板垣信安とは 武田勝頼の重臣

板垣信安

板垣信安(いたがき-のぶやす)は、戦国時代の武将で甲斐の武田勝頼に仕えていました。
板垣信安(於曾信安)は於曾源八郎の子として生まれましたが、母は板垣信方の娘です。
板垣信方が1548年の上田原の戦いで討死すると、嫡子・板垣信憲が家督を継いで諏訪城主となっていましたが、父と異なり有能では無く、1552年に武田信玄が従来の不行跡を理由に板垣家を閉門し、1557年に断絶させます。
そのため、1558年に於曾信安が板垣家の名跡を継ぎ、板垣信安(いたがき-のぶやす)となって武田親族衆として120騎を率いました。


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そして、1569年から最初の久能山城主となっていますが、1571年には今福浄閑斎と今福丹波守友久が久能山城主となりました。

ちなみに、板垣信安は田中城主になったようですが、、長篠の戦い内藤昌豊が討死すると、武田勝頼の命で箕輪城主となったともあります。
ただし、1575年の長篠の戦いにて討死した可能性もあります。
なお、子の板垣修理亮は真田昌幸に仕えて、1585年の上田城の戦いでも奮戦したことが記録にあります。

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