遣唐使とは  わかりやすく1分で

遣唐使

遣唐使(けんとうし)と言うのは、日本が「唐」に派遣した外交使節の事を言います。
日本は、中国が隋(ずい)の時代からの遣隋使(けんずいし)を派遣していましたので、その延長と言う事になります。
遣隋使や遣唐使は、海外情勢の調査や、中国の先進的な技術や仏教の経典などの収集が目的とされます。



派遣(はけん)の「遣」の文字と、派遣先の国名かせ「隋」「唐」、その使者と言う意味で「使」と解説すると、ちょうど学んでいる中学生・高校生には分かりやすいでしょうか?
先に遣隋使で小野妹子が有名ですが、その後の時代が遣唐使と覚えておくと、中国も隋のあとの国家が唐であると理解しやすいと思います。
その遣唐使をやめさせたのは菅原道真です。

当時の唐は巨大国家であったことから、遣唐使を派遣して、最先端の文化や仏教の情報を得ていた訳ですが、やがて白村江の戦いとなって、唐と関係が悪化します。
遣唐使は、毎年、派遣していたわけではありませんが、朝鮮半島の情勢が緊迫した653年から669年の間には「6度」と言う頻度にて遣唐使が相次いで派遣されており、朝鮮半島を巡って唐との関係改善を図っていたようです。



特に、659年の第4次遣唐使は、唐側によって捕縛・抑留されると言う事態となり、日本に戻ったのは釈放された2年後となっています。
この事も、中大兄皇子が百済救援に動いた要員の一つと言えるでしょう。
その後は、唐との関係改善を図るべく遣唐使が派遣され、外交手段でも「倭国討伐阻止」を試みました。
もっとも、仲が良かった唐と新羅が対立するようになり、まだ高句麗攻めも残っていたことから、唐としてはまた日本が朝鮮に軍を送る事を警戒したのか、次第に唐と倭国の触発的状況は緩和されます。
その後、中大兄皇子(天智天皇)が死去すると、669年の第7次のあと702年まで遣唐使は間が空き、日本は壬申の乱の混乱と律令体制確立へと専念しました。

ただし、大宝律令の翌年になる702年、久しぶりに送った遣唐使で唐との関係が大きく改善し、以後、頻繁に派遣されました。
このように、遣唐使は、630年から894年まで、約250年間続いたと言う事になります。

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