細川興元 兄忠興を支えた頼りになる弟

細川興元

武勇誉れ高いだけではなく、利休七哲の1人でもあり武人ながら文化人の一面を持つ細川忠興には同じく武勇に優れた弟がいました。
その名は細川興元(ほそかわ-おきもと)で、忠興があまりにも有名すぎて影が薄くなってしまった不遇な人物という印象を受けます。
今回は忠興を支えた興元の生涯を振り返ってみたいと思います。

初陣では信長から感状を

細川興元は永禄9年(1566)に生まれます。
父・細川幽斎織田信長に仕えていたので、織田軍の武将として、天正5年(1577)の信貴山城攻めの足掛かりである片岡城攻めで初陣を果たします。
大和・片岡城は信長に反旗を翻した松永久秀が居城としていた信貴山城の支城でした。



興元はこの攻城戦で3歳上の兄・細川忠興と共に一番槍として活躍し、その功績により信長から直筆の感状を貰っています。

松永久秀を滅ぼした後は、父と兄と丹後国攻めへ向かいます。
当時の丹後国守護一色義定の抵抗で丹後攻めは難航しますが、明智光秀の加勢で丹後国を南北で分割することになり、天正8年(1580)に幽斎は南丹後を統治することになりました。

忠興の子を養子とする

幽斎が南丹後に入国すると興元は細川家の家老職となり、細川家を支える役目を担います。
また天正10年(1582)の山崎の戦いで光秀に味方した義定を戦後、忠興と謀殺した後に一色氏を滅亡に追い込みます。
それにより丹後国を平定すると興元は1万5千石の領地を与えられ、一色氏の家臣吉原氏が居城としていた吉原山城を自らの居城としました。

豊臣政権下では天正13年(1585)の越中富山攻めに参加し、忠興と共に天正18年(1590)の小田原攻めと朝鮮出兵の晋州城攻防戦に参戦しました。

数々の戦いで武功を上げたものの、興元は20歳を越えても子に恵まれることはなかったので、文禄3年(1594)に忠興の次男・細川興秋を養子とします。



そしてしばらくした後に、興秋がガラシャから洗礼を受けていたことを知り、これを契機に興元はキリスト教について理解を深めていきます。そして周りからの勧めもあり、興元はキリシタンとなりました。

忠興と不仲に

豊臣秀吉が没した後は忠興と共に徳川家康に仕えます。
そして慶長5年(1600)に勃発した岐阜城の戦いや福知山城の戦い、関ヶ原本戦において細川家の先鋒として戦い抜きました。

関ヶ原の戦い後、忠興が豊前国へ国替えとなり、興元もそれに従います。
しかし忠興と不仲となり慶長6年(1601)に細川家を出奔し、その後幽斎を頼り、京都の小川屋敷で静かに暮らしました。

不仲の原因は定かではありませんが、興元が出奔した際に隣国の黒田長政を頼ったとあり、忠興と長政が犬猿の仲でありながら長政と友好的な関係を築いたから興元を邪険に扱ったと考えられます。

大名に出世

興元はその後慶長13年(1608)に家康の仲介で忠興と和解し、慶長15年(1610)には徳川秀忠より下野国芳賀郡茂木に1万石を与えられ、大名となります。

そして慶長19年(1615)の大坂の陣では酒井忠世の軍に属し、忠世の嫡男忠行の軍を指揮し、戦功を上げました。
またその戦功により、元和2年(1616)には常陸国に加増を受けたことで茂木から常陸国筑波郡谷田部へ移り谷田部藩を立藩しました。



泰平の世となった後は秀忠の御伽衆となります。
そして興元は元和5年(1619)に53歳で亡くなりました。

寄稿(拾丸)

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