徳川家康の気になる妻(正室・側室)23名の一覧リスト【どうする家康】側室の特徴は?

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徳川家康の側室

徳川家康の妻は側室も含めると諸説ありますが少なくとも23人の女性となり、人数が多くてとても大変なのだが、できる限りわかのやすくまとめて明記・解説してみたい。

徳川家康の側室である女性は、1度、別の武将などに嫁いで子を儲けたあと死別・離縁などした後家(未亡人)も多く見られるのが特徴。
これは、子を産める女性を側室にしたと言う理由も指摘されている。
また、武田家滅亡後、徳川家康は武田旧臣をたくさん迎え入れた事でも知られるが、武田旧臣の娘も比較的多く側室となっていると言える。
晩年は子づくりと言うよりは、お気に入りの女性をそばに置いておきたかったと言う節もある。
その一方で、女性ながらも外交や政治にも意見を述べている側室がいたり、合戦で本陣にも同行している側室もいる。

築山殿(瀬名姫)

まず最初に松平元康(徳川家康)が今川義元の人質時代に駿河にて結婚したのが正室・瀬名(築山殿)になる。
築山御前(つきやまごぜん)の父は関口親永(関口氏純)と言う今川家の一族で、母は関口夫人(井伊直平の娘、今川義元の養女)。
1557年、今川家の人質として駿府にいた松平元信(徳川家康)と結婚。
永禄2年(1559年)に嫡男・松平信康を産んだ。
1560年には長女・亀姫を出産。
ただし、桶狭間の戦いのあと徳川家康は三河・岡崎城に入り駿府に戻っていないため別居状態となった。
1562年、徳川家康が織田信長と清洲同盟を結んで完全に今川家から離反。
怒った今川氏真は築山殿(瀬名姫)の父に切腹を命じ、父・母が自刃している。
築山殿とは岡崎・総持寺の築山に住んだことから。
詳しくは下記にてご確認願いたい。

瀬名とは~築山殿は悪女だったのか?築山御前が殺害された本当の理由とは【どうする家康】

朝日姫豊臣秀吉の妹)

築山殿(瀬名姫)と嫡男・松平信康(徳川信康)を1579年に失った徳川家康は、以後、側室は迎えるものの正室を取っていなかったが、1584年、小牧・長久手の戦いのあと豊臣秀吉と和睦したのち1586年に豊臣秀吉の妹・朝日姫を正室とした。
豊臣秀吉は結城秀康(徳川家康の次男)を人質にとったりしていたが、なかなか上洛して豊臣家に臣従姿勢を取らない徳川家康を味方にするべく画策。
豊臣秀吉は、副田吉成(副田甚兵衛吉成)と結婚していた朝日姫(44歳)を離縁させてまで、駿府城の徳川家康(45歳)の正室(継室)として酒井忠次を介して再嫁させた。
それでも、徳川家康は大坂城に赴かなかったので、豊臣秀吉は更に大政所(豊臣秀吉の母)まで岡崎城で朝日姫と会うと言う形で人質に出したので、ついに徳川家康は上洛して豊臣家へ臣従した形となった。
このようにとても可哀そうな思いをしたのが朝日姫(駿河御前)と言う事になる。


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1588年、大政所が病気になると、朝日姫は見舞いを許されて上洛。
その後、京の聚楽第で晩年を送り駿河に戻る事なく、小田原攻めが始まった天正18年(1590年)正月14日に死去した。享年47。
墓所は徳川家康が建てた京都・東福寺塔頭の南明院。

大政所【豊臣秀吉の母・なか】と朝日姫(旭姫)とは

西郡局(鵜殿長持の娘)

徳川家康が最初に側室にしたとされる女性が鵜殿長持の娘・西郡局。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では「お葉」と言う名前にて描かれる。
父・鵜殿長持は三河・上ノ郷城(西郡城)主で父の死後に兄・鵜殿長照が徳川家康の攻撃を受け討死。
鵜殿長照の子・鵜殿氏長鵜殿氏次は捕虜となって、駿河にて今川氏真の人質となっていた徳川家康の正室・瀬名姫(築山殿)、嫡男・松平信康、長女・亀姫らとの人質交換となった。
このとき、西郡局は兄弟である鵜殿長忠の養女となって、松平元康(徳川家康)の元に人質として送られ側室になったと考えられる。
1565年、徳川家康にとっての次女・督姫を産んだ。

なお西郡局には妹・お田鶴の方(椿姫)がおり、1568年、女武将として曳馬城を守備した際に徳川家康の攻撃を受けて討死している。

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お万 (永見吉英の娘)

お万(長勝院)は永見貞英の娘で、於古茶(おこちゃ)、小督局、松、菊子、於故満、於万の方、お万の方とも言う。
築山殿の奥女中を務めていたが、1573年頃に徳川家康の子を妊娠。
三河・岡崎城を出て、1574年2月8日、中村正吉(中村源左衛門)の屋敷にて於義伊(結城秀康)を産んだ。
当初、徳川家康は於義伊(結城秀康)に会わないまま2~3年が過ぎていることから、正室・築山殿(瀬名姫)の勘気に触れていたとも?考えられる。

なお、注意しなくてはならないのだが、徳川家康の別の側室にも「お万の方」と同じ名前の女性がいる。
徳川頼宣と徳川頼房を産んだお万は養珠院(ようじゅいん) で、上総・勝浦城主である正木頼忠の娘となる。
江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室にも、お万の方がいるため注意が必要。

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西郷局 (戸塚忠春の娘)

西郷局(さいごうのつぼね)は戸塚忠春の娘で1552年に生まれた。
母は西郷氏の娘。
西郷局は美人で皆に好かれていたと言い、出身地から近い掛川城近くでは、お愛の方として今でも親しまれている。
西郷氏は徳川家よりも名門と言う事もあり、お愛の方の評判も聞いたのか?、西郷局は母の実家筋の西郷氏一族と2度結婚して未亡人になっていたところ、徳川家康から側室にと望まれ、西郷清員の養女となって浜松城に入った。
1579年に徳川秀忠(江戸幕府・第2代将軍)を浜松にて出産。
1580年には松平忠吉(徳川家康の4男、尾張・清洲藩主)を産んでいる。
実質的には正室に近い立場とも言えるが小田原攻めの前年1589年に駿府城にて死去。(28歳)
静岡の龍泉寺に葬られた。
かつて築山殿に仕えていた侍女らが暗殺・毒殺したと言う説もある。
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では女優(俳優)の広瀬アリスさんが西郷局を演じられる予定。

西郷局(於愛の方)をわかりやすく解説~苦悩の日々を送った徳川家康の側室

於竹の方 (市川昌永の娘)

於竹(良雲院)は市川昌永の娘とされ生年は不詳。
父・市川昌永(市川十郎左衛門)は穴山信君(穴山梅雪)の家来だったようで、於竹の父に関しては穴山信君(穴山梅雪)や秋山虎康、武田信玄だったとする説もある。

天正8年(1580年)に、お竹の方は振姫(徳川家康の3娘)を浜松城で出産したともされる。
ただし、振姫の母に関しては、別の側室・下山殿(おつまの方)が産んだともあるため、なんとも言えない。
また、同じ頃に武田家臣の娘である「阿茶局」(あちゃのつぼね)も側室となっている。


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天承10年(1582年)以後、お竹は側室と言うよりは徳川家康の奥勤となったともされるが不明点が多い女性だ。

寛永14年(1637年)、於竹は死去。
60歳で生涯を終えた。
戒名は良雲院殿天譽壽清大姉。
墓所は東京都台東区蔵前の西福寺。
長野県長野市の善光寺には於竹の供養塔がある。

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下山殿 (秋山虎康の娘)

下山殿(しもやまどの) は武田家の重臣・秋山虎康の娘で1564年頃に生まれたとされる。
名は於都摩(おつま)であり、おつまの方、都摩、津摩、秋山夫人とも言う。
諸説あるが、最初は穴山信君の弟・穴山信邦に嫁いでいたともされ、年齢的には可能性はある。

1582年、甲斐・下山城主の穴山信君(穴山梅雪)が武田勝頼を裏切り徳川家康に寝返った際に、穴山梅雪は2人の美女を献じた。
そのうちのひとりが秋山虎康の娘・於都摩であり、穴山梅雪の養女となって徳川家康の側室になったので下山殿と呼ばれたと言う。
おつまの方は、天正11年(1583年)に万千代(武田信吉)を生んだ。
1590年、徳川家康が江戸城に入ると、武田信吉は7歳ながらも下総・小金城にて3万石となっており、兄・秋山昌秀らも移住した。
下山殿(秋山虎康の娘)は天正19年(1591年)に死去。享年28とも。
戒名は長慶院殿天誉寿清大姉。

なお、天正8年(1580年)に生まれた振姫(徳川家康の3娘)も下山殿が産んだとする説があるが、それだと穴山梅雪が寝返る前に側室になっていたと言う事になる。
この振姫(ふりひめ)の母は、前述したとおり武田家の家臣・市川昌永の娘であるお竹(於竹の方)ともされ、よくわかっていない。

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茶阿局 (河村氏の娘)

茶阿局(ちゃあのつぼね) は遠江・金谷の河村氏の娘である「お久」と伝わり、1550年頃に生まれたようだ。
はじめお久は金谷郷の鋳物師のもとに後妻として嫁いだが、お久は美人だったようで代官が夫を闇討ちしたと言う。
そのため、お久は3歳になる於八を連れて逃げる途中とも、鷹狩に来ていた徳川家康の一行を見つけると代官の所業を直訴したともされる。
夫の仇は長谷川八郎右衛門と言う武将が仇討し、お久は浜松城の奥にて仕え始めたようだ。
松平康親が諏訪原城にいた頃(1575年~1582年)の話ともされる。
やがて働きが認められ奥向きのことを任され、更には側室・茶阿局を名乗り、文禄元年(1592年)に松平忠輝(徳川家康の6男)、1594年には松平松千代を生んだ。(1599年、松平松千代は6歳で早世)
なお、松平忠輝は結城秀康と同じように、徳川家康から生涯を通じて嫌われたとされる。
1606年、松平忠輝は伊達政宗の長女・五郎八姫を正室にした。
しかし、徳川家康の没後に徳川秀忠は改易(所領没収)としている。
元和7年(1621年)、茶阿局は死去。72歳。

この茶阿局(朝覚院)だが、別の側室で阿茶局(雲光院)と言い名前が似ている女性もいるので混同しないように注意が必要。

松平忠輝とは~家康に忌み嫌われた徳川家の異端児~

お亀の方 (志水宗清の娘)

お亀は、京都・石清水八幡宮の祠官・志水清康の娘とされ1573年に生まれた。
母は東竹甲清の娘・龍雲院。
はじめ於亀の方は竹腰正時(竹腰定右衛門正時)に嫁いで竹腰正信を生んでいるが夫と死別。
その後、播磨・龍野城主である石川光元の側室として石川光忠を生んだが、正室・浅野氏の娘の嫉妬があり離縁となって実家に帰された。
そして、徳川家の奥勤めに入ったようで、1594年、22歳の時に見初められて側室となった。
文禄4年(1595年)に伏見にて仙千代(徳川家康の8男)、慶長5年(1600年)には五郎太(徳川義直)を生んでいる。
<注釈> 松平仙千代は平岩親吉の嗣子となったが6歳で夭折。


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徳川義直(徳川家康の9男)は甲斐・甲府城25万石を経て、松平忠吉の遺領を継いで尾張・清洲藩主になった。
その後名古屋城が完成すると尾張藩主となり、平岩親吉は附家老として尾張・犬山城10万石となっている。
於亀が産んでいた竹腰正信も、成瀬正成らと共に徳川義直の附家老を務め、美濃・今尾にて3万石を与えられている。

徳川家康の死後、お亀の方は出家して相応院と称し、徳川義直のいる名古屋城にて余生を送った。
寛永19年(1642年)、名古屋にて死去。

徳川義直とは 初代の尾張藩主・名古屋城主

於久 (間宮康俊の娘)

お久の方は間宮康俊の娘で生年は不詳。
父・間宮康俊(間宮豊前守康俊)は小田原北条氏の玉縄衆で武蔵・笹下城主であった。
しかし、1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際に、徳川家康も攻撃参加した山中城の戦いで間宮康俊は討死。享年73。
間宮一族も多くが討死したため家督は次男・間宮康信の子である間宮直元が継いで、徳川家の旗本として横浜の本牧代官になった。
そのため、最初、於久は侍女として奉公したと考えられるが、1595年に伏見城にて徳川家康の4娘・松姫を産んだとされる。
ただし、松姫の母はお梶の方(英勝院)とする説もあるようだ。
松姫は慶長3年(1598年)、わずか4歳で早世した。

後年、お久の方は亡父の菩提を弔う為、伊豆・山中城跡に宗閑寺を建立している。
於久の方は1617年に駿府城にて死去。
戒名は普照院光誉月桂清薫大禅定尼。
墓所は静岡県静岡市の華陽院

間宮氏の子孫としては、幕末に間宮海峡を発見した間宮林蔵が有名。

間宮善十郎 間宮康俊 北条家臣と間宮林蔵・杉田玄白の意外な関係

於万の方 (正木頼忠の娘)

於万の方(おまんのかた)は上総・勝浦城主である正木頼忠の娘ともされ、1577年に生まれた。
勝浦・正木氏が北条氏政に臣従すると父・正木頼忠は小田原城へ人質として出されていた際に、北条氏隆の娘・智光院と結婚してお万の方が生まれたようだ。
勝浦・正木氏の家督を継いだ正木頼忠が房総に戻っても妻子は小田原にいたようで、1578年、里美義頼に味方して大多喜城の正木憲時を滅ぼした。
母・北条氏隆の娘(智光院)は、そのまま小田原に残っていたが、正木頼忠が里見義堯の娘を継室に迎えたため離縁したような形となったようだ。
そのため、母が伊豆・河津城主である蔭山氏広の正室となると、連れ子となった於万も蔭山氏広の養女となった。


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1590年、豊臣秀吉の小田原攻めとなり、養父・蔭山氏広は山中城の戦いに敗れると伊豆・修善寺にて謹慎したとされる。
そのため、お万の方は駿河国大平村(沼津市大平)の郷士・星谷縫殿右衛門の世話を受けたとされるが、文禄2年(1593年)、韮山代官の江川英長(江川太郎左衛門)の養女として三島に逗留した徳川家康に目通りし側室となった。

慶長7年(1602年)、伏見城にて徳川頼宣(徳川家康の10男)を出産、兄・三浦為春が傅役を命じられている。
1603年には徳川頼房(徳川家康の11男)を産んだ。

房総・勝浦付近には清澄寺があるなど鎌倉時代中期の名僧・日蓮の出身地であり、養珠院・お万の方も厚く信仰した。
1609年に日蓮宗の本山・本遠寺(ほんのんじ)を創建。

承応2年(1653年)、お万の方(蔭山殿・養珠院)は死去。
墓所は山梨県身延町日蓮宗の本山・本遠寺と静岡県三島市の妙法華寺。
戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。

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於梶の方 (太田康資の娘)

於梶の方 (おかじのかた)は、戦国時代の女性で太田康資の娘として1578年に生まれた。
父・遠山綱景は小田原城の北条氏重臣で江戸衆筆頭であり、母は遠山綱景の娘と考えられる。
この母・遠山綱景の娘(法性院)は一旦、北条氏康の養女になって太田康資に嫁ぎお梶を産んだようだ。

1590年、徳川家康は江戸城に入ると北条家の旧臣らも徳川家に仕官しており、兄とされる太田重正が武蔵国豊島郡蓮沼において500石になったころ、13歳くらいの段階で於梶の方は江戸城にて侍女になったものと推測される。
1600年、関ヶ原の戦いにも阿茶の局と共に徳川家康の本陣に詰めたとされる。
石田三成に勝利した徳川家康はお梶の名を「お勝」と改名させたともあり、お勝の方とも呼ばれている。

その後、相模・玉縄城の松平正綱の側室になってお八の方と呼ばれたようだ。
しかし、遠山利景または天海からの推挙もあり、江戸城に呼び戻されると徳川家康の側室となった。
1607年1月、30歳のときに市姫(徳川家康の5女)を出産。
そうそうに市姫は仙台藩主・伊達政宗の嫡男・虎菊丸(伊達忠宗)と婚約したが4歳で夭折している。
そのため、徳川家康は於万の方が産んでいた鶴千代(徳川頼房)、結城秀康の次男・松平虎松(松平忠昌)、池田輝政の娘・振姫らの養母に於梶の方を指名している。
また、於梶の方に侍女として仕えていた於六の方が徳川家康の側室として召し出された。

1614年、1615年の大坂の陣にも徳川家康に帯同。
1614年の大坂冬の陣には於六の方も参じていた。
そして、お梶の方は駿府城の奥向きを任されたという。

徳川家康の死後は出家して英勝院と称すると、江戸・田安比丘尼屋敷にて暮した。
晩年は、相模国鎌倉扇谷(神奈川県鎌倉市)に徳川家光から化粧領を賜り、菩提寺・英勝寺を建立している。
於梶の方(お勝の方)は、寛永19年(1642年)に死去。65歳。
法号は英勝院殿長誉清春大禅定尼。

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阿茶の局 (飯田直政の娘)

阿茶の局 (あちゃのつぼね)は、飯田直政の娘で1555年に生まれた。
名は須和とも言う。
父の飯田直政は武田信玄の家臣で、一条信龍の家来・神尾忠重にはじめ嫁ぎ、神尾守世・神尾守繁を産んでいる。
しかし、天正5年(1577年)7月に夫・神尾忠重が亡くなると、1579年、徳川家康に見出された。

知識があり情勢分析にも有能な女性で、戦場でも徳川家康が近くに置いてアドバイスを求めた側室が阿茶局であったとされる。

小牧・長久手の戦いの陣中にて懐妊したが流産しており、徳川家康との間に子はいない。
天正17年(1589年)、西郷局が亡くなると、替わりに徳川秀忠と松平忠吉を養育し、長男・神尾守世は徳川秀忠の近侍となった。

1614年、大坂冬の陣の際に和睦の使者として、豊臣秀頼淀殿常高院(お初)と大蔵卿局を派遣すると、阿茶の局が徳川家を代表して交渉にあたり和議をまとめた。
阿茶の局は寛永14年(1637年)に死去。
戒名は雲光院殿従一位尼公正誉周栄大姉。
この戒名からも、徳川家康の妻の中でも最も重んじられた女性だったことがわかる。

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阿牟須の方 (三井氏の娘)

阿牟須の方(おむすのかた)は、武田家臣である三井氏の娘とされるが生年は不明。
はじめ山県昌景の同心・三井弥一郎(1559年生まれ)の妻となった。
もしかしたら、牟須は同じ一族に嫁いだ可能性も考えられる。

武田滅亡後は天正壬午の乱の時に三井弥一郎は織田勢の河尻秀隆を甲府にて打ち取ったと言う。
その後、三井弥一郎は徳川勢の井伊直政の家臣となった。
1584年、夫の三井弥一郎は小牧・長久手の戦いでて池田恒興森長可らと戦い討死。

未亡人となった牟須(むす)は幼い三井吉正を連れて、天正15年(1587年)に奥へ奉公にあがった。
20歳前後と若かったようで、徳川家康の寵愛を受け側室になったようだ。
なお、お牟須の方はたくさんいる側室の中でも特別にお気に入りの「三人衆」になっていたともされる。

1592年、朝鮮攻めの際に阿牟須の方は、肥前・名護屋城の徳川陣に同行しており、6月18日に名護屋にて出産したが難産のため母子ともにした。
戒名は正栄院殿感譽昌光大姉。

連れ子の三井吉正は、元服すると遠江国城東郡、武蔵国都筑郡の内にて1500石(徳川家旗本)となっている。
三井吉正の正室は大久保長安の娘。

於仙の方 (宮崎泰景の娘)

於仙の方(おせんのかた)は宮崎泰景の娘で生年は不詳。
父・宮崎泰景(宮崎筑前守泰景)は信濃の武将で武田勝頼に従っていた模様。
他の武田旧臣からの側室と同じくらいの時期に徳川家康の側室になったと考えられるが、子には恵まれなかった。
元和5年(1619年)駿府にて死去。
戒名は泰栄院宗譽昌清大姉。


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藤枝市の浄念寺に埋葬されたが、のち信濃・駒場の浄久寺に改葬。
ただし、現在の浄久寺にて泰栄院の墓は不明となっている。

於梅の方 (青木一矩の娘)

於梅の方 (おうめのかた)は青木一矩の娘として1586年に生まれた。
父・青木一矩(あおき かずのり)の母は、豊臣秀吉の母・大政所の妹とされ、豊臣一門としてはじめ羽柴秀長に仕えていた。
紀伊・入山城1万石から越前・大野城8万石となると、越前・府中城10万石、越前・北ノ庄城20万石とどんどん出世。
しかし、1600年、関ヶ原の戦いの際に青木一矩は病没した。
そんな没落してしまった青木一矩の娘・お梅は、叔母が徳川家康のおばあちゃん華陽院(於富の方)と親類だったので、奥勤めしたとあります。

於富の方は水野忠政の妻となって、於大の方(徳川家康の母)を産みました。
また、於富の方は出家して源応尼(げんおうに)と称すると、今川義元の人質となってい竹千代(徳川家康)を、駿府にて約8年間養育もしています。
於富の方は一説によると青木弌宗の娘(青木加賀守弌宗の娘)とあるため、於梅の方はこの縁で徳川家康の側室となりました。
於梅の方15歳、徳川家康59歳のときです。
子はおらず於梅の方は、のち下野・小山城に入った本多正純の継室となりました。

1622年、宇都宮城の釣天井事件にて本多正純が失脚し、出羽・横手城近くにて幽閉されると於梅の方は駿河にて出家し梅香禅尼となました。
京都に住んだあと1627年から伊勢国山田の梅香寺にて余生を送り、正保4年(1647年)に死去。享年62。
戒名は蓮華院殿窓譽梅香禅尼。

青木一矩と青木俊矩とは~秀頼の乳母となった宮内卿局も
紀伊・入山城 青木一矩が出世した南紀の城跡

於六の方 (黒田直陣の娘)

於六の方 (おろくのかた) は黒田直陣の娘で1597年に生まれた。
父・黒田直陣は今川家の旧臣、北条家の旧臣ともされるが太田重正(太田康資の子)と懇意だったため、娘の於六の方が、お梶の方の部屋子(侍女)になったようだ。
<注釈> 於梶の方は太田康資の娘ともされる。
そして侍女になっていた、お六の方も徳川家康の側室になった。
徳川家康68歳、お六の方13歳のときとされる。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣にも於夏の方と共に供奉した。
お梶の方(お勝の方)も関ヶ原、大坂の陣の両方にも参じている。

この頃、徳川家康が好んだものとして「佐渡殿、雁殿、お六殿」と言う言葉がある。
佐渡殿は本多正信のこと、雁殿は鷹狩、お六殿は於六の方の事なので、徳川家康は娘のようにかわいがっていたのかも知れない。


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1616年、徳川家康が死去すると出家して養儼院(ようげんいん) と称した。
田安比丘尼屋敷に住まいを与えられたが、まだ若かったことからのち喜連川義親の継室として嫁いでいる。
寛永2年(1625年)3月28日、徳川家康の法事で日光東照宮を参詣した際に於六の方は急死。享年29。
法名は養儼院鑑譽心光大姉。

於夏の方 (長谷川藤直の娘)

於夏の方(お夏の方)は長谷川藤直の娘として1581年に生まれた。
父・長谷川藤直は伊勢国司・北畠具教の家臣であったが、長野具藤(北畠具教の次男)の養子となっていたようだ。
<注釈> 1576年、織田信長による三瀬の変で、長野具藤は田丸城にて殺害されていた。享年25。北畠具教も伊勢・三瀬館にて殺害されている。
於夏の方が誕生した1581年に父・長谷川藤直も死去(享年60)しており、1567年生まれの兄・長谷川藤広が養育したものと推測される。

兄・長谷川藤広は徳川家康に仕えるようになり、慶長2年(1597年)、17歳になった於夏の方は二条城の奥勤め(侍女)となった。
そして、徳川家康(56歳)の側室になったようだ。
兄・長谷川藤広は1606年から長崎奉行となってキリスト教の取り締まりなどに尽力した。
甥の長谷川藤正も長崎奉行を歴任している。

慶長19年(1614年)、大坂冬の陣には於六の方、お梶の方(お勝の方)らと徳川家康の本陣に詰めている。
1615年、大坂夏の陣では伏見城にて留守居を務めた。

1616年、徳川家康が亡くなると出家して清雲院と号し、駿府城から江戸城・三の丸に移って、武蔵国中野に化粧領500石を与えられている。
その後、小石川御門内邸に移ったが4代将軍・徳川家綱の時代まで長生きしており、神君・家康公の側室の生き残りとして幕府から大事にされていたようだ。

万治3年(1660年)於夏の方は死去。享年80。
戒名は清雲院心譽光質大禅定尼。
墓所は東京都小石川の伝通院

なお、徳川家光の側室にもお夏の方(於奈津)がいるので混同しないよう注意が必要。

於大の墓・千姫の墓・お夏の方の墓・鷹司孝子の墓などがあるスゴイ傳通院(小石川伝通院)

山田富子 (山田氏の娘)

於富の名は山田富子と言うため山田氏の娘と言う事になっているが、その山田氏に関しては誰なのか?伝わっていない。
事実上の出自不明と言って良いだろう。
徳川家康との間に子もできなかったようで、山田富子(お富の方)は1628年8月7日に死去した。
墓所は東京都大田区の池上本門寺。
法号は信寿院日富神尼。
<注釈> この法号は日蓮宗(池上本門寺)としても特殊な位号ように感じるので、あとから墓所が移転となったのかも?
このように法号が「信寿院」(しんじゅいん)と言う事以外、謎の側室と言える。


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なお、徳川家に関連する山田氏と言うと、今川義元の家臣で一時、岡崎城代も務めた三河・川手城主の山田景隆がいる。
桶狭間の戦いにて今川義元が討たれると、山田景隆は三河・岡崎城を徳川家康に明け渡したことでも知られる。
武田勢の山県昌景に降伏し、のち井伊直政の軍勢に加えられているが、この山田景隆との関連も不明。
ただし、山田景隆の子・山田景隆は、徳川家康の命で井伊直政の姉・高瀬姫(井伊直親の娘)を正室にした。
そのため、井伊家では一門筆頭の家老と異例の出世をしているのが気になるところだ。
他には松平忠輝の重臣で信濃・松代城1万石の山田重辰などもいるので、どの山田氏なのか不明なのだ。

三条氏の娘

三条氏の娘は徳川家康の側室で三条家の娘とされるが、説没年や経緯などは不明。
1589年(天正17年)頃に小笠原権之丞を産んだと言う。

江戸初期の書物・御降誕考によると、徳川家康の正室となって浜松城に入った朝日姫の侍女に「大さい」と「小さい」の2人がいて「大さい」に徳川家康が手を出したとされる。
このことが豊臣秀吉に知れると確かにマズイ。
そのため、徳川家康は自分の子とは認めずて懐妊した「大さい」は小笠原越中守正吉(小笠原広重の次男) の妻にしたと言う。
この場合、その大きいと言う侍女が三条氏の娘だったと推測できるが、この話の信憑性はなんとも言えない。
小笠原権之丞の母「大さい」の位牌が西尾市東幡豆町の妙善寺にあるらしい。

小笠原権之丞は幡豆・小笠原氏6000石を継いでいたがキリスト教を辞められず改易。
大坂の陣では豊臣秀頼に味方して、大坂夏の陣、天王寺の戦いにて明石全登の軍勢に加わり討死したとされる。

松平重吉の娘

松平重吉の娘も徳川家康の子を産んだ(側室)だったともされる。

松平重吉の娘(松平次郎右衛門重吉の娘)は、はじめ石川康正の妻になり、石川数正を産んだと考えられる。
その後、松平康親の継室となって1568年に松平康重を産んだ。
この松平康重(まつだいら やすしげ)は徳川家康のご落胤ともされている訳だ。

特に松平重吉の娘が産んでいた石川数正は、1569年、叔父・石川家成が掛川城に移ると徳川家の西三河におけるトップリーダーとなって三河・岡崎城の城主に抜擢されたことから、松平重吉の娘と徳川家康の縁が深かったのではとも考えられている。

松平重吉の娘が再嫁した松平康親も、もとは三河・松井氏で「松井姓」であったが松平重吉の娘を娶ってから松平姓を許されており、松井・松平家が成立している。
徳川家康が自分の子に松平氏を名乗らせてあげたかったのようにも受け取れる。
松平康親は三枚橋城(沼津城)主となり、成長した松平康重は武蔵・騎西城2万石の徳川譜代大名となった。
その後は常陸・笠間城にて3万石などとなっている。

子孫は家康の「康」を通字として用いており、武蔵・川越藩8万4000石にて明治維新を迎えた。

石川数正~徳川家康の家老職を捨て、豊臣秀吉に寝返った智将

見附宿旅籠の娘

1556年に生まれた鈴木一蔵(すずき いちぞう) の母は遠江国磐田郡見附宿の旅籠の娘とされるが、父親は松平元康(徳川家康)でありご落胤(隠し子)とする説もある。
徳川家康の長男は、瀬名(築山殿)が産んだ松平信康(徳川元康)であるが、1559年生まれの為、鈴木一蔵(鈴木重康)が徳川家康の子だとすると庶長子と言う事になる。
ただし、瀬名(築山殿)と結婚したのが今川家の人質だった1557年正月と考えられるため、1555年~1556年に磐田の見附宿(みつけじゅく)を訪れて徳川家康(14歳~15歳)が宿泊したのか?がカギとなるだろう。
また、瀬名との結婚ほ控えていたため、鈴木一蔵を実子として認めなかったとは充分に考えられる。
なお、鈴木一蔵は三河・鈴木家から依頼を受けた雑賀孫市に育てられ、雑賀党の棟梁に成ったともされる。
江戸時代に入ると水戸・徳川家の砲術指南役兼藩重役となり、鈴木家はのち雑賀家に名を変えて、水戸藩の重臣として幕末まで続いた。

葉佐田則勝の娘

徳川家で異例の出世を果たした土井利勝(どい としかつ)も徳川家康のご落胤と当時から噂されていて、その話を土井利勝が嫌っていたと言う話がある。
土井利勝は1573年に刈谷城主・水野信元(徳川家康の母の兄)の庶子として生まれ、土井利昌の養子となり土井家を継いだ。
一説によると葉佐田則勝の娘(玉等院)が産んだともあるため、土井利勝の母は葉佐田則勝の娘としてご紹介させて頂く。


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江戸幕府が成立すると土井利勝は下総・小見川藩主1万石となった。
その後、とんとん拍子で出世していき、徳川秀忠政権において下総・古河城16万2000石で老中となり絶大な権勢を誇り最後は酒井忠勝と共に大老となっている。
さて、母とされる葉佐田則勝の娘(長女)だが慶長3年(1598)7月11日に死去したとされる。
葉佐田則勝なる武将に関しては調べても良く分からない。
ただし、土井家に伝わる短刀・相州広政は、土井利勝が生まれた際に徳川家康が下賜した朱印状付きの短刀とされる。

土井利勝とは 大老にまで出世した徳川家康の隠し子?

以上、側室とされる女性と隠し子(ご落胤)の可能性が高い武将の母に関して触れてみた。
歴史には諸説あるため、上記が正しいとは言い切れない事をご理解願いたい。

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