3分でわかる「聖徳太子」 偉業とおもしろい話

3分でわかる「聖徳太子」 偉業とおもしろい話

聖徳太子とは

聖徳太子(しょうとく-たいし)は、西暦600年頃、飛鳥時代の皇族です。
厩戸皇子(うまやどのみこ)とも言いますが、これは厩戸前にて出生したと言う伝承からともされます。
第31代・用明天皇の第2皇子として生まれました。

幼いころから聡明であったとされ、一度にたくさんの人が話をしても、それをすべて理解したなど、様々な伝説があります。

19歳で推古天皇の摂政に抜擢され、憲法十七条の制定、冠位十二階など数々の偉業を成し遂げたとされます。
冠位十二階と言うのは、朝廷に仕える役人は一族から出すいわば世襲制でしたが、有能な人材を登用できるように個人に身分を与えるものとなり、天皇の中央集権を強めました。
十七条憲法は、12段階で格付けした役人が守るべきルールを定めたような内容になります。
また、小野妹子を遣隋使(けんずいし)として派遣すると、大陸文化を導入しました。
特に仏教の興隆に尽力し、法隆寺四天王寺を建立したとされます。
これが一般的な定説です。
仏教を保護したため、平安時代には聖徳太子自身が信仰の対象となり、たくさんの太子像が作られました。



厩戸王(うまやとおう)は実在した人物です。
非常に有能な人物だったことも、間違いないでしょう。

しかし、そもそも聖徳太子はいたのか?
十七条憲法は、本当にあったのか?と、その存在が疑われているようです。
理由としては、原本や写本は現存していません。
聖徳太子がいたとする時代から、約100年後とにる、720年頃に書かれた日本書紀に、十七条憲法があったと記載されているだけから、後世の創作だとする説もあります。

冠位十二階(かんい-じゅうにかい)は、605年から648年まで、約40年間、実際に使われており、日本で初めて、身分が低くても、有能な人材を登用される道を開いた制度として、大きく評価できます。
当時は、厩戸皇子と蘇我馬子が、今で言う人事を担当したとされ、どちらかと言うと蘇我馬子の関与のほうが大きかったようです。
時代背景としては、蘇我馬子が物部氏の物部守屋を滅ぼして、権力を得ていました。
また、朝鮮の新羅に軍勢を送って、一時期は屈服もさせたようですので、相当な力を持っていたと考えられます。
このように、時代の権力者は蘇我馬子ですので、蘇我氏の政治に、聖徳太子が協力したとも言えるのではと存じます。
そうでなければ、有能な聖徳太子は、蘇我氏からは敵でもあり、味方してくれなければ、潰されていてもおかしくないでしょう。



しかし、憲法十七条の制定、冠位十二階などが、なぜ、聖徳太子の偉業として注目されたのか?
聖徳太子が亡くなってから約50年後、中大兄皇子の大化の改新(645年)から27年後の、672年に壬申の乱(じんしんのらん)が発生します。
この壬申の乱は、豪族らを巻き込んだ天皇の後継ぎ争いで、戦国時代の関ケ原の戦い以上となる、日本全国が戦乱となった大きな合戦で、古代日本最大の内乱と言えます。
からくも勝利した天武天皇は、失墜した権力を、豪族から取り戻そうと「天皇中心の中央集権律令国家づくり」を進めました。
この時に、かつて、憲法十七条の制定、冠位十二階など改革を成功させたのは、有能な皇族が、主導したからだと、その天皇家の優秀さ・正当性を、全国の豪族らに知らしめようと、偉業を成し遂げたのは、皇族の「聖徳太子」であると、話を作り上げた可能性があります。
実際に、有能な厩戸王が、改革に少なくとも関与していた可能性はあります。
しかし、主導したのは蘇我氏などの豪族ではなかったと言うことに、したかったようで、もっともっと優れた人物が皇族にはいたと、架空の「聖徳太子」が出来上がった可能性が、指摘されています。

まぁ、いつの時代でも、歴史は勝った者の都合が良いように、変えられてしまうのですが、聖徳太子の伝承においても、そのような「創作」があったのかも知れません。



古い話は特にですが、歴史上の話は、すべてにおいて諸説ありますので、ご確認申し上げます。
皆様からのご意見も、下記のコメント欄にてお待ち致しております。

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