遣唐使の解説 わかりやすく1分で

遣唐使

遣唐使(けんとうし)と言うのは、飛鳥時代の630年から日本が「唐」に派遣した外交使節の事を言います。
日本は、中国が隋(ずい)の時代、600年~618年に遣隋使(けんずいし)を派遣していましたので、その延長と言う事になります。
遣隋使や遣唐使は、海外情勢の調査や、中国の先進的な技術や仏教の経典などの収集が目的とされます。



派遣(はけん)の「遣」(けん)の文字と、派遣先の国名から「隋」(ずい)「唐」(とう)、その使者と言う意味で「使」と解説すると、ちょうど学んでいる中学生・高校生には分かりやすいでしょうか?
先の遣隋使は、推古天皇聖徳太子の治世の頃であり、小野妹子(おののいもこ)(※男性です)が有名ですが、その後の時代が遣唐使と覚えておくと、中国も隋のあとの国家が唐であると理解しやすいと思います。
その遣唐使をやめさせたのは菅原道真です。

当時の唐は巨大国家であったことから、遣唐使を派遣して、最先端の文化や仏教の情報を得ていた訳ですが、やがて、663年に、白村江の戦いとなって、唐と関係が悪化します。
<注釈> 白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)は、朝鮮での復活を目指す、百済(くだら)に日本が味方して軍勢を送ったことから、唐・新羅(しらぎ)と合戦になりましたが、日本側が負けて、新羅は滅亡しました。

遣唐使は、毎年、派遣していたわけではありませんが、朝鮮半島の情勢が緊迫した653年から669年の間には「6度」と言う頻度にて遣唐使が相次いで派遣されており、朝鮮半島を巡って唐との関係改善を図っていたようです。

ちなみに、1回の派遣で、出航した船は、3隻~5隻程度と複数だったようです。
そのうち、全部が無事にたどり着いたわけではなく、何隻かは、失敗して日本に戻ったり、難破・沈没したりと、成功率も高くはありませんでした。
要するに、荒海を越えて、中国に渡るのは、命がけでもあったのです。



特に、659年の第4次遣唐使は、唐側によって捕縛・抑留されると言う事態となり、日本に戻ったのは釈放された2年後となっています。
この事も、中大兄皇子が百済救援に動いた要員の一つと言えるでしょう。
その後は、唐との関係改善を図るべく遣唐使が派遣され、外交手段でも「倭国討伐阻止」を試みました。
もっとも、仲が良かった唐と新羅が対立するようになり、まだ高句麗攻めも残っていたことから、唐としてはまた日本が朝鮮に軍を送る事を警戒したのか、次第に唐と倭国の触発的状況は緩和されます。
その後、中大兄皇子(天智天皇)が死去すると、669年の第7次のあと702年まで遣唐使は間が空き、日本は壬申の乱の混乱もあり、律令体制確立へと専念しました。
<注釈> 壬申の乱(じんしんのらん)は、戦国時代の関ケ原の戦いよりも、規模が大きい、古代日本では最大の内戦。
<注釈> 日本の律令制国家は、天皇を中心にして、中央豪族を地方に派遣するなどした支配層にて、構成した国家。

ただし、大宝律令の翌年になる702年、久しぶりに送った遣唐使で唐との関係が大きく改善し、以後、頻繁に派遣されました。
このように、遣唐使は、630年から894年まで、約250年間続いたと言う事になります。

例えばですが、平安時代に、高野山で真言宗(しんごんしゅう)を開いた、空海弘法大師)や、比叡山延暦寺最澄は、803年遣唐使の長期留学僧として唐に渡り、日本に帰国すると、密教を広めたと言う事になります。

それより前の、753年には、唐から日本に帰る遣唐使船に、わざわざ乗せてもらい、日本に来た、唐の僧侶もいます。
日本への渡航は、5回目のチャレンジで、ようやく屋久島にたどり着きました。
この僧侶は、鑑真(がんじん) と言い、日本に到着した際には、66歳と高齢で、なおかつ何回もの渡航失敗で失明していました。
憧れの日本の風景を、自分の眼で、見るには至りませんでしたが、759年、奈良に唐招提寺を創建するなど、日本の仏教に大きく貢献しています。



改めて、遣唐使と遣隋使(けんずいし)の違いは下記の通りです。

要するに、日本から使節を送った、相手の国が違うと言う事でして、短かった遣隋使は古い時代(先だった)で、長かった遣唐使はその後の時代と、覚えておきましょう。

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