魅力的な地帯であったことがわかります。即ち、前述のように経済・信仰の要地であったから信玄・謙信は同地の支配権を巡って10年以上争ったのであります。
 元来、戦国期の代表的な合戦、例えば、当時陶業盛んな知多半島の支配権を巡っての織田信長vs今川義元の「桶狭間の戦い」(1560年)、瀬戸内海の海上貿易の重要拠点であった厳島宮島)を巡っての毛利元就vs陶晴賢の「厳島の戦い」(1555年)は、典型的な経済戦争(要地争奪戦)が主因となっています。勿論、戦国期日本を動揺させた数多の合戦全てが、経済戦争の様相を呈していたとは言えないのですが、上記の信長の桶狭間や元就の厳島は経済流通の拠点を巡っての戦いであることは間違いないのであります。
 当時は日本全国で無数の合戦が発生していますが、各地の戦国大名や国人たちは何も理由無しで遮二無二に、財力や人員を大きく消耗する合戦を繰り広げていたのではなく、それなりの『見返り(利益)』を求めて戦っていたのであります。多くの家臣や領民(組織構成者)の生活を保証することが第一義務であった組織の長・戦国大名は、現代企業の社長さんたちを同様であり、ビジネスを起こし、利益を出し多くの社員さんにも得た利益を分配しなくてはいけません。
 戦国大名における大きなビジネスが「合戦」であります。合戦という高コストのビジネスを起こし、成功すればコスト以上の高利益が得られる。戦国大名(社長)にとって、多くの家臣団(従業員)の旧領を安堵した上で、褒賞として合戦で切り取った土地を与え(新地給恩)、家臣団の忠誠心を高めて自家の結束力を強めるには「合戦」が一番効力があるものでした。拠って、大名および家臣団は、高費用/低利益の合戦は忌避したのは当然であり、高費用/高利益の合戦には積極性がまだありました。
 
 『武田の狙いは奥信濃の沃野(筆者注:善光寺平)。どんな犠牲を払ろうても己が手にするまで諦めるのが武田』(角川春樹監督映画「天と地と」の劇中より)

上記は、武田軍の信濃侵攻が加速していく戦況で、名優・渡瀬恒彦さんが演じられていた謙信の軍師・宇佐美定行春日山城における評定シーンで語った台詞であります。創作上とは言え、善光寺平を目指して猛烈に北上してくる武田軍について、宇佐美の台詞は正鵠を射たものであります。
 国力(農業生産力)が乏しい甲斐から、諏訪平・松本平・伊那谷・木曾谷などの南信、佐久平・上田平などの中信を数々の激闘を重ねて制圧し、信濃国内随一の豊穣かつ経済地帯であった北信の善光寺平に進出してきた信玄率いる武田軍は、常に高利益(豊かな土地)を求めてきた戦国期有数の名門企業かつ最強侵略兵器でありました。
 元来、武田の大方針である信濃経略政策は、信玄の父・信虎から続いているのものであり、信玄が信虎を追放して武田氏の当主となった(1541年)後も大方針は変更されずに、信玄がより一層信濃経略に力を注ぐようになり、外戚に当たる信濃の名門・諏訪頼重、その一族・高遠頼継、信濃守護大名小笠原長時、そして信濃の最大実力者・村上義清などを打倒し、約20年の歳月と多くの犠牲を費やして漸く善光寺平が拡がる北信まで進出してきたのであります。
 信濃国はご存知のように南北に長い上、数多な平(丘陵地帯)が点在、その各地に割拠する国人衆たちを懐柔、または滅ぼしていくのは想像するだけでも気が遠くなるほどの難事業であり、それに従事せざるを得ないほどの経済的・地理的不利を味わい続けた英雄・信玄の悲哀を感じることを禁じ得ないのですが、その万難を排してまでも信玄が欲した善光寺平とはそれほど魅力的な土地であったことが察せられます。一体、善光寺平(即ち現在の長野市)はどのように魅力的であったのでしょうか。

 川中島が所在する善光寺平の名を通り、同地には奈良期7世紀後半に建造された無宗派の名刹・『善光寺』(本尊は絶対秘仏とされる「善光寺式阿弥陀三尊」)が鎮座。信濃国内は勿論全国から崇められる地であり、中でも武家政権の創始者である源頼朝、次いで鎌倉幕府執権・北条氏からも厚く信仰・保護され善光寺は武家社会でも崇拝されることも重なり、善光寺平は全国から集まる信者の宿坊や市が設立される信濃国有数の門前町として殷賑を極めていたと言われています。
 そして善光寺平は、信濃国内随一の平坦地(台地)が拡がる上、水田開発および河川交通には不可欠な大河川の犀川・千曲川の両川が合流する(「天と地と」の宇佐美の言うように)正しく地味に肥えた沃野であり、当時の主要経済産業であった米生産を含め、麦などの二毛作も活発に行われていたので、石高のみで約10万石あったと言われています。信濃国全体の石高が約40万石ですので、善光寺平のみで国内石高の1/4を有しているほどの豊地であります。
 またあまり注目されていない点かもしれませんが、古代から多くの鮭・鱒が千曲川を経て日本海から遡上してくる水産面でも有名な地帯であり、平安期(959年)に編纂された三代格式の古代法律書の1つである「延喜式」には、信濃国は鮭を朝廷に献納する産地として挙げれられるほどであり、江戸期になると徳川幕府にも善光寺平の鮭(新巻鮭)は貴重品として献上されています。甲斐という海産物とは縁が薄い信玄や甲斐の人々にとって、鮭が漁獲できるという点を鑑みても善光寺平は魅力的な土地であったと思われます。 人々から厚い信仰地、精神面の支柱として多くの人々が集い地方有数の経済圏として発展し、米麦生産、鮭鱒などの農水産物が豊富な善光寺平。
 信玄が長い年月を掛けて数々の信濃国人衆などを撃破し、次いで北の越後に控える謙信という大敵に当たってまででも同地を欲して猛烈に北進してきたのも無理からぬものであります。
 因みに、(以前の毛利元就の厳島合戦関係でも記述させて頂きましたが)、善光寺平のように「宗教(精神的支柱)」と「経済的要地」というを抑えた戦国大名は、当時有数の大勢力と成長しています。
 最終的に、謙信の脅威を退け善光寺平の支配権を確固たるものした信玄も例外には漏れないのですが、他の例では毛利元就は厳島合戦の大勝によって瀬戸内海上の守護神として尊崇されていた厳島神社と、海上貿易の重要拠点であった厳島(宮島)を抑えることによって西日本一の戦国大名まで急成長し、天下の覇者となる織田信長も祖父・信定と父・信秀が構築してくれた尾張国内(愛知県西部)に鎮座する「津島神社と津島湊」・「熱田神宮と熱田湊」という、(相変わらず陳腐な譬えですが)「2大宗教経済セット圏」を背景として勢力を構築してゆきました。
 
 『段銭(田んぼ税)と棟別銭(建物税)が普通の戦国大名の収入源ですが、その他に「財布を持っている者」が強いですよ。物産の販売権、金銀の鉱山や湊を抑えている。通常の大名よりも違う財布やポケットを持っていると強いですよ』

 上記は、歴史学者の磯田道史先生がご自身の司会番組である『英雄たちの選択』(NHKBSプレミアム)で上杉謙信を扱った回(「関東から天下へ!~上杉謙信の夢と野望~)で、仰ったものでありますが、それに倣って述べさせて頂くと前掲の信玄や元就、そして信長といった信仰と経済(財布)のセットを持った戦国大名は現代人の我々が知っているほどの有力者となっているのであります。
 誰もが必死になって生き残るために戦乱動乱期の最中において、時の有力者になる大人物にはやはり理由があるのであることを今更ながらも思い知らされます。その1つが経済力であるということもです。
 甲信越における経済戦争の1つが、同地方における有数の経済的要地の善光寺平の攻防を巡って信玄と謙信が激突した「川中島合戦」であるのですが、信玄が貧国の甲斐から北進、善光寺平へ侵攻してきたことは先述の通りでございます。即ち信玄率いる甲斐武田は川中島合戦における攻撃側(攻め手)ということになります。
 信玄が攻撃側とすれば、守勢側(守り手)の謙信からしてみれば、もし北進してくる信玄が善光寺平を傘下に置いた後の次の攻略目標は、自分の本拠地であり、当時の海上交通の大動脈路であった日本海交易の重要拠点の1つの越後国(厳密に言えば春日山城とその城下町である直江津)であることは自明の理であり、「信玄を千曲川で食い止め、何としても善光寺平(川中島)を死守しなくてはいけない」と思ったに違いありません。そして、やはり謙信にも信玄に善光寺平を獲られてしまっては、越後防衛上以外にも『自分の経済的損失も出る』という理由があったのであります。

信玄「何としても経済的に恵まれた善光寺平を支配し、武田の勢力基盤を強めたい」



謙信「信玄に善光寺平を獲られてしまっては、我が越後が武田の脅威を直に受ける戦術的ダメージだけでなく、我が長尾(上杉)の経済基盤が揺らぐ」

両者は各々違う思惑(打算)があり、善光寺平を舞台として衝突したのが川中島合戦であるのですが、もし信玄に善光寺平を制圧されてしまった場合に、越後の謙信が被る経済的損失とは何か?ということになるのですが、それは謙信の本拠地である越後の海産物を含め特産品である繊維・青苧(カラムシ)などの越後ブランド品が、名刹・善光寺を敬慕して集まって来る甲信有数の発展地である善光寺平での商売利権(上杉氏の商売先)が、信玄のために消失してしまうということであります。
 元来、越後に近いという地理的環境(謙信の本拠地であった上越市~長野市間の直線距離は約65km)のため、信玄侵攻前の善光寺平付近一帯に割拠していた井上・須田・信濃島津、飯山の高梨氏などの小規模の国人領主層は、何れも親・上杉(長尾)派であり、謙信からしてみれば善光寺での越後物産販売は容易であったと思われます。また前掲の北信濃の国人衆も謙信にとっては越後の海産物を買ってくれる大事な顧客層であったことでしょう。
 その善光寺平一帯に拠る国人衆と越後の謙信の緊密な関係、および謙信の重要な利権(善光寺平での商売先)を外部からぶち壊しに来てしまったのが、甲斐の信玄であります。謙信からしてみれば、信玄の北信濃侵攻は自分の大事な縄張り、フォーマルに言えば既得権益を荒らし回る「憎き災害」以外でしかなかったことでしょう。現代風に言えば謙信は、『俺の大切な顧客や店先を荒らすな!』と信玄に叫びたかったに違いありません。
 
 筆者が尊敬して止まない歴史作家の司馬遼太郎先生は、謙信のことを『農本主義者であり、商品経済を軽侮していた』ということを『街道をゆく10 羽州街道・佐渡のみち』(朝日新聞社)の文中(「うこき垣」の項内)で書いておられますが、誠に僭越ながらこの点に関しては不肖な筆者でも賛成致しかねる部分でございます。
 戦国大名の中で経済感覚に優れた人物として挙げられるのは、先ず織田信長や豊臣秀吉が双璧と双璧というべき偉人であることは周知の通りであり、その他にも謙信と信玄の好敵手であった関東の雄・北条氏康、北関東の佐竹義重、東海の今川義元、中国地方の毛利元就、北九州の大友宗麟(義鎮)、そして甲信の信玄といった地方の大物も経済感覚に優れたいた巨人たちであります。
 上記の連中は経済に優れていたからこそ、戦国期を代表する有力戦国大名になったことが理由の1つであることは断言できるのですが、北国の謙信も経済感覚に優れていたことも事実であり、寧ろ信長にも匹敵するほどに商品経済の重要性を認識していた人物であったと思います。
 現在の越後、即ち新潟県は「コシヒカリ」の原産とする全国指折りの米生産地であることは有名でありますが、謙信在世当時の越後国土(特に現在の新潟市や魚沼周辺)は、沼地や湿地帯に覆われていたために決して米所ではなく、いわゆる農業後進地帯であり、後年の太閤検地でも越後一国の石高は(国土の広さに比べ)、わずか約39万石しかありませんでした。因みに越後が米の産地として変貌してゆくことになるのは、江戸期に、当時治水など土木技術に優れた濃尾や近畿地方の出身者である堀氏や溝口氏などが近世大名として越後へ転封になった際に治水や新田開発を行うことで米の生産力が上昇し、現在の日本有数の農業先進地になるのは戦後に、国の大干拓政策後であります。
 宿敵の信玄の甲斐約22万石と比較すれば米穀の穫れ高は多いですが、謙信が川中島や関東での幾多の合戦や2度の上洛を敢行をするほどの経済力を当時の越後の石高のみで、それらの多額な費用を賄えることは困難であります。そこで謙信が上杉氏の経済の源泉として重点を置いたのが、特産品と日本海交易という商品流通経済でした。
 謙信は、越後の特産品であった『青苧』を栽培を奨励。当時木綿が未だ普及していない時代であり、越後青苧から編まれる越後上布は衣類(特に男性衣類)の原料として京都の公家たちに重宝されており、京都などの上方商人たちは越後に訪れた青苧を買いに来てました。
 また謙信は、商人たちが越前敦賀から日本海を経て青苧および越後上布を買いに来る商人の船舶を迎え入れるように、春日山城下の直江津や隣の柏崎湊を整備することにより流通経済の活性化を図る一方、上杉氏の御用商人的存在である蔵田氏を動かし青苧座(組合)を結成させ、越後国外から青苧を買い求める船舶には関税を掛けるように指示もしており、上杉氏の強固な経済基盤を構築しています。
 謙信主導(御用商人:蔵田氏)の経済流通政策(つまり青苧販売)も実に興味深いものありますので、この事に関しましては、また別の機会に紹介させて頂きたいと思っておりますが、兎に角にも謙信も信長たちと匹敵するほどの優れた経済感覚を持った人物であったことは、青苧の販売促進などを鑑みても明白な事であり、謙信の2度の上洛の目的の1つには、青苧および越後上布の販売活動および全国の青苧座の総元締である公家・三條西家との交渉などの、所謂トップセールス活動がありました。その商業活動に意欲的な謙信が自分の得意先の1つである善光寺平が信玄に荒らされるのを看過するはずがありません。
 信玄は経済的に恵まれている善光寺平が只々欲しいため同地に侵攻、周辺の国人衆を駆逐し、一方の謙信は大事な取引先である善光寺平と国人衆を護るために南進して来て、善光寺平に対武田の防衛ラインを敷いたことにより、1553年・布施の戦いが嚆矢となり戦国期を代表する名勝負・川中島合戦の始まったのであります。




 
 1553年に始まり1564年に終結した川中島合戦は、善光寺平の支配を目的としていた信玄が、謙信側の勢力を同地から駆逐し、海津城(後の松代城、城代は信玄の懐刀である高坂昌信)を築き、支配権を獲得した信玄が戦略的勝利をしたことになるのですが、やはり強豪・謙信を相手にしての長きに渡る大戦でしたので、『時間的』および『人財面の大損失』は大きいものであったことは、『武田氏の末路』を考えてみると間違いありません。
 1553年からの凡そ10年間は、未だ群雄割拠の時期であり、信玄は30代~40代前半の正に働き盛りの壮年である上、信玄亡き後の武田氏を滅ぼすことになる当時の織田信長(20代)は、尾張国内の一族重臣たちの内紛および今川義元の脅威に晒されている中小勢力に過ぎない時期であり、未だ美濃国(岐阜県南部)の攻略も果たせていない状況でした。
 上記の状況の中で、信玄が善光寺平攻略および謙信との対決に費やした時間はあまりにも大きいものでした。当代切っての器量の持ち主である信玄が甲斐という山間の地に拠り、また山や丘陵に囲まれる信濃、その随一の豊地である善光寺平の経略、そのリアクションとしての謙信との対決に進むしかなかったという信玄が、生涯味わった地理的・経済的不利があります。
 先述の海軍軍人・山梨勝之進が海軍大学生期(甲種5期)に、同校の教官の1人に、日本海海戦(1905年)の作戦立案で活躍した先任参謀・秋山真之(最終階級:海軍中将)がいました。
 秋山真之は、司馬遼太郎先生の大著『坂の上の雲』の主人公として有名でありますが、秋山が持つ天才的閃きおよび現実に即した明晰な思考力の持ち主であったことは、山梨も自著『歴史と名将』で絶賛しています。その天才・秋山が自戒の念を込めて書いたとされる30条から成る『天剣漫録』という第4条には以下ことが記されています。

 『金の経済を知る人は多し。時の経済を知る人は稀なり』(第4条)

 上の秋山の至言を拝借させて頂き、今回の信玄の事を考えさせて頂くと、時を費やし悪戦苦闘して善光寺平を制した戦国期随一の名将・信玄でも「時の経済」を知ることは難しく、家柄を含め勢力が遥かに格下であったはずの織田信長の後塵を拝すことになり、遂には武田氏を滅ぼされることになってしまうのですから。

 先述のように秋山真之は作戦参謀としてだけではなく、海軍大学校や兵学校の教官としても活躍し、山梨・清河純一など海軍の逸材の教育に尽力した人物でもあります。
 秋山が教鞭を採っていた折の講義内容である「海軍基本戦術第1・2編」「海軍応用戦術」「海軍戦務」「海軍軍務 別科」が一冊に纏められた『秋山真之戦術論集』(中央公論新社 2005年初刊)という書籍があります。同書を編纂されたのは日本海軍研究の第一人者であられます戸高一成先生でございます。
 白状してしまえば、生来地頭が悪い上、戦術や戦略などを本格的に学んだことがない筆者が秋山の戦術論を読んでも全く理解できないのでありますが、ただ一点だけ断言できるのは、秋山が単なる天才ではなく古今東西の戦史、その関連知識にも通暁した博識人かつ名文家であるということであります。
 秋山もまた戦術研究として、当時の2大戦術家が干戈を交えた川中島戦役に強い関心を持っていたと言わており、「甲陽軍鑑」なども熟読し、後世「秋山軍学」と称せられるほどに有名になる彼の軍学に更なる磨きをかけたのですが、軍人そして戦略家・秋山真之としての川中島戦役を起こした信玄と謙信に対する論評は、戦術面では戦国史を飾る名勝負として絶賛しつつも、大局的視点による戦略面では飽くまでも『両雄の時間や人財を疲弊させたもの』と断じています。その詳細が前掲の『秋山真之戦術論集』本文に掲載されていますので、長文ではありますが、その部分を以下に紹介させて頂きます。



 戦国時代に当たり武田、上杉の両軍が信州川中島にて殆ど戦果なき激戦を交ゆること数回に及び、其戦闘の光彩は両軍戦術の巧妙なると、戦闘の激烈なるとに依り今尚ほ我が戦国史を飾ると雖も、当時対抗両軍は、戦果として何等獲得せしもの無く前後数回の合戦に両軍の勇将猛卒戦歿したるもの頗る多く、為に信玄も謙信も其一生の雄図を天下に実行すること能わずして終に織田信長に中原の鹿(筆者注:天下)を獲せしめたる如き、当時両家対陣の事情已むを得ざめしものありしと雖も、抑々両軍常に拮抗仲伯せる兵力と兵術を以て戦果を得るの望みなき戦闘を屡々したる因果たらざるはなし。其他古来海陸の戦例に於て唯だ勝戦として戦史に伝ふるのみにて、其戦果の挙げざるもの甚だ多し、深く戒めざる可ならず。』

(以上、「海軍応用戦術 第3節 戦闘の勝敗及戦果」文中より)

 結果的に信玄が善光寺平の支配権を獲得しているので、「両軍は、戦果として何等獲得せしも無く」とは些か厳しすぎる評価であると思いますが、「勇将猛卒戦没したるもの頗る多く」は全くその通りの事実であります。
 川中島の最大の激戦となった第4次の八幡原の戦いで、諸説ありますが武田・上杉両軍合わせて8千以上の死傷者を出したと言われ、特に武田軍側の被害は甚大であり、信玄の弟であり後世「天下の副将」とも謳われた器量人・武田信繫(典厩)、譜代家臣の諸角虎定(豊後)、初鹿野忠次(源五郎)、足軽大将の山本勘助(晴幸)などの武田軍の高級武将の多くが戦死しています。
 特に、文武・教養・人格に優れ、武田家中の調整役であった信繫という筆頭重鎮を失ったことは、信玄および武田氏の将来にとって痛恨事であったことは否めません。信繫死後に、信玄と嫡男・義信が政略方針の対立によって、武田氏は信玄派と義信派で内部対立する「義信事件」(1564年)に発展し、結果的に武田氏は大切な跡取りであった義信、譜代家臣で武田赤備えの創始者であった猛将・飯富虎昌(兵部)などの家臣も失うことになり、戦国期最強として諸大名から畏怖されていた武田氏の勢力に翳りが出たのは紛れもない事実でした。
 1573年に信玄が病没、武田氏は(本来家督相続権が無かった)四男・諏訪勝頼が当主となりますが、信玄以来の家臣団を上手く統御することが出来ず、1575年に長篠設楽原の戦いで織田・徳川連合軍に大敗し、そして、8年後の1582年に当時、天下の覇者として君臨していた信長・家康・北条氏政連合軍によって名門・武田氏は滅ぼされてしまうことは周知の通りでございます。
 武田氏が不運にも滅亡してゆく経緯を辿ってみると、信玄が父・信虎以来の宿願であった信濃経略に勇躍し、多くの時を費やし武田の柱石であった弟・信繫など多くの将兵を犠牲にして信濃国一の豊地・善光寺平を獲得したことは最善の策であったのか?
 秋山真之が述べるが如く、当時の信玄にしても謙信にしても『事情已むを得ざめしもの』があったことは事実でありますが、結局、善光寺で名勝負・川中島合戦を繰り広げたことが、間違いなく第三者であり信玄・謙信の勢力格下であった信長の急成長を間接的に助長させ、最終的に武田氏の衰退・滅亡の遠因となり、上杉氏も信長に滅亡寸前まで追い込まれる状況となったのであります。結果論ですが、信玄と謙信にとって、やはり川中島の戦いは両氏の勢力を衰退させる病根であったのです。

 『着眼すべきは勝敗の空名にあらずして(中略)多大な戦果を収むるにあることを銘記せざる可からず、戦果なき戦勝は一つも勝者を利することなく、唯だ無益の殺傷に過ぎざるなり』
 『先づ戦ふて幾何の戦果を収め得べきかに留意するを最要なりと知る』

上記の2つも秋山が語った言葉(「海軍応用戦術 第3節 戦闘の勝敗及戦果」内より)であり、信玄が貴重な時間と人財を費やして得た善光寺平という利益と、武田氏の最悪な結末を比較してみると、英雄・信玄といえども多大な戦果を収めたとは言い難いのであります。




 
 信長死後、天下の覇権を把握した豊臣秀吉も、川中島合戦に対しては秋山と同様な思いを持っていたらしく、謙信と信玄の川中島における名勝負ぶりを人々が賞賛していることを聞くと、『計が行かない戦をしたものよ(無益な戦をしたものよ)』と諸人が名将と持て囃す謙信と信玄を酷評したという逸話が残っているのが有名であります。
 秀吉も主君であった信長に似て、というより信長以上に合理主義思想の持ち主であり、合戦を行う前に外交・調略などの情報戦を展開することにより敵方の将兵を自軍に引き込む一方、兵力・兵糧・鉄砲弾薬の軍事物資調達など兵站管理を徹底的に行い、いざ実戦に赴く際には、敵を圧倒する兵力と物資で短期間で合戦を終結させ、確実に領国(利益)を拡大してゆくという、実に抜目の無い戦い方でした。
 ただ戦いを起こすのではなく、味方の損害を少なく勝利を治め、戦後の利益などを重視するという徹底的な合理/功利主義を貫き通すことにより天下を掌中にした秀吉からしてみれば、謙信と信玄の10年以上に渡って東国の片田舎の丘陵地帯である善光寺平を取り合って死闘を演じていることが、如何にも「計が行かない」かつ「馬鹿馬鹿しい」合戦に映ったことでしょう。
 もっとも謙信・信玄の両雄と秀吉とは、年代(政治的情勢)、経済的事情(地理的環境=西国と東国)などが明らかに違うので、秀吉の言う事に全て賛成にすることは難しいのですが、乱世を制し途轍もない偉業を成し遂げた秀吉という戦国期の天才が、指摘している川中島合戦(計が行かない戦)評は、短いながらもやはり正鵠を射ているのもまた確かな事であります。
 余談ですが、もし信玄と謙信が、自分たちに向けられている秀吉の酷評を聞いたなら何と思うでしょうか?信玄は『何度も喧嘩を売ってきている謙信が悪いだ!俺は攻めて来た謙信を防ぐために戦っただけだ。』と主張し、対して謙信は『最初に信濃を掠め善光寺平を荒らしに来た信玄の方が悪いんだ!俺は自分の商いの縄張りを護るために信玄と戦ったのだ。』と反論することでしょう。それが後輩の秀吉からしてみれば「笑止な水掛け論、五十歩百歩の口論」であり、「だから先輩方は、戦の天才でありながら天下を獲ることができなかったのですよ」と判定したに違いないでしょう。
 
 『どっちも自分が正しいと思っているよ。戦争なんてそんなもんだよ。』

という上記の至言は、昭和を代表した偉大な漫画家であられた藤子・F・不二雄(本名:藤本弘)先生の名作『ドラえもん』に出てくる名言の1つでございますが、古今東西の戦争とは万事このような両者の主張が激突した一大現象であり、無論、戦国史に残る川中島合戦もその現象に属するものであり、信玄と謙信による互いの経済的主義主張が一騎打ち伝説を生むほどの名勝負として、現代まで語り継がれているのであります。
 以上、筆者が好きな合戦・川中島合戦を経済的視点で覗いてみた内容でございました。

(寄稿)鶏肋太郎

名将・上杉謙信から見る当時の大名と家臣団の関係性
損し続けて最後に天下をとった【徳川家康】
毛利元就の大躍進『厳島の戦い』は、経済拠点争奪戦でもあった
戦国随一の名将「武田信玄」が苦杯を舐めた経済的不利とは?
武田信玄はじめとする甲州人たちは何故 偉大なテクノクラート(技術官僚)となったのか?
織田信長が優れた経済感覚を持てた理由
毛利元就 謀神ならぬ優秀な経済戦略家

共通カウンター

フィードバックする

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。