吉良上野介 ① 忠臣蔵最大の悪役は当代きっての傑物

吉良上野介

吉良義央(きら-よしなか、よしひさ)と言えば、毎年12月になると必ずと言っていいほど話題になる名作『忠臣蔵』の悪役・吉良上野介として名高い人物です。本項では、赤穂視点で描かれた物語の潤色を取り除いた吉良義央像に迫ります。

吉良義央(以下、吉良と記す)は寛永18年(1641年)、高家旗本である吉良義冬と酒井忠吉の娘との間に吉良家嫡男として生まれました。吉良の系譜は足利氏の支族・御一家であり、義央自身も今川氏真早川殿の玄孫にして武田信玄の傍系子孫でもあり、いわば名族の御曹司でもあったのです。

吉良は承応2年(1653年)3月16日に徳川家綱に拝謁し、4年後には従四位下侍従と上野介に叙任され、高家の跡取りとして研鑽を積みます。万治元年(1658年)には米沢藩主・上杉綱勝の妹である富子と婚姻、その翌年には父と共に出仕し、家禄とは別に庇陰料1000俵を支給される待遇を受けました。


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寛文2年(1662年)に後西天皇の下に使者として派遣され、謁見を賜って以降、父・義冬がまとめた吉良流礼法の後継者として吉良は地位を固めていきます。寛文3年(1663年)には後西天皇が上皇になって院政を開始した際には賀使を拝命、22歳の若さで従四位上に叙されました。翌年に妻の兄である綱勝が世継ぎも無いままに死去した際には、長男の三之助(のちの上杉綱憲)を上杉の養子として断絶の危機を15万石への減知でとどめています。

このように吉良の優れた政治力は目覚ましいものがあり、幕府・朝廷や上杉のみならず、長女・鶴姫を島津綱貴に嫁がせたのを始めとして大名や公家、旗本との婚姻関係を構築します。寛文8年(1668年)には義冬が亡くなり、吉良は28歳で家督を継ぎます。

かくして当主となった吉良は儀礼・典礼を司る高家の職務だけでなく、茶人としての地位も確立しており、上野介の“上”を二分した『卜一(ぼくいち)』の号を名乗り、その名を冠した流派を興すほどに精通していました。もちろん、吉良の活躍は文化方面のみではなく、本業である高家旗本としての職務でも健在で、延宝8年(1680年)に左近衛権少将(高家の極官)を拝命し、3年後の天和3年(1683年)には公家肝煎に就任しています。

とんとん拍子に出世街道を進む吉良でしたが、家庭環境は決して幸福であったとは言い切れず、延宝8年に鶴姫が島津家から離縁され、貞享2年(1685年)に嫡子の三郎を失う悲劇に見舞われました。吉良は幕府や綱憲との話し合いの結果、綱憲の次男(吉良夫妻からすれば孫)を義周と名乗らせて養子にし、元禄3年(1690年)に江戸鍛冶橋の屋敷に迎えます。

このように紆余曲折こそあったものの、高家当主として頭角を現していた吉良の人生を変える事件が元禄14年(1701年)に発生しました。『忠臣蔵』の発端として名高い松の廊下事件です。東山天皇の勅使ならびに霊元上皇の院使を接待する饗応役を伊予吉田藩主・伊達宗春と共に命じられた赤穂藩主・浅野長矩(以下浅野と記す)によって、同年の3月14日に江戸城松の廊下で礼法の指南役であった吉良は背中と額を斬り付けられ、留守居番の梶川寄照や医師・栗崎道有らの尽力で一命をとりとめます。

一方、恒例の勅使接待に加えて生母桂昌院に従一位を叙任させようと計画していた将軍・綱吉は、殊更に重要な儀式で刃傷事件を引き起された事に激怒し、浅野に即日切腹を言い渡し、吉良はお咎めなしとなります。喧嘩両成敗では無いと言われた裁きですが、殿中で刃傷を起こせば理由がどうあれ極刑に処せられたこと、そして吉良が抵抗しなかったことなど決して理不尽なものでは無いとも言われます。

この凶事が引き起こされた理由として、吉良を悪役とした『忠臣蔵』のストーリーでは賄賂を贈らなかった浅野を吉良が憎んで畳交換の必要性や使者に出す食事、着替えるべき礼服などのことで嘘を教えて嫌がらせをしたので、浅野が激怒したと言うものです。他にも饗応役の予算を出し惜しみした浅野との確執、特産品の製塩技術を巡

これら吉良の悪事とされる行為に対しても疑問点が多いとされ、指南役が受け取る賄賂は指導料に近い物であったことや、物価上昇を2度も勅使接待をしているのに浅野が理解しなかったこと、嘘や嫌がらせをすれば吉良とて無罪では済まない事態であろう事など、異論を唱える声も少なくありません。一方、医師で作家の篠田達明さんは浅野の行動を統合失調症に似た症状と見ており、浅野の母方の叔父も刃傷を起こしているのを根拠にした遺伝子説もあるなど、浅野側に起因する説も存在します。


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いずれにせよ、「遺恨覚えたるか」と叫んで斬り付けたこと(すなわち何かの恨みを持っていた可能性)や、相手の吉良が存命した事は主君を失って取り潰しの憂き目を見た浅野家の遺臣達、すなわち赤穂浪士の憤りを招くこととなったのでした。次項では、吉良の後半生を彼の視点から見た赤穂事件と共に紹介させていただきます。

(寄稿)太田

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