藤原詮子(東三条院)とは
藤原詮子 (ふじわら の せんし) は平安時代中期の女性で962年に生まれた。
2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では俳優(女優)の吉田羊さんが藤原詮子の役を演じられる。
父は摂政関白太政大臣になった藤原兼家で、その次女。
母は藤原時姫。
兄弟に長兄・藤原道隆、藤原超子、藤原道綱、藤原道兼、藤原道義、藤原道長、藤原綏子、藤原兼俊がいる。
同じ母(藤原時姫)が産んだ兄が藤原道隆・藤原道長だ。
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父・藤原兼家は冷泉上皇には長女・藤原超子を入内させていたが、978年、藤原詮子も入内すると円融天皇の女御となった。
<注釈> 入内(じゅだい)とは、中宮・皇后となるべき女性が正式に内裏(だいり)にはいること。
980年、父・藤原兼家の東三条邸にて、第一皇子・懐仁親王(のちの一条天皇)を出産。
なお、関白・藤原頼忠の娘・藤原遵子も円融天皇の女御となっていたため、詮子と遵子は中宮(皇后)の座を争った。
982年、円融天皇が中宮に選んだのは藤原遵子(四条宮)だった。
これに怒った父・藤原兼家は、藤原詮子と懐仁親王を東三条邸に籠らせ出仕をやめている。
また藤原遵子の弟・藤原公任は東三条院の前で 「こちらの女御はいつ皇后になられるのか」と嫌味を放ったとも言う。
984年、折れた円融天皇は息子の懐仁親王の立太子と引き換えに、冷泉天皇の皇子・師貞親王(花山天皇)に譲位し太上天皇となった。
986年、寛和の変にて花山天皇は懐仁親王(7歳)に譲位し、一条天皇が即位。
藤原詮子は女御から直接皇太后に昇る新例となった。
991年、円融法皇が崩御すると藤原詮子は居宅の東三条邸に移って出家すると院号宣下を受け、東三条院と称した。
これまで朝廷では、出家に伴い后妃の待遇(后宮職)は停止が普通だった。
しかし、皇太后・藤原詮子が落飾した際、皇太后宮職を停止されたが同時に特別な計らいで東三条院の院号が贈られ、日本ではじめて「女院」が出現したと言う事になる。(院号宣下)
藤原詮子以降の院号では、上東門院(藤原彰子)をはじめ、門院号を贈ることが江戸時代末期まで通例化された。 (明治維新に廃止)
藤原詮子(東三条院)は4歳年下の弟・藤原道長と仲が良く、兄・藤原道隆・藤原道兼が亡くなると藤原道長を執政にするべく一条天皇の寝床で説得し、甥・藤原伊周(藤原道隆の長男)を圧迫した。
これにより藤原道長が氏の長者となった。
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なお、一条天皇には既に皇后・藤原定子がいたにも関わらず、藤原道長の娘・藤原彰子を入内させようと図った。
その入内に付き添わせるため、事前に母親である源倫子(藤原道長の正妻)を従五位上から従三位に昇格させるなど支援している。
下記のような逸話(エピソード)もある。
999年、一条天皇の母である東三条院(藤原詮子)の愛猫が子猫・コマを生んだ。
そのため、天皇は子猫に従五位下を与え「馬ノ命婦」という五位の女官を、子猫の乳母に任じたと小右記に記載されている。
1001年、別当・藤原行成(ゆきなり)の邸で藤原詮子は崩御。
宇治陵に葬られた。
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