河津祐泰の血塚&椎の木三本【河津祐泰暗殺の地】伊豆・赤沢

河津祐泰の血塚

河津祐泰の血塚

血塚は、静岡県伊東市八幡野にある平安時代末期にあった事件の史跡です。
一般的には、河津三郎祐泰の血塚、河津三郎血塚などと呼ばれています。

河津三郎の血塚

かつては、熱海から下田に抜ける、主要街道「東浦路」だったようで、江戸時代には下田街道として整備された旧道です。
浮山の別荘地の奥にある、舗装された急坂を下がると、谷間になっており、石畳の道を50mほど進むと、河津祐泰の血塚があります。
石畳などは、血塚を中心に約300mのみ、2008年頃に、補修されたものとなり、下記が入口となります。

河津三郎祐泰の血塚

河津祐泰(かわづ すけやす) は、平安時代末期の武将で、伊豆・工藤氏の一族である伊東祐親の長男として、1146年頃に生まれました。
本拠地は、河津桜で有名な、河津荘の伊豆・川津館(下記写真)です。

伊豆・川津館

伊豆には1160年、源頼朝が流罪となって謹慎となりましたが、最初、河津祐泰の父・伊東祐親が、面倒を見ていたと考えられます。
そして、1176年10月、伊豆・奥野にて、流人の源頼朝を招待するような、伊豆・巻狩りが3日3晩、行われました。



主催したのは、曽我物語によると、鎌倉一族(大庭氏)の大庭平太景信(大庭景信)のようで、源頼朝に楽しんでもらうためのイベントだったようです。
しかし、その帰り道でしょうか?、工藤氏一族である大見成家/大見小藤太(おうみことうた)と、八幡行氏/八幡三郎行氏(はつまさぶろう)の兄弟は、父・伊東祐親を暗殺しようと、狙っていました。
京にいる工藤祐経と、伊東祐親は、所領を巡って、争っていたのです。
話が長くなってしまうため、詳しい経緯をご存知になりたい場合には、下記をご参照賜りますと幸いです。

わかりやすく【工藤祐経】解説~工藤氏の内紛から曾我兄弟の仇討ちへ~オリジナル家系図あり

椎の木三本

大見成家と八幡行氏は、伊豆・赤沢の椎の木三本の地に隠れていました。
今も昔も、ただの林だったと思いますが、その椎の木三本の地は、血塚とは、別の道脇にあります。

椎の木三本

曽我物語はじまりの地「椎の木三本」として案内板もあります。

赤沢の椎の木三本

そして、伊東氏の一行が通過すると、矢を放ちました。
先行して馬に乗っていた河津三郎は、八幡三郎が放った矢を、腰に受けたとあります。



怪力の持ち主だった河津三郎(河津祐泰)は、ただちに応戦しようとしましたが、力尽きて落馬したとあります。
河津祐泰、享年31。
この亡くなった場所が、河津祐泰の血塚とされる次第です。
最後を見届けたのは、父・伊東祐親と、土肥実平だったとされます。

河津祐泰のわかりやすい解説~怪力の持ち主でもあった伊東氏の嫡男

河津三郎が落命したと伝わる場所に、のち、供養のために積石塚と宝筐印塔が建立されました。

河津三郎血塚

河津三郎血塚の裏手には、河津三郎の墓とされる墓石があります。

河津三郎の墓

父・伊東祐親には、矢は当たらず、無事でしたが、この河津祐泰暗殺事件が、のち有名な「曾我兄弟の仇討ち」へと発展したのです。

河津三郎祐泰には、横山時重の娘(満江御前?)と間も生まれていた、幼い兄弟がふたりいました。
妻・横山時重の娘は、その幼子を連れて、土肥実平の同族・曾我祐信に再嫁したため、成長した子供は、曾我祐成、曾我時致の兄弟になったと言う事になります。
17年後の1193年、曾我兄弟は、父の仇である、工藤祐経を、富士・白糸の滝の近くにて、討ち果たしたのでした。

曽我兄弟の仇討ちの解説【分かりやすい経緯】工藤祐経と伊東祐親の遺恨

日本全国、広しと言えども「血塚」と、恐ろしい名がつく史跡は、ココだけです。
宝篋印塔は、南北朝時代の形状であり、伊東家の子孫が建てたとされます。

ただし、話に水を差すようで、大変申し訳ありませんが、血塚の場所が、どうも・・・。

巻狩りを行ったのは、奥野と呼ばれる、現在の奥野ダム付近となります。
その奥野で、巻狩りが終ったとして、源頼朝や伊東祐親がいたと考えられる伊東荘に戻るとすると、赤沢は逆方向と言う事になってしまいます。
巻狩りでは、館にて3晩、宴会も開かれたようです。
その夜の宴会が、河津荘の三津館にて開催した日があったと仮定しても、奥野から赤沢までは、約14km(徒歩2時間30分)と、ちょっと距離があります。
更に、赤沢から、三津館までは、21km、徒歩4時間30分の距離ですので、約1日要する距離を、わざわざみんなで、ぞろぞろと、移動したとは考えにくいところがあります。
もともとの予定が3日間ではなく、1週間以上あり、熱川温泉にでも、行こうとしたのか?、伊豆の観光も兼ねていたのかも知れません。
しかし、河津祐泰が殺害されて、その後の予定は中止になり、3日間で終了したと、解釈して、納得することと致します。



実際に、源頼朝は、謹慎中とはいえ、東京湾を渡って、安房(房総半島)へも、行ったともありますので、このような、巻狩りも、よく開催されていたのかも知れません。

河津祐泰の血塚の見学所要時間は、入口から入って、5分~10分程度になります。
椎の木三本まで、歩いて移動すると、約700m、徒歩15分ほどになります。
なお、椎の木三本は、急斜面を登ったところ(手をつかないと登れないようなところ)にあるようですので、道路わきからの撮影に留めました。

交通アクセス

伊豆・川津館への行き方・交通アクセスですが、すぐ近くにルネッサ赤沢があり、何回も通行したことがあるのですが、非常に分かりにくいです。
伊豆高原駅から歩くと、約2.6km、徒歩40分といったところです。
別荘地の中に入り、その奥地の急坂下にあると言う感じです。
駐車場はありませんが、入口付近に駐車できる道路がありますので、場所を、当方のオリジナルでも、ポイントしております。
当方の地図の中にある検索窓から「血塚」と検索して、タップ・クリックなどで、行き先に指定すれば、そのままカーナビとしてもお使い頂けます。(歩くナビとしても設定できます)



駐車場はありませんが、手前の急坂は、執筆時点で、駐車禁止ではないようですので、短時間、クルマを止めさせて頂きました。
椎の木三本がある場所は、路肩に駐車スペースがありますので、あわせて、当方のオリジナル地図にて、ご確認頂けますと幸いです。



伊東氏としての、河津祐泰の墓は、伊東・東林寺の裏山にあります。
伊東や河津などにも、伊東氏や曽我兄弟関連の史跡もございますので、ご興味ある方は、下記もあわせてご確認頂けますと幸いです。

伊東祐親の解説~八重姫の父で源頼朝の命を狙った伊東氏
伊豆・川津館の解説~河津祐泰の居館跡(河津氏館跡)
曽我兄弟の仇討ちの解説【分かりやすい経緯】工藤祐経と伊東祐親の遺恨
伊東祐親の解説~八重姫の父で源頼朝の命を狙った伊東氏
わかりやすく【工藤祐経】解説~工藤氏の内紛から曾我兄弟の仇討ちへ~オリジナル家系図あり
伊東祐清をわかりやすく3分で解説~八重の兄で源頼朝を逃がすも(鎌倉殿の13人)
八重姫(伊東祐親の3女)の解説~源頼朝の子をなすも悲運の女性
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虎御前(虎女)の解説~曾我十郎(曾我祐成)の妾となり生涯菩提を弔う
史跡めぐりにも便利なオリジナル関東地図

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