藤原隆家をわかりやすく3分で解説【光る君へ】刀伊の入寇を撃退した平安時代の英雄

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藤原隆家

藤原隆家とは

藤原隆家(ふじわら の たかいえ)は、平安時代中期の公卿で979年に生まれた。
父は摂政関白(中関白)を務めた藤原道隆で4男となる。
母は女流歌人で知られる高階貴子 (高階成忠の娘)。
兄弟は多く、藤原道頼、藤原頼親、藤原伊周の3人が兄。
姉に藤原定子、藤原原子、藤原隆円、藤原頼子、その他に御匣殿、藤原周家、藤原周頼、藤原妍子の女房、藤原好親、平重義の妻がいる。

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、俳優の永山絢斗さんが藤原隆家の役を演じると発表されていたが、当麻取締法違反の容疑で逮捕されたことを受け代役が立てられる予定。
→ 竜星涼さんが藤原隆家の役に決まったと発表あり。


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989年、藤原隆家は11歳で元服して従五位下。
翌年の990年(正暦1年)、数え14歳の姉・藤原定子が一条天皇に入内。
同じ年、祖父・藤原兼家が死去すると、父・藤原道隆が関白となった。
藤原隆家は従三位・権中納言に任ぜられるなど、いわゆる中関白家の全盛期を築いた父・藤原道隆も、まもなく病に倒れた。
父は嫡男・藤原伊周を後任の関白にと願うも、一条天皇の許しを得られないまま995年に薨去。享年43。

代わりに父の弟・藤原道兼が関白に就任するがわずか7日後に没している。享年35。(七日関白)
京では赤斑瘡(あかもがさ)、今でいう「はしか」が猛威を振るう中、もうひとりの父の弟・藤原道長が藤原伊周を越えて右大臣に昇任内覧となり、藤原氏の長者となり権力を得た。
そのため、兄・藤原伊周は激しく対立し、藤原隆家の従者が藤原道長の従者と都の大路で乱闘騒ぎも起こしている。
また、藤原隆家の従者は、藤原道長の随身・秦久忠を殺害した。

996年、長徳の変(ちょうとくのへん)となり、中関白家の藤原伊周と藤原隆家、そして叔父・高階信順、高階道順らが藤原道長によって処罰された。
事の発端は、太政大臣・藤原為光の4女に通っていた花山法皇を、自分の思い人の藤原為光の3女が目当てと誤解した藤原伊周が、弟である藤原隆家と待ち伏せ。
従者が放った矢が花山法皇の袖を突き通したため問題化したと言う。

こうして権力闘争に敗れた兄・藤原伊周大宰府に左遷された。
藤原隆家は出雲権守へ左遷され出雲国に赴任となったが病気を理由に但馬国に留まったようだ。

そんな中、997年、姉・藤原定子が一条天皇の第1皇女となる脩子内親王(しゅうしないしんのう)を出産。
藤原定子は一条天皇の皇后(号は中宮) となった。


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998年頃、東三条院(藤原詮子)の病気が良くならないため御悩(ごのう)による大赦を受け、藤原道隆は帰京。
<注釈> 御悩とは、貴人が病気したことを敬っていう言葉でご病気と同じ意味。
兄・藤原伊周も京に戻ったが、中関白家が政治の中枢に復帰することは無かった。

999年、藤原定子は一条天皇の第一皇子・敦康親王を出産。
しかし、藤原道長の長女・藤原彰子に女御の宣旨が下っている。
<注釈> 女御(にょうご) とは、天皇の寝所に侍する女官のこと。

1002年、長男・藤原良頼(ふじわら の よしより)が誕生。(母は藤原宣斉の娘)
ちなみに藤原隆家の妻としては源重信の娘、藤原景斉の娘、源兼資の娘、藤原為光の娘、加賀守正光の娘が見受けられる。

1009年、藤原隆家は中納言に叙任。
1000年、姉の藤原定子、1010年には正二位・准大臣になっていた兄の藤原伊周が没した。
中宮彰子が敦康親王の養育を担っている。

藤原道長の権力集中に対して、世間では敦康親王が即位し藤原隆家が政治を補佐すると天下はよく治まるだろうとも言われた。
寛弘8年(1011年)危篤となった一条帝は譲位し、36歳の居貞親王(三条天皇)が即位。
敦康親王に期待がかかったが、三条天皇の後継者としては、藤原道長の圧力により藤原道長の外孫・敦成親王(後一条天皇)が立てられている。

藤原道長、藤原彰子の庇護を嫌がった脩子内親王は、両人の不興を承知のうえで叔父・藤原隆家の屋敷へ移っている。

1012年頃から藤原隆家は、傷による眼病の病となっており、唐人の名医がいると言う大宰府へ赴任を望むも藤原道長は反乱を恐れ妨害した。
ただし、1014年、大宰権帥となり正二位になっている。


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この大宰府へ赴任している期間中に、藤原隆家の名をあげる出来事が勃発した。

刀伊の入寇

刀伊の入寇 (といのにゅうこう) は、1019年に異民族(外国の海賊)が壱岐・対馬を襲い、更に九州へ侵攻した事件。
夷狄(いてき)が日本を攻撃したのは、鎌倉時代の蒙古来襲が良く知られるが、平安時代にも数十回程度襲撃を受けており、日本沿岸での海賊行為が頻発していた。

「刀伊の入寇」は、満州やウラジオストック近辺に勢力を張っていた女真(じょしん)を主力にした高麗人や契丹人だったようで、賊船約50隻(約3000人)で対馬・壱岐を攻撃し、博多にも押し寄せた。
この頃、博多には警固所(防御施設)があり刀伊勢が押し寄せたが、大宰権帥・藤原隆家が指揮を執り大蔵種材、大蔵種材、大蔵光弘、藤原明範、藤原助高、藤原友近、藤原致孝、平致行(平致光?)、平為賢(平為方・大掾為賢・伊佐為賢)・平為忠(平為宗)、財部弘近、財部弘延、紀重方、文屋恵光(文屋忠光)、多治久明、源知、僧常覚らが2週間かけて撃退。
博多上陸に失敗した刀伊勢は、肥前国松浦郡の源知(松浦党の祖)にも敗れ朝鮮半島に撤退した。

その後、高麗(朝鮮)より、高麗虜人送使の鄭子良が、拉致されていた日本人270人を九州に送り届けた。
藤原隆家は使者の労をねぎらい、黄金300両を贈ったと言う。
また、活躍した大蔵種材は壱岐守に昇進した。

同年になる1019年12月、藤原隆家は大宰府から帰京すると救国の英雄となっていた。(後任は藤原行成
刀伊を撃退した功績が認められていたが、藤原隆家は内裏出仕を控えていたため昇進には至っていない。
治安3年(1023年)次男・藤原経輔が右中弁に昇任する代わりに中納言を辞職。
その後、大蔵卿などを務めたが、長暦元年(1037年)、安楽寺(太宰府天満宮を管理していた寺院)とトラブルを起こした藤原実成に代わり再び大宰権帥に任ぜられ、長久3年(1042年)まで務めた。

1028年、藤原道長が死去。

長久5年(1044年)1月1日、藤原隆家は薨去。享年66。
最終官位は前中納言・正二位。


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そもそも藤原氏の始まりは、飛鳥時代の669年に天智天皇(中大兄皇子)が中臣鎌足(なかとみのかまたり)に対して「大織冠」という当時最上級の冠位と「藤原」の姓を与えた事から始まる。
子の藤原不比等は、天皇の臣下として最高位となる藤原朝臣(ふじわらのあそん)の姓を賜り、藤原氏は藤原四家となって繁栄した。
平安時代・平安京にいた貴族の約6割~7割は藤原氏を称していたと推測できる。

九州の戦国大名・菊池氏は藤原隆家の子孫を称している。

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