松永久秀 覆る新たなイメージ像 驚いた!逆転!

松永久秀

松永久秀(まつなが-ひさひで)を描かれたとされる肖像画が、2020年3月、新しく見つかりました。
戦国好きの方々には驚かれた人も多いかと思います。この新しい久秀像がとても面白い!まずは紹介する前に、皆さんは松永久秀をどのような姿でイメージされるでしょうか?
何度も裏切りを繰り返した謀反人。
政治的なライバルを蹴落とす為に暗殺も厭わない冷血漢。
久秀の三悪事、三好家の乗っ取り、永禄の変、東大寺大仏殿の焼き討ちから斎藤道三宇喜多直家と並び称される戦国のヒール。伝えられている最後の死に様からボンバーマン。
などどれも滅茶苦茶な事をやらかした破天荒な人物像を先ずは思い浮かべるかと思います。
太平記英雄伝十四に描かれている久秀や、他の錦絵の久秀など、どれもこれも、荒々しく強面で何やら恐ろしそうな雰囲気で描かれています。


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このイメージがあるのか、現代のドラマや漫画、ゲームなどでも、どこか怖そうな悪人顔のキャラクター像で登場してきます。
しかし、新しく発見された松永久秀の肖像画を見ますと驚きます。
先ほど書いた人物像とは異なり、爽やかそうな青い直垂を着て、顔はどこか、温和で優しそうな雰囲気があります。従来の久秀像と比べてみても外見的な特徴は全く正反対です。
しかも、顔をよく見ると唇は厚く前歯がつきでています。なんと出っ歯です。出っ歯!もうこれだけで従来の久秀のイメージとは大きく違ってなにやら愛嬌すら感じます。

新しい肖像画の発見から従来の外見的なイメージを大きく変化させつつある松永久秀ですが、近年では、その人生でも、極悪人ではなくむしろ忠義人だったとされる逆転の説もでてきています。
今まで語られているエピソードを元に検証してみましょう。

どこまでが本当?久秀の三悪事

織田信長が語ったとされる久秀の三悪事、その一つが主家の乗っ取りとされています。
久秀は三好長慶に仕えていましたが、彼の死の前後で嫡男の三好義興の毒殺、長慶の弟、十河一存の暗殺、同じく弟の安宅冬康を長慶に疑念を抱かせ自害に追い込み 政権の重要人物達を排除し三好家を自らの思うままに牛耳ったとされています。 
二次史料などを調べていきますと、当時の民衆の噂話として「毒殺の風聞があった」とか「松永が暗躍したとの雑説があった」とか確かに 当時の世論は久秀疑惑のようなものがあったのは事実のようです。 
では、噂は別として、真実はどうだったのでしょうか? 
調べてみますと、久秀が専横したとの記録は一次史料からどこにも確認できず、 暗殺や殺害なども軍記物などで、信憑性のレベルについては低いです。 
柳生家の記録では深く悲しんでいる姿の久秀が記載されていますし、久秀自身も三好三人衆の一人、岩成友道宛に三好家に忠節を誓い死すら厭わない覚悟がある事を伝えています。
事実その後の行動も織田家を離反する事はあったとしても、三好家を裏切った事は一度たりとてありません。 
三好義興の後継者は十河一存の嫡男、三好善継が当主になっています。久秀が十河一存を暗殺してその息子が当主になる事を久秀が放っておくでしょうか? 安宅冬康に関しても彼を排除した所で、三好政権では篠原長房が実力者として存在しています。
ライバルを全て蹴落としているわけではありません。
この事実からも暗殺説や三好家の専横説は弱まるのではないでしょうか。  


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二つ目は、永禄の政変ですが、結論から言えば久秀自身は係わっていません。 
この事件の実行犯は三好善継、三好三人衆と久秀の息子の松永久通です。 
久秀自身はこの頃は既に隠居していまして、幕府への出仕は久通に任せ、 大和国の運営に力を入れていました。事実、事件当時も大和国にいて、政変の軍事行動には参加していません。 
裏で久秀が暗躍した説も考えられますが、それを考えるには永禄の変当時の久秀と義輝の関係がどのようなものであったのかを考えなければなりません。 
確かに事件が起こる数年前(1549~1558頃)はお互い血で血を洗う関係です。特に義輝は何度も暗殺者を送り込み長慶やその近親者の命を執拗に狙っています。 
義輝が京を追われた時には久秀は「将軍が追放されるのは天罰」と罵っている手紙も 残っていますし、また、久秀と義輝が激論している姿が記録されている史料も残っています。 
しかし、1558年の末になると、双方が和解、三好家が将軍家を支える協調体制に変化していきます。そうなりますと、久秀も幕臣として義輝に接していき徐々に穏便な関係になっていったのではないでしょうか。 
もしくは、穏便とはいかないまでも、昔と違いお互い積極的に係わらない関係に変化したの かもしれません。 
事実この頃は久秀も隠居して、幕政については息子に任せています。 
義輝は相変わらず三好家に対して政治的に排除をする工作を進めていますので、幕政の中枢にいた三好善継、三好三人衆と松永久通が(将軍殺害の意図があったかまでは 不明ながらも)、
義輝側の政治的な反三好工作の動きを封じる為、軍事によって解決しようとしたまでは事実としてみてよいのではないでしょうか。 
現に信長公記にも将軍が謀反を企てたため殺害されたとの記述があります。 
なので、この事件は幕府中枢にいた人物達の政治的な対立、争いであり、幕政から離れていた久秀はこの事件に積極的に関与していたとは言いづらいとの見方もできます。  


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三つ目の東大寺大仏殿焼き討ち事件ですが、これは判断が難しい所です。
東大寺大仏殿焼き討ちと書きましたが、事件を正確に言い表すなら、東大寺大仏殿「焼けちゃった」事件になります。 
なぜ、焼けちゃったかと言えば、戦争行為によるものだからです。 
永禄の政変の後、三好家では内紛がおこります。三好三人衆と松永家の対立です。 
1567年永禄10年、東大寺を本陣した三好三人衆に対して、久秀は奇襲攻撃を仕掛けます。この攻撃は久秀の成功となりますが、当然、軍事行動は火を使います。 
両軍のどちらかか、もしくは、イエズス会に入信している誰かが放火したなど、様々な説が現在でも議論されています。 
しかし、断言できる事は、久秀が積極的に大仏殿を焼き払えとの命令を出してはいないという事です。 
事実として大仏殿が焼けたのは戦闘中の不慮の出火によるもので、 久秀には当事者としての責任はあるものの、全ての罪として久秀に押し付けるにはこれも無理があると言えます。

畿内三好家に最後まで仕える

1565年から畿内の政治状況は混乱していました。将軍義輝が殺害され、三好家は松永家と、三好三人衆が争う内乱状態になります。 
この内乱は軍事力がある三人衆側が終始優勢に戦いを進めていき(松永側に当主の三好善継がついたり、東大寺大仏殿の戦いなど若干松永側に有利になる事もあったが、) 久秀は不利な状況へと追い込まれていく。 
そんな中、状況が逆転する出来事がおこります。 
1568年永禄11年足利義昭を擁立した織田信長の上洛であります。久秀は信長に協力し、三人衆は信長に抵抗その年の9月には畿内から追い出され、畿内は義昭、信長に平定されます。 
この時点で重要なのは久秀は信長に臣従していない事にあります。織田信長は三好善継の同盟者的な立場であり、その善継に仕えているのが、松永久秀になります。
つまり、久秀はいまだに三好家の家臣の一人です。 
しばらくは、信長とも良好な関係が続いていきますが、将軍義昭と信長の関係が険悪になると政治情勢が変化していきます。 
義昭は各地の大名に協力を求め信長包囲網を形勢し信長を軍事的に追い詰めていきます。この時点での三好家の立場は幕臣であり情勢的にも織田家につくメリットもありません。 
三好家は圧倒的に優勢な義昭側につきます。当然久秀も三好家の一員なので義昭側につきます。 
しかしここで予期せぬ事態がおこります。 


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1573年元亀4年に包囲網の重要な一角である武田信玄が病死すると、武田軍は自国へと撤退、武田軍を頼りに挙兵した将軍義昭はその年の7月に信長に敗れ追放。 
11月には久秀の主君である三好善継も信長配下の武将佐久間信盛に攻められ敗死。 
12月末には久秀が籠城する多聞山城が織田軍に包囲されます。 
主君も死んでしまい、立て籠る城も包囲されては、交戦の意味も無く、久秀は信長に自分の孫と多聞山城を差し出し降伏します。 
1574年天正2年の1月には岐阜城にて信長に謁見し服属しました。

爆死は本当か?

その後、1577年天正5年に上杉謙信毛利輝元石山本願寺と呼応して、再び信長と対決します。
後に信貴山城の戦いと呼ばれる攻城戦です。 
大軍に囲まれ久秀は自害する事になります。68歳であったと言われています。 
この際に有名なのが平蜘蛛の茶釜と一緒に爆死した事で有名ですが、実際は切腹であったようです。 
当時の記録として、吉田兼見の日記からは「松永親子は切腹したまま放火した」と書かれていますし、多聞院日記からも「遺体が焼けたあとで首4つが安土城に送られた」との記載があります。 
平蜘蛛も出てこなければ、爆発したとの内容も出てきません。 
調べてみますと、面白いことに久秀の死因は時代とともに変化していきます。 
戦国~昭和戦前、記録や小説などでは切腹か焼死。 
昭和戦後、1955年の小説作品「松永弾正」、1958年の小説「平蜘蛛の茶釜」にて、爆死の表現が書かれています。 
1960年~1980年、歴史家の桑田忠親が徐々に切腹から自爆説へと変化 
現在、ドラマや小説、漫画などで茶釜に火薬を入れ天守閣ごと吹き飛ぶような自爆へと変化 
ではなぜ、このように変化していったのでしょうか? 
まず一つに川角太閤記に久秀と平蜘蛛の茶釜が火薬によって砕け散ったと書かれています。 


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しかしこれは、上記に書かれている多聞院日記と矛盾が生じます。 
川角太閤記は江戸時代初期に豊臣秀吉に関する逸話をまとめた書籍であり、
多聞院日記は奈良興福寺の僧が室町時代末期から江戸初頭まで三代の筆者によって、書き継がれた日記であります。 
普通に考えれば同時代の記録が事実として優先されるべきですが、 
やはり、上記に書きましたように、時代と共にエンターテインメントが勝っていったとの事なのだと思われます。 
よくやる切腹よりは自爆の方がエピソードとしては圧倒的に面白いですし、
エンターテインメント的に他の武将との差別化ができます。前半に書いたイメージである悪人の最後に相応しい死に方とも言えます。 
またTVが普及しその迫力ある自爆シーンがドラマでも映像として強烈なインパクトを残します。 
これらのエンターテイメント作品が悪いというわけではありません。 
当然、娯楽作品である以上は面白くするべきでありますし、 そういったエピソードが人気になるのも十分に理解できるものであります。  
ただ、真実の人物像を見ようとした時にはこれらの創作には気を付けないといけないかもしれません。
しかしそれがまた、歴史を調べるときの面白さにもなるのですが。

松永久秀とは

①~③まで有名なエピソードを元に彼の人生を本当に簡単ではありますが、まとめて紹介致しました。 
結局の所、松永久秀の事実だけをみますと

・三好家や幕府の政治で専横したわけではない。 
・三好家の重要人物達を殺してもいない。 
足利義輝も殺してはいない。 
・阿波三好家、三好三人衆とは対立状態になったが、本家三好を裏切ったわけではない。 
・東大寺大仏殿は結果論では焼いてしまったとも言えるが彼の意図ではない。 
・三好家が畿内の勢力が一層されるまで仕える 
・三好家当主に謀反した事実も無い。 
・最後に信長に反旗を翻しているが、これも政治軍事的に織田家が劣勢である為、当時の情勢を見ると久秀の判断が間違っているとは言えない。 
・爆死もしていない。   

これらの事から、破天荒な悪人では無く、三好家に最後まで忠節を守った人物ともいえるのではないでしょうか。 
また、最期に織田家を裏切った(裏切った人物は数多いるが)事から、全てにおいて忠義を尽くした人物ではなく、
その時の状況に合わせ臨機応変にしぶとく生き抜く良くも悪くも、立派な戦国武将であった事は事実としていえる事だと思います。  
その証拠として、同時代の武将で、大和をめぐり久秀と戦い続けた筒井氏の家老に 島左近がいますが彼は後に関ケ原の戦いの際に久秀を引き合いに出して 
「今時の諸侯は明智光秀や松永久秀のような果断にかけている」 とぼやいたと言われています。


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冒頭にも書きましたが、新しい松永久秀の人物像の見直しがされ、新しい肖像画が発見されるなど、今までのイメージを一新しつつある松永久秀。
もしかしたら、ドラマや映画、漫画、小説などでも 新しい人物像を見せてくれる日も近いかもしれませんね。

(寄稿)角原勇輝

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コメント

  1. 松永久秀は大河ドラマになっても不思議ではないな

  2. コメントありがとうございます。
    2020年は明智光秀が主人公になりましたので、松永久秀もワンチャンスあるかもしれませんね。
    せっかくなので出っ歯の人に演じてほしいですね。

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