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今ではすっかり身近となった、ごはんのお供である佃煮。小魚や昆布などを醤油と砂糖で甘じょっぱく煮付けた佃煮は、少量でもご飯が進み保存食としても優れています。
原材料も山海を問わず、カルシウムやタンパク質などの栄養素も含む佃煮は万能食だと言えるでしょう。
元は大阪で作られていた佃煮ですが、いつしか江戸名物となりました。そのきっかけを作ったのは、なんと「本能寺の変」だったのです!
歴史的大事件の裏で佃煮は、徳川家康と運命の出逢いを果たしていました。今回は家康のピンチを救った佃煮について紹介します。
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江戸名物「佃煮」のきっかけは本能寺の変?
1582年(天正10年)6月2日未明、天下統一を目前に織田信長が討たれました。謀反を起こしたのは家臣の明智光秀。2020年大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公です。
織田信長の片腕とも呼ばれるほど有能で、信頼も篤かった明智光秀が何故謀反を起こしたのかは未だ謎に包まれています。
しかしこの日、毛利と戦っていた豊臣秀吉の援軍のため西へ移動するはずだった明智は、突如「敵は本能寺にあり!」と叫び本能寺へと向かいました。
京で茶会を開いていた織田信長は供も少なく、すでに床に就いています。静寂に包まれた本能寺を、桔梗の旗が取り囲みました。
騒ぎを聞きつけ跳び起きた信長は、「是非も無し!」と勇ましく応戦。ちなみに是非も無しとは「仕方が無い」と言う意味のため、信長は明智の謀反を予期していたのかもしれません。
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応戦も虚しく多勢に無勢で攻められた上、火を掛けられて逃げ場を失った織田信長は自害してこの世を去りました。
群雄割拠の戦国時代に終止符を打つ直前、わずか4時間で織田信長の天下布武は終わりを迎えたのです。
信長の茶会に招待されていた徳川家康
織田信長が本能寺の変でこの世を去った頃、徳川家康は大阪の堺に滞在していました。信長の招待で、畿内(きない:京に近い現代の近畿地方内)を遊覧していた家康。
そのため本多忠勝、井伊直政など精鋭な家臣はいましたが、家康もまたわずかな供回りしかいませんでした。遊覧を満喫して、そろそろ信長への挨拶に京へと向かおうとした矢先に訃報を知ります。
使者として京へ向かったはずの本多忠勝が家康の元に戻り、信長が謀反で死んだことを知って驚く家康。更に信長を襲撃したのは明智光秀と聴き、家康は狼狽し慌てふためきました。
徳川家康は信長と同盟関係を結んでいるため、明智光秀の知力や戦闘力も知っています。しかも自分は何の軍備も無く、多少腕の立つ家臣が数人いるだけ…。このままノコノコ京へ向かえば、当然自分も明智に殺されてしまう可能性が高いのです。
まして畿内は明智光秀の地盤。土民に襲撃される恐れも高く、動揺した家康は恐怖に怯え「自分も自刃する!」と一時パニックに陥りますが、家臣たちになだめられ地元三河へ逃げ戻る道を探り始めました。
しかし逃げ道を探る最中、堺の商人である「茶屋四郎次郎」から悪い知らせが飛び込みます。なんとすでに主だった街道は抑えられていると言うのです。
家康絶体絶命のピンチ!わずかに助かる可能性の残された道は、険しい伊賀峠越えのみ。獣しか通らぬ山道は、落ち武者狩りや山賊に出遭う危険性も孕んでいましたが、三河に戻る最短ルートでもありました。
家康を救った森孫右衛門と佃村の漁師たち
わずかな可能性に欠け、畿内脱出を図る徳川家康御一行。まずは素知らぬふりで、住吉大社への参拝を装って移動を開始しました。
何故参拝を装ったかと言えば、京へ向かう道と真逆にある住吉大社の方角には大阪湾があります。家康は始め海を渡って逃走しようと考えたのでしょう。
しかし水の都とも呼ばれる大阪は川だらけ。家康御一行は住吉区にある一級河川の神崎川で、足止めを食らいます。家康たちには向こう岸へと渡る舟がありません。
困った家康一行に文字通り「助け舟」を出したのが、川付近にあった佃村(つくだむら:現在の大阪西淀川区)の名主であった森孫右衛門(もりまごえもん)でした。
森孫右衛門は漁民であり庄屋とも言われていますが、実は元海賊だったと言われる人物です。商業船を守る護衛も務め、森孫右衛門と漁民は武装した漁民団だったとも言われています。
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信長がある程度世を治めたとは言っても、時代はまだ戦国時代。農民ですら戦に駆り出されることがあるのですから、漁民がただの漁師なはずもありません。
ちなみに佃村では漁に出られない時の保存食や、神社に捧げる供物として小魚や貝を煮詰めたものを大量に備蓄していました。
森孫右衛門は家康に渡し舟を出し、兵糧として小魚煮を持たせ逃走に協力してくれたのです。家康は森孫右衛門と佃村の漁民たちに感謝し、無事に神崎川を渡ることが出来ました。
家康大ピンチ!伝説の伊賀峠越え
徳川家康が天下を治めるまで、人生のピンチは三度あったと言われています。「家康三大危機」と呼ばれる事件は三河の一向一揆、武田軍と戦い恐怖のあまり脱糞したと言われる三方ヶ原の戦い、そして今回紹介している伊賀峠越えです。
2016年大河ドラマ「真田丸」では、「全力で押しとおります!」が口癖の服部半蔵に従い、家康を演じた内野聖陽がコミカルに演じていた伊賀峠越え。それまであまり知られていなかった伊賀峠越えは、真田丸で一気に知名度を上げました。
しかし現実は過酷極まる道中で、家康は生きた心地がしなかったでしょう。三河にある岡崎城までの距離約250km。峠越えはそのうち約20km程ですが、当時家康は40歳頃で体力的にも厳しかったかもしれません。
服部半蔵が先導し、茶屋四郎次郎が土民や山賊に金をばらまきながら、伊賀・甲賀の忍びも協力して家康たちは約4日ほどで岡崎城にたどり着きます。
道なき獣道を歩きながら、森孫右衛門が持たせてくれた小魚煮は塩分も取れるため、体力維持にとても役立ったのです。実は小魚煮は元々、忍者食としても使われていました。
命辛々の逃走劇は、のちに「神君伊賀峠越え」として徳川家の伝説となります。しかし多くの人々がこの時家康を守ってくれたからこそ、徳川家康は天下人となれたのです。
江戸で花開いた佃煮文化
「本能寺の変」が縁で家康と繋がった森孫右衛門と佃村の漁民は、その後家康が天下を取るまで協力を惜しみませんでした。信頼を得た佃村の人々は豊臣秀吉が天下を取り、家康が江戸に移封された時共に江戸へとやってきます。
森孫右衛門と佃村の漁民合わせ約30人ほどは、徳川家の御肴役や堀番として召し抱えられました。また漁業権も与えられたため、徐々に佃村から江戸に移住してくる漁民も増えていきます。
家光時代に入り漁に便利な隅田中川の河口にある島を与えられ、その場所は故郷と同じ佃島(つくだじま)と呼ばれるようになりました。
佃島の漁民たちは漁をする傍ら、海が荒れた時には小魚煮を大量に作ります。醤油であまじょっぱく煮た魚や貝は、江戸の町人たちにも売られるようになりました。
江戸の人々はともかく米をよく食べます。1人で1日5合も食べると言われていましたが、小魚煮はとても良いご飯のお供になったでしょう。
時間が経つにつれ味が染みることものちに判明し、いつしか小魚煮は「佃煮」と呼ばれ、参勤交代で江戸にやってきた大名達のお土産としても定番となったのです。
また同時に佃村から産土神を分祇し、新たに建てられたのが東京にある住吉神社です。漁業と佃煮に繁栄した佃島の人々のおかげで、住吉神社も廻船問屋や商人たちからの参拝が増えました。
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今では佃煮も住吉神社も全国にあります。そのきっかけを作ったのは、家康のピンチを救った佃村の人々だったのです。もし明智光秀が謀反を起こさなければ、佃煮が全国で食べられなかったかもしれません。
森孫右衛門は魚河岸の元祖とも呼ばれ、実は今も佃と徳川の関係は続いています。毎年3月1日なると、現徳川宗家に佃漁業組合は白魚の献上を行っていました。本能寺の変から約430年以上も続く、徳川と佃村の人々。人の縁とはとても不思議なものですね。
(寄稿)大山夏輝
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