孝明天皇とは 畏れていたのは夷敵では無く怨霊だった?

孝明天皇

黒船襲来によって、欧米列強の脅威に晒されてしまった幕末の日本。

開国を迫る白人達の軍事力を目の当たりにした幕府は、今の日本では到底勝てないと「開国」を決断します。

ある意味で現実的だった徳川幕府の対応でしたが、軍事力の違いを知らない下級武士達には、武家の統領たる幕府の対応が、あまりにも弱腰に見えていたのでしょう。

その為「開国か?」それとも「攘夷(じょうい)か?」と、元寇以来の国難に国内の意見は二分し、いつしか倒幕にまで発展していきました。

中でも激しい意見の対立に一番影響を与え、攘夷派を焚きつけてしまったのは、皮肉にも「攘夷」を誰よりも訴えていた、時の天皇である第121代孝明天皇(こうめいてんのう)だったのです。

しかし、孝明天皇が本当に畏れていたのは、夷敵(いてき:外敵)では無く、実は平安時代から続く「怨霊」の存在でした。

尊王攘夷論と征夷大将軍の役目

今でこそ日本国と言えば、北は北海道から、最南端の沖縄や小笠原諸島に至るまで一つの国として認識している人が多いでしょう。

しかし、縄文時代から江戸時代に至るまでは、市町村単位または県単位を自国と認識している人が多かったのです。



狩りや漁をして暮らしていた縄文人達に、戦をした痕跡は全くありませんが、米という植物の登場から、領土争いや貧富の格差は増えていきました。

力ある者は、自国の領土と権力を守るため豪族となり、弱者は開墾や農作業、または戦に駆り出されるという身分の差も出来上がっていくのです。

こうして、日本の中にはいくつもの小さな国々が作られていきました。

そのような状況の中で、ある日我が国には「天皇(当時は大王(おおきみ)」という存在が登場します。

初代天皇となった神武天皇(じんむてんのう)は、古事記などの神話で考えれば「アマテラスオオミカミ」の末裔であり神の子ですが、学術的には渡来人または地方の一豪族であったと考えられています。

真相は不明ですが、日本国の建国記念日は「神武天皇即位の日」を元に設立されているので、国家的にも世界的にも、我が国の始まりは神武天皇が即位した日です。

即位した日は紀元前660年の2月11日の為、日本は世界最古の国として、ギネスに認定されていることを知らない人も多いかもしれません。

ちなみに2019年(令和元年)の時点で、建国から2679年もの長い間、父親を辿れば皆「神武天皇」にたどり着く男系男子の天皇が続いており、日本はずっと同じ王朝を維持しているのです。

話が少し横道に逸れてしまいましたが、古代の日本では、中央政権国家の君主を目指していた神武天皇の登場により、それまで力を持っていた豪族達は当然の如く反乱を起こしました。

そのような反乱軍(夷敵)を討ち払うべく、天皇が皇軍の頭領として武士に与えた肩書が「征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)」だったのです。

反乱分子がいた時代の征夷大将軍は、命懸けで戦に参戦する役目でしたが、徳川家康が天下統一を果たしてからは戦も無くなり、次第に「征夷大将軍」という肩書は形骸化していきました。

しかし、黒船襲来により、朝廷から「攘夷(じょうい:夷敵を討ち払う)」の勅命が出されたことで、天皇が任命して得た「征夷大将軍」という肩書を持つ徳川将軍家は、次第に追い詰められていくのです。

幕末に旋風を巻き起こした「尊王攘夷論(そんのうじょういろん)」は、元々水戸藩が作成した政治学問である「水戸学」が発祥で、「王(天皇)を尊び、夷敵を討ち払う」という思想のことです。

水戸藩主であった黄門様でお馴染みの「水戸光圀公(みとみつくにこう)」は、日本建国と国家の存在の根拠を歴代天皇に見出し、水戸藩の事業として神武天皇から続く皇統の治世をまとめた「大日本史」編集に着手していました。

その影響を大きく受けた水戸藩の尊王攘夷思想は、のちに過激な尊王攘夷者達を生み出していくことになりますが、「水戸学」は徐々に他藩にも広まり、尊王思想は(そんのう:天皇を尊ぶ)いつしか武士達の基本となっていったのです。

また、攘夷を訴えていた孝明天皇も、倒幕して自らが政権を獲るとは全く考えておらず、あくまでも政権は幕府に任せ、この国難に朝廷と幕府が一致団結して立ち向かおうとする、強固な「公武合体(こうぶがったい)派」でした。

しかし、実際に西洋の脅威を目の当たりにした幕府にとって、攘夷は無謀な戦だったのです。



幕末は大きく分けると「尊王攘夷」「公武合体での攘夷」「開国して富国強兵後の攘夷」「公武合体での開国」と、4つの思想が飛び交い、幕府内、朝廷内、各藩内でも意見がまとまることはありませんでしたが、根底には皆日本を守るという愛国心がありました。

怨霊だらけの平安時代

怨霊という概念が日本人に定着したのは平安時代からです。

大自然の中で生きてきた古代人達は、自然の恵みや畏れを肌で体感していた為、全てのものに魂が宿るというアニミズム(自然崇拝)でしたが、大和朝廷誕生以来、この国には神道が加わりました。

神道の教えによって神の存在が知られるようになり、古来のアニミズム(自然信仰)と交わって、日本人の宗教観は変化していきます。

神道の頃は、怨霊という概念はまだ定着しておらず、祟りとは言ってもそれは人の仕業ではなく、どちらかと言えば「神の怒り」や「荒ぶる神」の仕業と考えられていました。

しかし、飛鳥時代に入って仏教が伝来されて以降、人々は「怨霊」という概念を持ち始めるのです。

天皇という存在が定着してからは、武力で攻撃してその地位を奪いにくる輩はいませんでした。不思議なことに日本では、長い歴史の中で、朝廷を滅ぼし自らが天皇になろうとする武士達はいません。

何故攻撃しなかったかと言えば、武力のみで天皇を倒したとしても、ポッと出の輩には何の権威も得られず、天皇を滅ぼしてしまうことで自らが「朝敵(ちょうてき)」となれば、総攻撃のターゲットにされてしまうからと一般的には言われています。

もしかすると「怨霊」という概念の定着と共に、天皇には特別な霊力があると信じられていたのかもしれません。

その発端を生み出したのは、天皇の威光と権威を利用して、自分たちの権力を高めようとした公家や臣下、そして武士達の勢力争いです。

朝廷での権力争いは幾多も勃発していますが、天皇自らが戦を仕掛けるというより、周辺が嘘偽りの讒言をして、天皇を焚きつけていることがほとんどだったのです。

結果、親子や兄弟、叔父と甥など皇統同士での争いが多発し、無実の罪を着せられた敗者の天皇が無念の死を遂げていきました。

無実の罪と引き換えに権力を手に入れた者は、やはりどこかでやましい気持ちや罪悪感、そして少々の恐怖心を持ってしまうでしょう。

仏教思想が定着しつつある時代であれば、殺生の禁忌や地獄の存在、因果や業も知っている分、不安感は大きかったかもしれません。

じんわりと不安感を抱えている心境の中で、天皇を陥れた者の身近な人々や本人が死亡したり、自然災害、大火、疫病などの不運が都を襲ったりした場合、何かのせいにしたくなるのが人情というもの…。

日本で初めて公式に「怨霊」と認定されたのは、第40代天武天皇(てんむてんのう)の皇子と、第38代天智天皇(てんじてんのう)の皇女の間に生まれた「長屋王(ながやおう)」です。

藤原家が力を持ち始めた奈良時代、天皇の孫として生まれた長屋王は臣下に下り政権を担っていました。

地位的に力を持っていたのは、藤原不比等(ふじわらのふひと)でしたが、彼が死亡したのち、長屋王が重用され出世したことに不満を募らせた不比等の息子たちは、ついに長屋王を陥れたのです。

729年(神亀6年)藤原の息子たちは下級官僚を使い、長屋王が呪詛によって国家転覆を企んでいるという讒言をした為、長屋王の屋敷は包囲され攻め込まれてしまいました。

長屋王はその場で妻と子と共に自害し、無実の罪を着せられて死亡したのです。

それ以後、疫病が流行り、長屋王失脚の首謀者である藤原不比等の息子たち4人が死亡したことで、朝廷では長屋王の魂を鎮めるための祈祷などが行われました。

天皇が祈祷を始めたことで、庶民たちの間でも「怨霊」が認知されるようになり、人々は恐怖を募らせていくことになるのです。

その後も、政権争いが勃発する度に、無実の罪で亡くなった「怨霊」が続々と登場していきます。

長屋王の後に誕生した「怨霊」は、井上内親王(いがみないしんのう)とその息子、他部親王(おさかべしんのう)です。



この母と息子は、天皇呪詛の罪で捉えられ、同時に死亡していますが死因は不明。また、他部親王の異母兄であった早良親王(さわらしんのう)は、謀反の嫌疑で捉えられ、無実の罪を訴えながら憤死して「怨霊」となりました。

この3人を陥れたのもやはり藤原一族の者でしたが、彼らは自らの欲によって、強力な怨霊を増やし続けてしまった原因を作った一族だったと言えるでしょう。

こうして新たな怨霊が登場する度に、天皇と朝廷は祈祷や供養を行いましたが、今に残る春秋のお彼岸の起源は、天皇が怨霊となった「早良親王」の供養する為に始めたものです。

日本三大怨霊の一人「崇徳天皇」とは

長屋王から始まった「怨霊」という概念は、その後も無念の死を遂げた者達を怨霊化させていきました。

中でも日本三大怨霊と呼ばれる最強の怨霊は、「菅原道真(すがわらのみちざね)」「平将門(たいらのまさかど)」そして、幕末・昭和にまで影響を及ぼした「崇徳天皇(すとくてんのう)」です。

全てを紹介するとページが足りなくなってしまいますので、ここでは「崇徳天皇」のみ紹介していきしょう。

怨霊という概念がすっかり定着した平安後期の1119年(元永2年)、崇徳天皇は、第74代鳥羽天皇と藤原璋子(ふじわらのしょうし)の第一皇子として誕生しました。

しかし、崇徳天皇の誕生は両親にとって喜ばしいことでは無く、崇徳天皇は父から「叔父子(おじこ)」と呼ばれて疎まれていたのです。

何故そう呼ばれていたかと言えば、母であり皇后でもあった璋子が、妊娠可能時期に夫と同衾しておらず、同時期に夫の祖父に当たる、第72代白河天皇(しらかわてんのう:当時は法皇)の屋敷にいたことから、本当の父親は白河天皇だったと言われています。

実の父も知らず、父と思っていた人からは愛されず、崇徳天皇は幼少期から不憫な境遇で育ちました。

平安後期から、天皇では無くその父や祖父が上皇や法皇となって実権を握る「院政」が始まっていた為、天皇は幼少期に即位されられることが増えます。

白河法皇が崩御した後、鳥羽天皇が上皇となった為に、崇徳天皇はわずか5歳で即位しました。

しかし、実際の政権は鳥羽上皇が担っており、ようやく腕を振るえる青年期になった頃には、父である鳥羽上皇が「譲位(じょうい:天皇の地位を譲る)」を強要した上に、自分の皇子である近衛天皇(このえてんのう)をわずか3歳で即位させたのです。

崇徳天皇にも息子がいましたが、その「重仁親王(しげひとしんのう)」は即位させてもらえず、近衛天皇とは異母兄弟の関係となっていた為に、崇徳天皇は院政も執ることも出来ず、実権を握る機会も失いました。

それでも崇徳天皇は腐ることも無く、和歌に勤しみ頻繁に歌会を開催するなどして、文化的な生活を過ごしていたのです。

穏やかな生活は、因縁の父であった鳥羽上皇が病に倒れたところから始まりました。

父が倒れたことを知った崇徳天皇は、すぐさま鳥羽上皇の見舞いに駆け付けますが、なんと父に会うことを阻止され、死に目に会うことも出来なかったのです。

追い打ちを掛けるように、鳥羽上皇死後すぐに「崇徳院謀反」の嫌疑を掛けられ屋敷を襲撃されました。

崇徳天皇は屋敷を脱出しますが、続々と討伐軍は終結し始め、ついに第77代天皇「後白河天皇(ごしらかわてんのう)」と、崇徳天皇の間で戦が勃発したのです。

ちなみに後白河天皇も鳥羽上皇の息子である為、崇徳天皇とは異母兄弟の関係でした。

のちに「保元の乱(ほうげんのらん)」と呼ばれるこの戦いで崇徳天皇は敗北しますが、出家をして恭順の意を示すも許されずに、讃岐国(さぬきのくに:現在の香川県)へ流刑となったのです。

無実の罪を着せられ、最後は流刑の身となったにも係わらず、崇徳天皇はこの時点では謝罪と反省の意を持っていただけで、怨霊にはなっていません。

崇徳天皇は讃岐国で、父への弔いと異母弟である後白河天皇に対しての罪悪感から仏の道に没頭していきました。

彼は一心不乱に写経に励み、当時重要経典と呼ばれた「五部大乗経(ごぶだいじょうきょう:法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若経)」の写本を完成させたのですが、一説には自分の血で書き綴ったと言われています。

崇徳天皇は、保元の乱での戦死者への弔いや、後白河天皇に対する謝罪の意を込めて、この写本を京へと送りました。

しかし、後白河天皇は受け入れを拒否し、呪いが込められているという嫌疑を掛け、写本を讃岐国へと送り返してしまったのです。

この行為は崇徳天皇の怒りに火を点け、彼は自ら舌を噛み切り、流れ出る血で写本に「日本国の大魔縁となる」と書き殴り、呪いの言葉を吐きながら写本を海へと投げ入れました。

この時から崇徳天皇は「怨霊」となることを決意し、京から遠く離れた讃岐国でこの世を去ったのです。

命懸けで国を守ろうとした孝明天皇

崇徳天皇は「大魔縁宣言」の他に、「天下滅亡」や「天皇を民とし民を天皇に」という宣言もしていました。

彼がまだ生存中から「天狗となった崇徳天皇が愛宕山から京を見ている」という噂されていた為、人々が崇徳天皇の怨霊化をとても畏れていたことが分かります。

崇徳天皇は亡くなった翌年から怨霊としての活動を開始しました。

まず後白河天皇の皇子で、第78代天皇となった二条天皇(にじょうてんのう)が崩御し、その後13回忌頃までの間に後白河天皇の近親縁者が6人程亡くなります。

更に14年目と15年目の二度大火が発生し、京の街は焼かれ、大内裏(だいだいり:天皇が所在する場所)も焼け落ちてしまいました。

後白河天皇は、この時期から崇徳天皇の鎮魂を開始しますが、崇徳天皇の祟りは全く収まらなかったのです。

その後、後白河天皇が崩御しても、崇徳天皇への鎮魂は歴代の天皇達に引き継がれていきました。しかし、100年ごとに災いが起こるようになっていきます。

崇徳天皇が怨霊となってから700年の時が過ぎて、時代は動乱の幕末期へと突き進んでいきました。

第121代孝明天皇は、崇徳天皇700年祭を前に恐怖を感じていたでしょう。

孝明天皇は怨霊だけではなく、「甲子年(かっしねん)」と呼ばれる変乱の多い年が、崇徳天皇の700年祭と重なることを危惧していたのです。

その年とは1864年(文久4年)のことで、孝明天皇が生まれた1831年(天保2年)頃から、ロシア船が蝦夷地付近に現れるようになり、既に幕府は海防強化を開始していました。

孝明天皇が即位した1846年(弘化3年)以降は、アメリカのペリー提督やロシア使節のプーチャンが開国を迫るなど夷敵が現れ、国内では攘夷派に傾倒した過激派浪人達が増え続ける中で、桜田門外の変やのちに「安政の大地震」と呼ばれるほどの地震が各地で多発した際「内裏(だいり)」が火災に遭うなど、禍々しい出来事で溢れていたのです。

ここまで悪い事が重なっていけば、孝明天皇ではなくとも、着々と迫る崇徳天皇の祟りの時期をカウントし始め、式年祭前に少しでも不穏分子を排除したいという気持ちになるでしょう。

しかし、不安と恐怖で頭が一杯になっているところで、追い打ちを掛けるように幕府が開国し、アメリカと通商条約を結んだという知らせを聞いて、孝明天皇は激怒したと言われています。

あまりに激怒し、一度は譲位をしようと決意までしたということからみても、孝明天皇がいかに崇徳天皇の祟りを畏れていたのかが窺えます。

攘夷を強く訴えながらも、孝明天皇は一方で「尊王攘夷」を振りかざしながら過激になっていく長州藩や、浪人達にも警戒し始めました。

その為、京(みやこ)と朝廷を守るようにと、親王で忠義心の篤い、会津藩主である松平容保(まつだいらかたもり)を京都守護職に任命し、テロリストとなっている不逞浪人達の取り締まりを行います。

同時に、災いを何とか回避しようと、孝明天皇は改元(かいげん:元号を変えること)を行い、京に戻ることを強く願ったまま讃岐国で身罷った崇徳天皇の御霊を、京都に奉還することを決め、白峯社(しらみねしゃ:現在は白峯神宮)を建立を進めました。

国の安寧を願い、日々必死の祈りを捧げながら、国難を回避し皇統を守ろうとしていた孝明天皇でしたが、その後も動乱は収まらず、長州藩が御所に大砲を撃ち込んだ「禁門の変(蛤御門の変)」が勃発してしまいます。



天皇が暮らす御所前では、長州藩と会津藩が激しい戦闘を開始した上、敗北して逃走を始めた長州藩士が長州藩邸に火を放ったことから、京は大火に巻き込まれ多くの死者を出すことになりました。

崇徳天皇700年祭と同時に建立が決定された白峯社は、決定から2年後の1866年(慶応2年)から建立が開始されましたが、孝明天皇は完成を見ることなく、同年12月25日(火)に突如として崩御してしまったのです。

怨霊を神に変換し国を守る

孝明天皇の死因は「疱瘡(ほうそう)」とされていますが、記録によれば一度回復に向かったのち、九穴(きゅうけつ:九つの穴)から血が噴き出て死亡したと言われていることで、今も毒殺が疑われています。

頑なに攘夷を訴えつつも、けっして倒幕を考えなかった孝明天皇は、いつしか開国派にも倒幕派にも厄介な存在となっていました。

その為、孝明天皇が崩御した後、堰を切ったように戦が始まり、水戸藩出身で、誰よりも「朝敵」にされることを畏れた第15代将軍「徳川慶喜(とくがわよしのぶ)」は、征夷大将軍の地位を返還し、265年続いた徳川幕府は終わりを迎えることとなります。

孝明天皇の信頼も篤く、誰よりも勤皇家だった会津藩主、松平容保は「朝敵」の汚名を着せられ、会津の地は戦場と化しました。

最終的に戊辰戦争を経て、国家の動乱は終結していくのです。

崇徳天皇の御霊が讃岐国から約700年ぶりに京の白峯社に戻ったのは、1868年(慶応4年)の戊辰戦争中で、無事御霊奉還の儀を済ませた翌日、明治天皇の即位が行われました。

もしかすると、孝明天皇は自分の命と引き換えに、崇徳天皇の御霊にこの国の命運を託したのかもしれません。

神道では「荒魂」を祀って神化させるという風習がある為、怨霊も神にしてしまうという考えになってもおかしくはないのです。

欧米列強の脅威が迫りくる幕末は、近隣諸国が次々に植民地化されていきました。

日本も当然標的となっており、黒船襲来によってもたらされた国民分断が長く続いていたのであれば、日本も植民地とされていたことでしょう。

しかし、皮肉にも孝明天皇がこの世を去ったことで、幕府は倒れたものの皇統は守られたのです。

西洋と直接戦争を経験した薩摩と長州は、攘夷派から開国して富国強兵後の攘夷を目指し、明治政府以降の日本は西洋に追いつけ追い越せと、積極的に西洋文化を学び、維新からわずか60年ほどで西洋と肩を並べる五大国(一等国)となりました。

この事実から見ると、孝明天皇の命と引き換えに、崇徳天皇の怨霊は鎮魂されたかのように思えますが、日本三大怨霊と呼ばれる崇徳天皇は、実はその後もこの国に災いをもたらします。

近代史が得意では無い人でも、明治維新以後の日本は、徐々に世界の戦乱に引きずり込まれ、二度の世界大戦が控えていることを思い出すでしょう。



結果、国内の至る所に焼夷弾の雨が降り、広島と長崎に原爆まで落とされ、日本民族が壊滅してしまうほどの勢いで惨敗しました。

今度こそ植民地化され、日本という国が無くなってしまうのでは無いかと国民全員が絶望に突き落とされた中で、この国を自分の命と引き換えに守ってくれたのは、昭和天皇の覚悟です。

昭和天皇は、マッカーサーに命乞いなどせず、「自分の身はどうなってもいいので、国民の支援をお願いします」と懇願してくれたおかげで、今もまだ日本人は日本人として生きていられるのです。

何とか国体は維持できたのも束の間、昭和天皇は「人間宣言」をさせられ、象徴としての天皇となってしまいました。

ある意味で、崇徳天皇が残した呪詛「天皇を民とし民を天皇とする」を彷彿させるように、天皇の権威は大きく失われていくのです。

しかし、昭和天皇は国民を励ますために全国巡幸を行い、日本は驚くべき早さで復興していきました。

戦後20年が過ぎた1964年(昭和39年)、復興を宣言するように日本ではオリンピックが開催されることになりましたが、同時にその年は、崇徳天皇800年祭の年だったのです。

昭和天皇は東京オリンピックの成功と、国の安寧を崇徳天皇に祈願するべく、秋の彼岸入りである9月21日(月)に崇徳天皇が眠る白峯御陵へ勅使(ちょくし)を送り、崇徳天皇の法要が行われました。

白峯御陵(しらみねごりょう)は、香川県白峯山にあり、崇徳天皇が荼毘に付された場所ですが、式年祭当日、麓にある小学校で火災が発生し全焼しました。深夜の出来事だったので、火災の原因ははっきりしていません。

更に周辺では、雷でも無いのに謎の轟音が鳴り響き、午後からは突如として豪雨が降ったのです。

その後何事も無く、東京オリンピックは開催され、昭和・平成・令和に突入しても、今のところ日本は戦争に巻き込まれていません。

果たして崇徳天皇の魂は、もう鎮魂されたのでしょうか?次の900年祭は、2064年とまだ随分先です。

その頃、日本は一体どのような国になっているのか予想は尽きませんが、2679年も続いた皇統を今破壊しようと躍起になっている、反日工作員達が最近は目立つようになってきました。

マスコミが必死に煽る女系天皇は、今まで続いた一つの王朝を破壊する為の工作です。

歴代天皇の中には女性天皇が存在していますが、何れも父が天皇の男系女子であり、次の男系男子に引き継ぐまでの中継ぎの為に天皇となりました。



女系では、その天皇とどこの誰かも分からない男性が結婚した場合、その子は全く別の王朝となってしまうのです。

また、既に秋篠宮皇嗣殿下、悠仁親王と次代が決定している中で、愛子内親王を担ぎ上げることは、歴史が繰り返してきたように皇室を動乱に巻き込み、再び怨霊を生み出すことになるかもしれません。

破壊することは一瞬ですが、2000年以上も続いた歴史や伝統を元に戻すことは出来ないのです。

今私たちが出来ることは、先祖達が必死に守ってきたこの国を、未来にも残していくことだと言えるでしょう。

(寄稿)大山夏輝

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