虎御前(虎女)の解説~曾我十郎(曾我祐成)の妾となり生涯菩提を弔う

虎御前(虎女)

虎御前とは

虎御前(とらごぜん) は、鎌倉時代初期の女性で、曾我兄弟の仇討ちを描いた「曽我物語」に、大磯の虎女として登場します。
虎女の出自は、もちろん諸説ありますが、重須本・曽我物語によると、虎女の母は平塚の遊女・夜叉王とされ、1175年生まれともあります。
父は、宮内判官・家永(藤原基成の乳母の子)とあり、京から逃れて相模国海老名郷に住んでいたようです。



虎の母・夜叉王がいた平塚の遊女宿は、現在の平塚市の黒部が丘付近であったとされます。
そして、平塚で生また虎女は、大磯の長者(山下長者屋敷)にて育ち、遊女になったとあります。

山下長者屋敷

虎女の父を尋ぬれば去る平治の乱に誅せられし悪右衛門督信頼卿の舎兄民部少輔基成とて奥州平泉へ流され給ふ人の乳母子に宮内判官家長といひし人の娘なり。

上記の曽我物語より、読み解きますと、藤原基成(ふじわら の もとなり)が、奥州平泉へ流され給うとあります。
実際に、藤原基成は、平安時代後期の1143年4月、陸奥守となって、鎮守府将軍も任じられると、東北地方の統治の為、奥州・平泉へ下向しています。
その後、一旦、京に戻りますが、1159年、平治の乱で敗れた異母弟・藤原信頼に縁座して、陸奥へ流罪となりました。
ただし、奥州・藤原氏の実力者である藤原基衡と親交が厚く、衣川館に住んで、奥州藤原氏の政治顧問のような立場となっています。
その藤原基成が生まれた際に、乳母を務めた女性の子が、宮内判官家長と言う人物であり、その娘が虎御前であるとしています。

宮内判官(くないほうがん)の意味ですが、まず、判官とは四等官制においての第3位目の職を指します。
宮内と言うのは、直接の役職名などではなく、勤務先を差すと考えられます。
宮中の衣食住・財物その他の諸事を担当したのが、宮内(宮内省)という事になります。
すなわち、宮内判官家永は、京の朝廷にて勤務していた判官でしたが、平治の乱で失脚して、流されたとも考えられます。

ちなみに、平治の乱では、相模国毛利庄(神奈川県厚木市)を領した源義隆も死去しており、その子・源頼隆は、下総に配流となり、千葉常胤に預けられました。
源頼朝が、伊豆に流されたのも有名です。

大磯・延台寺の縁起や、東洋画題綜覧などによると、山下長者屋敷には、別途、伏見大納言・藤原実基なる公卿が住んでいたともされるため、追加して少しご紹介いたします。
下記の通り、ご説明申し上げます。

藤原実基とは

藤原実基は、40歳になっても、子宝に恵まれず、夫婦で、虎池弁財天に日夜願うと、虎の刻に女の子を授かったともあります。

小生は、最初、従二位・権中納言である三条公定(さんじょう-きみさだ)の子・藤原実基が該当すると考えました。
1207年9月、父・藤原公定と・藤原実基は、鳥羽上皇の怒りをかい、佐渡に配流されたともあります。
その後、父・藤原公定(三条公定)は、1211年に許されて帰京していますが、藤原実基は、領地があったのか?、相模国に留まった可能性があったのか?と・・。
しかし、ただし、曾我兄弟の仇討ちは、1193年ですので、藤原公定と藤原実基が流されたとする1207年は、15年くらい、あとの話となってしまいますので、時代が合いません。
また、藤原実基は、大納言になったことも無いようですし、そもそも、伏見大納言なんて、呼ばれたことがある高級公家を、聞いたことがないのです。
京都の伏見は、御所から約10kmくらい離れています。
大納言でしたら、御所の近くに住んでいるはずでして、歩いて往復4時間もかかる、遠いところにいたとは、考えられないため、伏見大納言なんて、なかなか考えにくい部分となる訳です。



その後の調査で、後藤実基(ごとう-さねもと) なる平安時代末期の武将がいることがわかりました。

後藤実基の生没年は不明ですが、父は北面武士・藤原実遠になりますので、藤原実基と呼んでもおかしくはありません。
そもそも、後藤氏と言うのは、藤原氏の後裔、すなわち「後の藤原」と言う意味でもあります。
後藤実基(藤原実基)は、源義朝に仕えており、1159年、平治の乱では、源義朝の長男・源義平に従っていました。
源義平は討死しており、後藤実基(藤原実基)が、その後、どうしていたのか?も不明です。
源頼朝が伊豆へ流罪となる中、平治物語では、後藤実基が、源義朝の娘・坊門姫(一条能保の妻)を、秘かに養育したともあります。
これは、後藤実基の妻が、坊門姫の乳母を務めていたのが、理由のようです。
成長した坊門姫は一条能保に嫁いだ訳ですが、これも、後藤実基が、京の一条家に仕えていたことがあったためのようです。
嫁いだ坊門姫は、1167年に娘を産んでいますので、それまでに、後藤実基の手元から育って行ったことでしょう。
となりますと、虎御前が生まれたのは、1175年とされますので、後藤実基(藤原実基)は、京から大磯に移住していたとしても、年代が合います。
しかも、同じ、平治の乱から、苦難の道を歩んだ、宮内判官家長の娘とあれば、養育する理由も、うなづけます。
後藤実基(藤原実基)の夫妻は、長年、京にいたため、教養も豊富で、誰かを養育するのにも慣れていると言うと、語弊があるかも知れませんが、子供に恵まれなかった可能性があり、実際に、後継ぎがいなかったようです。

1180年、源頼朝が挙兵すると、後藤実基(藤原実基)は、養子・後藤基清と一緒に、参じました。
後藤基清(ごとう-もときよ)は、佐藤義清(西行)の兄弟・佐藤仲清の子であり、のち家督を継いでいます。(佐藤氏と後藤氏は同族)
平家追討にて、後藤実基(後藤兵衛実基)と養子・後藤基清は、源義経の軍勢に属して活躍しています。

後藤基清の妻は、大江能範の娘になります。
京での繋がりが強い後藤氏の子孫は、鎌倉幕府滅亡まで、六波羅評定衆を世襲して行きました。

と言う事で、昔の縁起では、もう少し後の人物である伏見大納言・藤原実基と誤認する可能性は充分にありますが、藤原実基は、後藤実基だったのではと推測する次第で、山下に住むと、山下長者と呼ばれたのかも知れません。



山下氏?が、藤原氏(後藤氏)ではない場合、山下長者屋敷の山下氏は、大庭氏関連か、中村党関連のどちらが?、治めていたか?と言う事になりそうです。

いずれにせよ、虎御前の父・母に関しては、諸説あり、よくわからないといったところです。
となると、実在した女性とは考えにくいとも感じたのですが、吾妻鏡では「大磯の虎が、亡夫のために、仏事を修す」とあるため、虎御前じたいは、実在した女性である可能性が高いです。

なお、戦国大名上杉謙信の母(長尾為景の継室)も、虎御前と呼びますので、混同しないよう、注意が必要です。

遊女とは

平安時代・鎌倉時代の遊女(ゆうじょ)とは、歌・芸・踊りをするプロの芸人といったところで、夜に宿泊客の前などで、披露するのが、主な仕事でした。
また、高貴な武将などの前に出る遊女は、比較的、身元もしっかりしていると申しましょうか、それなりの家に生まれた女性と言え、教養も乏しい村の娘が遊女として接待したと言う事は少ないです。
遊女や白拍子を母に持つ公卿や武将も多いですが、母が遊女でも、別に、恥ずかしい訳ではないため、家系図にも載せていると考えられます。

仇討ちを決意した曽我祐成は、父の仇・工藤祐経が通行すると言う情報を得るため、酒匂、国府津(小田原市)、渋美(二宮町)、小磯、大磯(大磯町)、平塚などの宿を回ったと言います。
そして、大磯宿で、虎に出会いました。
曽我祐成(曽我十郎)は、はじめ、月4~5回、曽我舘から大磯に通いましたが、やがて月10回は大磯に行ったといいます。
こうして、虎御前は、17歳の時、曽我十郎(20歳)と出会い恋仲になり、妾となりました。
その後、曾我十郎(曾我祐成)と弟・曾我五郎(曾我時致)は、1193年5月28日、富士の巻狩りの際に、父・河津祐泰の仇である、工藤祐経を討ち果たします。(曾我兄弟の仇討ち)
曽我祐成は、新田忠常(仁田忠常)に討ち取られ、曽我時致は捕らえられた後、源頼朝ず直々に取り調べをし、斬首されました。
その後、曾我氏周辺の者が、捕らえられて、聴取されましたが、虎御前は放免されています。



曽我兄弟の死後、19歳の虎は曽我兄弟の母・横山時重の娘がいる曾我の里に訪ねました。
その後、箱根に登って、箱根権現社の別当・行実を訪ねて出家し、曽我祐成から与えられていた馬を施物にしたとあります。
その後、虎御前は、兄弟鎮魂の廻国行脚します。
真名本(まなぼん)によると、熊野、太子、吉野、天王寺などに滞留したあと、一周忌に合わせて、曾我の里に戻ったとされます。
そして、兄弟の供養のため、信州・善光寺に詣で、首にかけた2人の遺骨を奉納し「虎石庵」にて修行したとされます。
大磯に戻ると、高麗山の北側の山下にて、現在の東光寺・観音堂の脇に、庵を結び、余生を過ごしました。

東光寺・観音堂

下記が、山下長者屋敷のすぐ近くにある、東光寺・観音堂です。

東光寺・観音堂

東光寺・観音堂の左手・奥には、虎女住庵跡の石碑や、古い五輪塔などがありました。

虎女住庵跡

虎女(虎御前)は、64歳で亡くなったとも伝わります。

トラと言う言葉は、石の傍らで、修法する巫女(みこ)の呼び名であったと考えられています。
石占(いしうら)などを手掛けた巫女が、曾我物語を語って歩いたともされ、のちに大磯の妾に結び付いて、虎御前として各地に残ったともされます。
吉野や立山にも巫女の名称として、都藍尼(とらんに)と言う伝説があります。
伝播した唱導団体の名称が、虎だったとも言います。



毎年、5月28日は、曾我兄弟の仇討(あだうち)の日であり、虎が雨(虎御前の涙雨)が降ると伝わります。

曽我兄弟と虎御前の五輪塔

箱根・芦の湯から精進池へ抜ける、国道1号線沿いに、三基の五輪塔が並んでいます。(記事トップの写真)
国の重要文化財です。
その3つの供養塔は、曽我兄弟と虎御前のものと伝わります。

曽我兄弟と虎御前の五輪塔

1基には、永仁3年(1295年)12月の銘があると言いますので、鎌倉時代に設置されたようです。
この地蔵講の銘が刻まれた五輪塔としては、日本で最古のものとされます。
曽我兄弟は、箱根路登って、箱根権現に祈願してから、富士山の麓に向かったのだ言います。 

なお、横須賀・乗誓寺に伝わる伝承ですと、曾我時致と虎御前の間には、河津信之(河津三郎信之)と言う子がいたと言います。
河津信之は、成長すると源実朝に仕えたとされます。
恩賞として平塚郷を領しましたが、工藤氏の逆襲を恐れて、出家し、了源(平塚入道了源)と称したとあります。
了源は、1227年、平塚・阿弥陀寺を開山したと言います。
南足柄市の善福寺、そして、大磯町の善福寺も、同じく了源が開基なのですが、大磯の了源は、曽我兄弟の兄・曾我祐成の子が河津信之(平塚入道了源)となっています。
南足柄市の了源は、曽我兄弟の叔父・伊東祐清の子である伊東祐光(平塚入道了源上人)となっています。
なお、伊東祐光(伊東四郎祐光)に関しては、別途「道意」ともあり、横浜市戸塚区の長光寺を道意(伊東祐光)が建立したと伝わります。



山下長者屋敷、東光寺・観音堂、曽我兄弟と虎御前の五輪塔などは、当方のオリジナル関東地図でも、場所がわかりますので、ご興味があればご確認頂けますと幸いです。

ちなみに、弟・曾我時致(曾我五郎)にも愛人がいたとされ、その女性の名は、大磯廓の遊女・化粧坂少将ともされます。
曽我物語としてまとめたのは、箱根権現(箱根神社)や伊豆山権現(伊豆山神社)の僧だと考えられています。

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