武田信玄はじめとする甲州人たちは何故 偉大なテクノクラート(技術官僚)となったのか?

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武田信玄

以前の武田信玄の記事では、織田信長徳川家康といった後に天下人となる大物を畏怖せしめたほどの戦国随一の名将であった武田信玄が、如何に地理的、経済的に不利を味わっていたかを紹介させて頂きましたが、この度は、信玄やその配下家臣団が、山間で洪水多く実り貧しい甲斐国(山梨県)に拠ったからこそ編み出された『武田流国富策』のようなものを紹介させて頂きます。
「如何に自分の領内を富ませ、人口を増やし、兵力を養うか?」という近代風に云えば富国強兵は、甲斐武田氏のみならず、過酷な戦国期を生き抜く戦国大名や中小の領主にとっては最重要課題でありました。
信玄の盟友であり、武田と東国の覇権を競った相模国(神奈川県一帯)の北条氏康(1515~1571)、駿河国(静岡県東部)の今川義元(1519~1560)といった有力戦国大名も、各々の領国の経済や流通産業発展ために伝馬制の整備、検地・楽市令・六斎市の開設など様々な農商業政策を行っています。
特に、武田・後北条・今川という東国勢力が健在であった戦国期当時(1550年頃~)には、領国外で取引する(商業流通活性化)ために必要な「精銭(永楽銭などの銅銭)」が世間で不足しているというデフレ状態が全国的に蔓延しており、武田や後北条などを含める多くの戦国大名は、より多くの精銭確保のために六斎市の開設などに尽力していました。



信玄の武田氏は、特に当時の政治・経済流通の中心であった西国(畿内)から遠く離れた東国かつ山間の甲斐国を本拠としており、好敵手である今川氏や後北条に比べて商業振興や精銭確保は余計に困難であったのは間違いないのですが、その以前に平坦地が少なく、河川の洪水が頻発するという甲斐の地理的悪条件が原因で食料(兵糧)および当時の経済根幹を成していた『農業生産力(石高)も脆弱』であり、信玄やその配下家臣団(国人領主)は、先ず河川の急流を制し、地を拓く農業土木を駆使して、農業生産力を高めることから着手しなければいけない状況でした。
甲府盆地を流れる急流である釜無川や御勅使川の流れを制するために土木工事に邁進していた信玄をはじめとする当時の甲州人こそは、自分たちの拠って立つ土地の悪さを心中では嘆きつつも、人の力・知恵、技術を産み出して全身全霊を傾け強大な自然の力(洪水)と闘っていたと思うのですが、その信玄たちが苦心惨憺して産み出した土木などの技術やその所産は、後世に『甲州流』と呼ばれ、徳川家康の能臣・伊奈忠次(1550~1610)によって改良が加えられて「関東流」と呼ばれ、利根川の東遷大工事や湿地帯に覆われていた江戸の干拓工事にも大いに役立てられています。
家康や徳川家臣団が時の天下人・豊臣秀吉の手によって強制的に関東移封(1590年8月)され、当時、湿地帯に覆われていた「如何にも粗相な地」である江戸に本拠を定め、干拓・水道工事・城下町整備などが進められ、江戸中期(享保期、18世紀初め)には、人口100万を超え、当時のパリやロンドンといった都市の人口を凌駕する世界最大の大都市となり、現在の日本の首都・東京の発展に続いているということは、皆様よくご存知の通りでございますが、この大発展の嚆矢となったのが、甲斐という洪水が頻発する恵まれない土地で、信玄とその家臣団によって編み出された土木技術・甲州流でございます。
『悪い土地に拠ったからこそ武田信玄や甲州人は偉大な技術者(テクノラート)になれた』ことについて今回は紹介させて頂きたいと思います。

少し本題から離れますが、平成の初めに、故・司馬遼太郎先生の講演録CDシリーズが新潮社(全7巻)と朝日新聞社(全12巻)から製作販売されており、筆者は朝夕の車通勤中や帰宅途中にそのシリーズを聞くことを唯一の楽しみにしておりますが、そのシリーズの中で、新潮社版の第5集「日本人と合理主義」(1977年 静岡公会堂にて収録)という銘打った講演会のはじめに司馬先生は、甲州と土木発展性の関連性について以下の通りに仰っておられます。
 
『(甲州/甲斐)は、とても悪い土地ですから、ここで人間の知恵というのが大きく発達したのが、大体鎌倉期が始まる頃であります。
どういう形で発達しかと言うと、ご存知のように甲州というのは山国でありまして、川が急流であります。
悉く急流でありまして、ここで稲作を作るのは、籾を播いて苗床をつくって、稲ができる具合ではありません。
石垣を造らなければいけない。
そして、河川の水を堰き止めたり、或いは水の流れを変えたりなど、色々な工夫をしなければいけないもんですから、甲州で日本の土木は発達したわけであります。』




 
『これは普通言われていませんが、これは異常な発達であります。(中略)
「戦国の頃、武田信玄の時代というのは、非常に甲州の華やかな時代」ですけれども、何故華やかなだったかと言うと、信玄が出たからだけではなくて、「甲州人は土木の名人」でありまして、甲州の隅々の田畑は土木によってできていました。』

以上ののように、偉大な智嚢者であられた司馬先生は山国という農業にとって条件の悪さが却って格好の土木訓練場となり、信玄をはじめとする甲斐人が、結果的に優れた土木技術者となったことを言及しておられます。
平安末期や鎌倉期に興った中世武士団(特に関東武士団)というのは、荒れ地や不毛地帯を開墾し着々と勢力を蓄えた『開拓(農業と土木)集団』であり、元来、農業土木のプロフェッショナルの人々なのですが、戦国期でも多くの在来領主層によって成り立っている甲斐国(武田氏)でも、中世武士団の雰囲気(開拓気質というべきか)が濃厚に残っている上、地理的不利がより甲斐に住まう人々の土木技術が磨かれたのであります。
 
1995年8月に、講談社現代新書から刊行された古い書籍ではありますが、日本農業史がご専門で、当時、筑波大学農林学系教授であられた佐藤常雄先生と、近世日本史の泰斗であられた故・大石慎三郎先生(1923~2004)の共著・『貧農史観を見直す 新書・江戸時代3』という名著があります。
その第1章「国土利用の転換点」では、「国土の原風景(日本列島や河川の地理説明、国内は自然農業に適さない環境など)」について簡略かつ解り易く記述された後、『治水技術が生活圏を変える』という項目があり、以下の如く記述されています。

『戦国大名の家臣団は、武器をもって戦った武闘集団であるとともに、築城・鉱山・土木工事などの技術を兼ねそなえた技能集団でもあった。
戦国大名は領地を拡大して広域支配を実現させたが、領内を流れる河川の洪水や乱流の防止にも積極的に乗り出し、それまでほとんど手のつけられていなかった大河川の改修に着手した。
戦国大名が河川改修の新工法を生み出したのである。』
(「治水技術が生活圏を変える」文中より)

佐藤先生は、上記のように戦国大名が抱える家臣団は、自軍の貴重な兵力ともに領内の内政・経済政策を担う優秀な『テクノクラート(技術官僚)』でもあったと仰っておられます。
事実、戦国大名たちは、領内の農商業発展のため自勢力に鍛冶職人、鋳物師、「番匠/杣師/大鋸(3つ共に建築業)」など優れた技術者を確保するために、彼らに対して減税・苗字帯刀など様々な優遇措置を採っています。
その優れた技術者を上手く使いこなし、信玄堤という独特の治水工法を編み出したのが信玄であります。
佐藤先生は続いて信玄の工法についても詳しく書いておられます。




 
『なかでも武田信玄の治水工法は著名で、甲州流と称せられる。
武田信玄の本拠地は甲斐国の甲府盆地であったが、富士川の上流である釜無川は全国でも有数なあばれ川であり、あいつぐ釜無川の氾濫が甲府盆地の田畑を押し流してしまっていた。』

『信玄の釜無川治水工事は、河川の自然流を利用して洪水の氾濫をゆるやかにし、カスミ堤と呼ばれる堤防を水があふれる程度の高さに築き、しかも河流に沿って築かずに、適当な角度で河道に突き出す雁行の不連続堤を築造した。
治水の構造物には聖牛(せいうし)・棚牛(たなうし)・尺木牛(しゃくぎうし)などの粋類が用いられ、河川敷を広くとったものであった。』
(「同上」文中より)

聖牛などを簡単に説明すると、河川の急流を緩やかにするために木材や石材で造られた信玄堤の一つである治水構造物ですが、これらは信玄の甲州で独特に生み出された工法であり、信玄たち甲州人はこの技術を駆使して、実に約20年の長い歳月を費やして、所謂、後世でも信玄の治政業績の1つとして有名な『信玄堤』を完成させ、甲府盆地の水害を軽減させたのであります。
その結果、甲府盆地の耕地面積はそれまでの3倍近くの400平方キロメートルまで増加したと言われています。
また同時に堤防を定期的に補修できる人員確保のため堤防付近に領民や技術者を移住させ、その人々に対しては棟別銭(建物税)を免除する優遇措置を採り、堤防のメインテナンスにも腐心しています。

更に聖牛について述べさせて頂くと、2000年~2009年までNHKで放送されていた人気歴史教養番組『その時歴史が動いた』の第190回武田信玄 地を拓き水を治める 〜戦国時代制覇への夢〜(2004年9月1日放送)の最後で紹介されていたのは、現在の中東アフガニスタン国内を流れるクナール川にも聖牛がモデルとされたコンクリートブロックが、生活用水のために築かれた堤防を保護のために利用させている場面でした。
同回にゲスト出演されていた故・堺屋太一先生は、『日本の戦国期(16世紀末)は、日本のルネサンス』と仰っておられますが、当時、全国の文化や経済精度が西高東低であったにも関わらず、東国の山間に居た信玄たち甲州人というテクノクラートが生み出した高度な技術は、現代しかも海外でも活用されているという一点のみを思ってみても彼らの偉大さに感銘を受けます。
 
武田信玄やその家臣団は、常勝・武田軍(甲州軍)という勇ましくカッコ良いイメージが強くなってしまいますが、それよりも以前に、彼らは優れた技術集団であり、自分の領国を富ませる経済官僚でもあったのは以上の如くでございますが、その土木や治水技術、即ち「甲州流」を受け継ぎ、次代の徳川幕府の礎(江戸建設および関東平野開拓)に活かした双璧が「大久保長安(石見守)」と「伊奈忠次(備前守)」でありましょう。
両者共に、徳川政権草創期における町割・治水・経済圏樹立のために大活躍した正しく、近世テクノクラートの魁でございますが、特に長安は、武田氏の下級家臣の身分(能役者)を経て、徳川家康に仕えて、佐渡金山の開坑などで大きな功績を挙げ、後に「天下の総代官」と称せられるほどの大物政治家になっています。
大久保長安が大出世できた要因は、甲州人として優れた土木技術を持っていたからでございます。



酒井忠次の方も、当時、江戸湾に向かって流れていた関東平野の暴れ川・利根川を北関東(銚子)に向かって流れを変えるという大工事「利根川東遷普請」を筆頭に新田開発・運河開削普請などを関東代官頭(後の関東郡代)として監督総括し、湿地に覆われていた不毛地帯・江戸の発展に大きく貢献している大物技術官僚であります。
この忠次も徳川氏関東転封以前に、武田氏滅亡後に徳川領となった甲斐国を代官として統治しており、前述のように、甲州流の優れた土木技術を学び取って、後に伊奈氏が開祖とされる「関東流」と称せられる治水土木技術に活かしています。
次の記事では、長安、忠次などが含める徳川氏におけるテクノクラートが、江戸の町割や利根川東遷工事に邁進し、現在の東京および日本の大発展に繋がってゆくことについてもう少し詳しく紹介させて頂きたいと思っております。

(寄稿)鶏肋太郎

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