松平信康 なぜ切腹したのか

松平信康

松平信康(まつだいら-のぶやす)といえば、徳川家康の正妻築山殿との間に生まれた長男。
まさに、「THE 嫡子」です。
ところが、松平信康は父家康の命令により、21歳の時に切腹します。
後に徳川家康は天下人となる戦国時代最高の有名人であることもあって、切腹の理由についてたくさんの研究者がいろいろな説を唱えています。
今回は、家臣団の派閥抗争説についてみていきます。


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ちなみに、「松平信康」として有名ですが、父家康は信康存命中に「徳川」を名乗っているため、信康も「徳川信康」と名乗っていた可能性が高いです。
江戸時代に入って、幕府が「徳川」姓は徳川将軍家と御三家、御三卿のみという方針をとったために、信康は死後に「松平信康」に格下げされたと言われています。

信康切腹の通説

信康は、松平家と織田家のつながりを強めるために、織田信長の娘徳姫と結婚することになりました。
信康の母築山殿は織田家と遺恨のある今川家の血筋であるとされ、そのため織田信長の娘徳姫とは不仲であったとされます。
そんな関係もあり、やがて徳姫は信康とも不仲になっていき、1579年に父信長に対して12箇条の手紙を書き、信康と不仲であることを伝え、さらに築山殿は武田勝頼と内通していると伝えたとされます。
1575年に長篠の戦は起きる等、織田家と徳川家は武田氏とは対立しており、内通の事実を知った信長は激怒して、家康に信康の切腹を要求した。これが、信康切腹の通説です。

信康切腹の通説への疑問

信康と徳姫の不仲は、松平家忠の『家忠日記』を信じるなら事実とされます。
とは言え、不仲というだけで、信長が大事な同盟関係にある家康の嫡男を殺そうとするのは、疑問が残ります。
また、築山殿が武田氏と裏で外交を展開するのも難しいです。


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武田氏と徳川氏はこの時、長篠の戦の後であり敵国どうしです。
武田氏との内通者には、特に目を光らせているでしょう。

信康切腹事件前後

信康は元服後あたりから岡崎城を居城としており、浜松の家康と岡崎の信康という構図ができています。
武田氏との戦いでは、信康も出陣して武功をあげています。
そしてこの後、なぜか家康は岡崎に移り、信康は岡崎を出て徳川領内の城を転々としています。
この辺りの理由がはっきりしていないのです。

家臣団の派閥抗争の説

これは、作家の典厩五郎らの唱える説です。
信康切腹事件のあたり、徳川家は戦の前線で活躍して出世の機会を得ていた浜松城にいる家臣団と、戦の後方支援や隣国の織田家との外交を担当していた岡崎城にいる家臣団とで分裂していたとされます。
戦には兵士を送りこんだり兵糧を届ける、兵站の役割は重要です。
有名戦国武将大谷吉継は、この兵站を得意としていたとされます。
とは言え、敵を倒したり国境沿いで防波堤の役割を担う戦場の武将たちが一番に評価されることに変わりはなく、大谷吉継や石田三成は、福島正則加藤清正程領地を与えられてはいません。
岡崎の家臣団は、戦いの前線で活動する機会は少なく、出世できずに悶々としていたとされます。
そこで、岡崎の武将たちは、信康を徳川家当主として家康を追放しようとしていたのではないかというのです。
実際、信康の処刑の前後、岡崎城に勤める多くの重臣が次々と懲罰や処刑に追い込まれ、また逃亡する者も続出しています。
これは、派閥抗争の結果の粛清や懲罰ではないかとされます。
また、築山殿は何等かの形でこれに関係していたとも言われています。


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この説以外にも、家康と信康の不仲説や信康が今川の血筋の母築山殿に洗脳されたという説などなどさまざまな説があります。
いずれにせよ、自国の安定や発展を考える戦国大名も、家族関係や家臣の統制等いろいろと足下は複雑なようです。
現代人っぽい物事の捉え方をしてはいけないのでしょうけど、筆者なら徳川の国の発展以前に自分の生計を大事にしてしまいますね。
それと岡崎の家臣と同じことかはわかりませんけど。

なお、家康は後に信康のため、浜松に清瀧寺を建立しています。
憎しみ合いではないでしょう。

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