1分でわかりやすい源満仲(多田満仲)の解説~武門・源氏に繋がる功労者

多田満仲

源満仲(多田満仲)とは

源満仲(みなもと の みつなか)は、平安時代中期の武将ですが、摂津国多田荘に住んだことから、多田満仲と書く場合も多いです。
父は、清和源氏源経基(経基王)で、多田満仲は、912年に生まれました。
母は、橘繁古の娘(または、藤原敏有の娘)です。

源満仲(多田満仲)の妻には、源俊の娘、藤原致忠の娘、藤原元方の娘などがおります。
子としては、摂津源氏の祖・源頼光、大和源氏の祖・源頼親、河内源氏の租・源頼信のほか、僧の源賢など、たくさんいます。

鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府を開いた足利尊氏、江戸幕府を開いた徳川家康(平氏→源氏)と、源氏を称した将軍らの系譜は、すべて源満中(多田満仲)の子孫と言う事になります。
もちろん、新田義貞、佐竹氏、武田信玄も子孫にあたります。
歴史に if 禁物ですが、もし、源満仲(多田満仲)がいなかったら、今の日本や、これまでの日本の歴史は、ぜんぜん違っていたことでしょう。

村上天皇、冷泉天皇、円融天皇花山天皇に仕え、969年、安和(あんな)の変にて、源高明を失脚させ、藤原兼家に協力すると、藤原氏政権の確立に尽力しました。
こうして、摂関家と結んだ源満仲は、武人としての地位を確立し、源氏として武門の道を切り開いたのが、源満仲(多田満仲)と言う事になります。
源満仲がいなかったら、大江山鬼退治で有名になった、源頼光も、いなかったわけでして、となると、昔話の金太郎も、なかったかも知れません。

970年には、源満仲は、多田神社を創建しました。
また、摂津国、越前国、武蔵国、上総国、常陸国、伊予国、美濃国、下野国、陸奥国などの国守を歴任し、当時、武門の最高栄誉職である鎮守府将軍となっています。
これにより、河内源氏などは、東国武士との交流も図れ、やがて平氏打倒へと繋がったのでした。

源満仲(多田満仲)は、997年8月27日に死去。
遺骸は多田院(多田神社)に葬られました。

多田満仲の墓

多田満仲は、各地の国守を務めたため、伝説も各地にありますが、ここでは、1分以上の、オマケ情報として、箱根にある、多田満仲の墓をご紹介申し上げます。
下記は、箱根・精進池の近くにある箱根石仏群内の、巨大な石造宝篋印塔で、多田満仲の供養塔の説明になります。

多田満仲の墓

高さは、なんと、2m65cmもあり、供養塔を作った石工技師は、大和石大工・大蔵安氏と、石工・心阿と、記載されています。
鎌倉時代の1296年に建立されたとあり、国の史跡と、国の重要文化財に指定されています。
箱根駅伝のルートにもなっている、旧東海道(鎌倉古道)の脇にありますので、旅人の無事を祈った意味合いもあるでしょう。
ただし、この宝篋印塔が、なんで、多田満仲の供養塔とされているのかは、不明ですが、まぁ、多田満仲の業績を称えて、伝説になったようです。

箱根の多田満仲の墓がある場所は、当方のオリジナル地図でもポイントしております。
精進池の脇に、無料の資料館「石仏群と歴史館」があり、駐車場(5台ほど)も、利用可能ですが、ちょっと歩きます。
冬季は道路凍結しますので、ご注意を。

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