新田義貞公御墓所

新田義貞公御墓所

称念寺と新田義貞

【称念寺】
福井県史跡 新田義貞公御墓所 称念寺(しょうねんじ)

【歴史】
称念寺は長崎道場と呼ばれ、
一遍上人という鎌倉時代の僧が開いた時宗の寺です。

けれども、称念寺に伝わる縁起によれば、
古くから長崎の地にあったそうです。
称念寺が長崎が湖のほとりにあったころ、
白山権現がこの地に渡来した際、
着岸した旧跡であったと伝わります。
また泰澄大師がこの地を訪れ、
養老5年(721年)、
元正天皇の勅願を受け
阿弥陀堂を創建したと記録してあります。
称念寺は白山信仰との関係が
深かったことがうかがえます。

漁に使うおもりが近くの畑から出土し、
大きな川や湖が存在したことが推測されます。
また縄文時代の遺跡が見つかり、
そこで漁をしたことが伺えます。
江戸時代の記録を見ると、
福井の殿様が
「泰澄大師舟つなぎの松」
と言うのを見にこられたことが
記載されています。
平成28年の新幹線ルート発掘調査では、
川・池・堀の跡が出てきたそうです。

【南北朝と新田義貞】
鎌倉幕府も末期に入り、
北条高時の頃になると、
世の中が乱れ不満を持つ武士たちが現れました。
その代表的な武士たちが
足利尊氏や新田義貞、楠木正成です。
そして鎌倉幕府を滅ぼした
武士が新田義貞です。
ところが足利尊氏と新田義貞は争いとなり、
南朝と北朝に分裂して
日本中を巻き込んだ戦乱の世になりました。
ここ越前地方も戦乱の舞台になりました。

新田義貞は群馬県で生まれ、
鎌倉末期から南北朝の混乱の時代にあって、
足利氏と並び武家を統率する
力のある家系であった新田家の当主でした。
足利尊氏の対抗馬であり、
好敵手でもあったとのことです。
反幕府方として鎌倉を攻略し、
ついで南朝方のリーダーとして
京都や兵庫県など各地で戦いました。
やがて、箱根や湊川での合戦で敗北し、
のちに後醍醐天皇の息子である
恒良親王、尊良親王を奉じて
北陸に赴き、
越前国を拠点として活動しましたが、
暦応元年(1338)に
灯明寺畷の戦いで
眉間に矢を受け戦死しました。
享年は39歳でした。
戦乱の中で味方を裏切ったり、
兄弟で争ったりした時代に、
新田一族は最後まで
南朝の後醍醐天皇を裏切ることなく
戦い続けた武士でした。
新田義貞は称念寺の住職と、
古くより交友を深めていたので、
その遺骸は時宗の僧侶8人にかつがれて、
手厚く葬られたということです。
これにより、
称念寺は新田義貞の菩提寺として
知られるようになったそうです。

敵方であった足利義政もその武勇をたたえ、
長禄2年(1458)安堵状と寺領を寄進し、
将軍家祈祷所として栄えました。

こうして称念寺は寛正6年(1465)に
さらに後花園天皇の綸旨(りんじ)を受け
祈願所となり、
その後、後奈良天皇の頃には
住職が上人号を勅許されるなど
着々と寺格を高めていきました。

称念寺の場所と行き方

【所在地】
〒910-0383
福井県坂井市丸岡町長崎19-17
【電話番号】
0776-66-3675
日中の連絡先は、隣りのまごころ保育園へ
0776-68-0756

【交通アクセス】
<JR丸岡駅より>
本丸岡行き京福バス
「舟寄バス」停で下車し徒歩10分
タクシーの場合
JR丸岡駅・JR春江駅から タクシーで10分
京福バス丸岡ターミナルから タクシーで5分
<車の場合>
北陸高速道路 丸岡ICから車で約5分
(一本田交差点経由)

※2019年8月末現在、
称念寺の直ぐそばを北陸新幹線の
高架橋が建設中となっています。
お越しの際はご注意下さい。

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