朱舜水の解説 黄門様の師となった漢人儒学者

朱舜水

戦国時代から江戸時代初期までの我が国には、西洋だけでなく近隣のアジア諸国からも多くの外国人が来日していましたが、その中に“知”の力を以て日本に多大な影響を与えた人物がいます。
それが、本項で解説する儒学者・朱舜水(しゅ・しゅんすい)です。

朱舜水は、日本で関ヶ原の戦いが行われた1600年に明の紹興府余姚県(今の浙江省寧波市)に生まれました。
我が国で知られている舜水は号で、諱は之瑜(しゆ)、字は魯璵(ろよ)ないしは楚璵(そよ)と言いますが、本稿ではもっともなじみ深い舜水で統一します。

若き舜水は「文武全才第一」「開国来第一」と称えられた才覚と人格を誇る秀才でしたが、この頃の明朝は北方遊牧民の満州族による侵攻、そして政界の腐敗と言った内憂外患に悩まされており、こうした汚濁に満ちた朝廷による仕官を求められても応じなかったと言います。


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1644年に李自成の乱で漢人の帝国たる明が滅亡、満州族の清朝が勃興すると舜水は明朝最高の運動に協力し、安南(ベトナム)や日本を相手にした貿易に着手して軍資金を稼ぎました。
彼が支援した先は亡命政権である南明の指導者・魯王をはじめ、台湾を拠点として清に挑んだ英雄として名高い鄭成功(国姓爺)などの武将です。

その鄭成功と舜水は関係性が深く、援軍を求める使者である日本請援使として派遣されており、4度(1647年、1651年、1653年、1658年)に渡って来日し、1659年には失地回復を目論んで鄭成功と組んで南京攻略に挑戦しますが叶わず、明朝再興の夢をあきらめる事となってしまいます。そして、彼はその年の冬に日本の長崎へと亡命したのです。

舜水が頼ったのは、かねてから文通していた筑後・柳川藩(福岡県)の武士・儒者である安東省菴で、省菴は舜水のために自らの俸禄を割き、日本に住めるようにと長崎奉行所へ働きかけるなど親身なものでした。
以降この2人は舜水を師、省菴を弟子として長く師弟の交わりを結びます。

明の再興を夢見て活動と転戦を繰り返し、流浪の果てに舜水が長崎に落ちついたのは1660年~1661年のことで、彼はすでに還暦を過ぎていました。
この老儒学者が運命の転機を迎えたのは1665年、常陸水戸藩の招聘を受けた時です。
水戸藩から派遣された小宅処斎によって推挙された舜水は、藩主・徳川光圀の知遇を受けて江戸へと移住します。

舜水が説いた学問は朱子学と陽明学の中間に位置するとされるもので、実利・実行・実用・実行を重んじており、明末清初に現れた経世致用の学(※1)にも通じるものであり、後の水戸学にも影響を与えました。

舜水が伝えた知識・思想は『大日本史』編纂に貢献した水戸藩の安積澹泊を始め、山鹿素行や木下道順などの学者・武士との交流で日本に広まり、我が国の漢籍文化に大きく貢献します。
波乱に満ちた生涯を贈った朱舜水は1682年に世を去り、水戸藩主の墓地である瑞龍山に葬られました。


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東京大学農学部内に“朱舜水先生終焉之地”の碑が残され、神奈川大学には光圀らが彼の遺稿をまとめた『舜水先生文集』が所蔵されるなど、関東各地には今も舜水の足跡が残されています。
なお、余談ではありますが『最初に中華麺を食した日本人=水戸光圀』とする説にも舜水が深くかかわっており、彼がそのレシピを水戸藩に伝えたとも言われています。
東京や茨城など舜水ゆかりの地を訪れた際には、探してみるのも一興かもしれません。

(注釈※1)学問を現実の社会問題を改革するために用いるとする思想

参考サイト

松岡正剛の千夜千冊 
朱舜水 
水戸観光コンベンション協会 

(寄稿)太田

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水戸黄門(徳川光圀)とは わかりやすく2分で解説

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