徳川家康 巨大都市「東京」の前身である「江戸」の潜在力に着目する

江戸

徳川家康(とくがわ-いえやす)が、関東移封や関ヶ原の戦いを経て、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に任ぜられると、家康は江戸幕府の機能を確立させるため、その所在地である江戸市街地の開発を急いだ。
その後の江戸は、幕府の安定とともに人口の上でも世界最大となり、現在の東京の基盤となった。
めざましい発展を遂げた現在の東京を知るには、まず家康が本拠地を江戸に選んだ背景や、緻密な市街地の開発を行わせた背景を知ることが重要となる。

小田原や鎌倉ではいけなかった理由

豊臣秀吉(とよとみ-ひでよし)は家康に、江戸は大坂と地形が似いているからという理由で江戸を本拠地とするように勧めたといわれる。
大坂を天下統一の拠点とした秀吉であれば、江戸は可能性がある土地だということはわかっていたに違いないが、敢えて江戸を勧めた。
当時の江戸は江戸湾に面して、満潮になれば海水に浸り、雨が降るたび河川が氾濫する湿地帯で、背後の台地は起伏が激しく、大勢の人が生活するには不向きであったため大規模な開発を必要とした。
秀吉にとって、家康の関東移封は、開発によって経済力を削ぎ落とすと同時に、東北を押さえ込むにも都合がよかった。



一方の家康は、小田原のような籠城に適した場所であると秀吉に警戒される恐れがあり、鎌倉も同様に山に囲まれ守りやすい上に、鎌倉幕府が置かれた場所であることから遠慮したものと思われる。
小田原や鎌倉のように、すでに完成した都市を選ぶよりは、秀吉から距離を置き、時間と費用をかけてでも可能性がある江戸を選んだ。
小田原落城から一月足らずの、天正18年(1590年)8月1日、家康は関八州の新領主として、まだみすぼらしい江戸城に入った。

江戸の埋め立て

家康は、江戸を人が住める町にしなければならなかった。
家康は、まず江戸城先から江戸湊を結ぶ道三掘の開削を命じ、輸送路を確保しながら、その土砂で現在の丸の内や八重洲周辺を整備し、神田山を切り崩して日比谷入江を陸地にした。
これ以降の江戸の町は、幕藩体制の確立とともに、居住地はもちろん、食料や建築材料などの貯蔵地の要求を満たす埋め立て地が次々と誕生し、巨大都市の土台となった。

上水道の整備

市民が生活を維持するには、飲料水は必須である。
もともと海水が入り込んだ湿地帯である江戸は、井戸を掘っても塩分を含む地下水が出るなどで、飲料水の確保に苦慮してきた。
家康は、城下に飲料水を供給するべく、大久保藤五郎に上水道を整備させた。



藤五郎は、小石川の水を神田方面へ流した小石川上水を敷き、その水は城下の人々を潤した。
しかし、江戸に幕府が置かれる頃になると、人口増加に伴った新たな上水道の整備が求められる。
藤五郎は、井の頭池を水源と見立て新たな上水道の整備を急いだ。
井の頭池から引いた水は、目白でせき止め、神田川に掛けた掛樋で渡し、神田や日本橋方面へ給水する計画であったが、かなりの難工事であったため、藤五郎から知識や経験がある集団によって、この上水普請は引き継がれたようである。
後に神田上水と呼ばれるこの上水道は、これからの市民生活の向上に大きな役割を果たすことになる。

河川の付け替えと水路の整備

家康には、江戸の背後にある日本最大の関東平野があった。
しかし関東平野には河川が多い。
江戸の「江」は、川を意味するように、河川が江戸湾に集中して流れ込むため、雨が降るたび氾濫しやすい土地でもあった。
家康は江戸から水害をなくし、政治や経済の根幹をなす稲作を関東平野で進めるにあたり、大規模な治水工事が必要であると考え、伊奈忠次を関東代官頭に任じた。
忠次は、江戸が湿地帯であるのは、江戸湾に流れ込む利根川が一番の原因だとして、利根川の流れを鹿島灘へ逃がす治水工事に着手する。
しかし何といっても前例のない巨大工事であり、完成を見たのは忠次の孫の代であったという。
これにより水害の問題が解決したことで、市街地の開発が容易になるなか、関東平野の耕地もしだいに広がり、生産力が劇的に向上し、江戸は関東の一大消費地と変わっていく。
江戸に開発が進み人口が増加すると、次の課題は物流である。
江戸は基本的に、生産地ではなく消費地であり、物流網がないと非常に不便な状況になるが、これまで進めてきた治水工事で河川の流量は安定し、江戸の隅々まで水路の整備ができるようになると、江戸の物流網は海路や水路が一手に担い、より大きな消費市場に変わり、ビジネスも拡大していった。

貨幣制度の統一

関ヶ原の戦いに勝利した家康は、その翌年から貨幣制度の統一に乗り出す。
家康は江戸に金座や銀座を設置し、慶長金銀の鋳造に着手した。
貨幣制度の統一は天下統一の象徴であり、これによって江戸が日本の中心地であることを示したことになる。



江戸を起点とする街道の整備で支配力を強める

関ヶ原の戦い後も豊臣家は健在であり、心から徳川家の天下を歓迎しない大名もいたであろう。
もう晩年といえる家康は、万一有事の際に活かせるインフラの整備を進める必要があった。
家康は日本橋を起点とする、東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道の整備により、軍事機能や情報網を大きく向上させ、豊臣家の脅威に備えた。
豊臣家が倒れ、その後続いた徳川家の治世は、家康が築き上げた五街道が人間や物資、経済的効果だけでなく、文化の運び手も担った。

大坂城に勝る天守閣の造営

家康は、慶長10年(1605年)将軍職を三男の徳川秀忠に譲った。
秀忠が将軍職を世襲することは、豊臣家の政権回復を断つ意味がある。
もはや豊臣家に遠慮が要らなくなった家康は、藤堂高虎をはじめとする諸大名を動員し、江戸城の大改修を命じた。
平和な治世を築く徳川家が、平和だからといって江戸城を手抜きのものにするわけにはいかなかった。
この城郭普請で莫大な費用を負担させられた諸大名は、大坂城を越える天守閣を持つ江戸城を見るうちに、不本意ながらも時代の移り変わりを感じたに違いない。

死して江戸を守る

家康は、慶長12年(1607年)大御所として駿府へ移り住むと、江戸と駿府の二元政治が展開される。
大御所・家康は、駿府において内政や外交と、江戸将軍政治を上回る勢いで政策を繰り出し、実権を握り続けた。
まだ不安定な情勢にあって、江戸と駿府は対立するものではなく、むしろ強力な幕藩体制を確立するための補完的関係にあった。
駿府大御所政治は、西国政策・朝廷政策・外交政策・寺社政策を重視していくが、家康の登用した人材は、商人・学者・外国人・僧侶などが多く、行政手腕に優れた者が各分野で政策を推進した。
そのなかの天台宗の僧侶である天海は、徳川家の治世を磐石なものにするための、江戸鎮護の構想を立案した。
天海は、江戸城を中心に見て、鬼門の方角に神田明神を遷座し、寛永寺を建立して徳川家の祈祷寺とした。
また、裏鬼門の方角への日枝神社の遷座、増上寺を徳川家の菩提寺に定めるなど、鬼門や裏鬼門を非常に重視した。
その他、平将門の御霊(みたま)を借り、五街道に五色不動を置くなどの大規模な政策は、神道や密教に精通していた天海だから推進できた。
豊臣家を倒した翌年の元和2年(1616年)1月、家康は駿河・田中城付近での鷹狩りの直後に発病し、駿府城に帰り療養する。
しかし病状は悪化の一途をたどり、次第に死を意識するようになる。
4月2日、本多正純・天海・崇伝を呼び寄せ、「我が遺体は久能山へ納め、葬儀は増上寺で行い、位牌は大樹寺に立て、一周忌ののちに日光に小さな社を建て勧請せよ。さすれば関八州の鎮守とならん」というものであった。
4月16日、家康は愛刀を出させ「すでに死罪に定まりし者に、これを試みよ」と家臣に命じて刑場へ行かせ、しばらくして罪人の試し斬りの報告を受けた家康は、愛刀を二度三度振り、「この剣で子々孫々の末まで鎮護せん」と宣言したという。
家康の死後、朝廷から東照大権現の神号が贈られたが、神の子孫である徳川将軍家の政権が長期間続いたのは、家康と天海が、同じく神の子孫である天皇家と対等な形を作ったのが要因であったとされる。



めざましい発展を遂げた現在の東京は、先人たちの業績の上に成り立っている。
徳川家康、元和2年(1616年)4月17日、駿府城で死去、享年75歳。

(寄稿)浅原

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