三河・東条城の解説【どうする家康】東条・吉良氏となった吉良義昭は織田信長に味方

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三河・東条城

三河・東条城

三河・東条城 (とうじょう-じょう) は、愛知県西尾市吉良町駮馬城山にある平山城で標高28m、比高25m。

最初の築城は不明だが、吉良荘は鎌倉時代の1221年、承久の乱にて武功があり三河国守護となった足利義氏の所領となっている。
この時、足利義氏は当時の矢作川で分けて、西側を吉良荘西条として西尾城の位置に三河・西条城を築いた。
そして、東側の吉良荘東条には三河・東条城を構え、3男(4男とも?)・吉良義継(きら よしつぐ)が入ったともされる。
見聞諸家紋では「義氏之次男義継号東条、三男長氏号西条」とあり、三河・吉良氏は西条・東条両家に分かれた。

なお、東条吉良氏は、のちに奥州・四本松にて奥州吉良氏、さらに世田谷城の武蔵吉良氏も輩出したとされる。


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応仁の乱の際には、吉良・東条家と、吉良・西条家が山名方と細川方に別れ一族で争っている。

1535年、10歳の松平広忠(徳川家康の父)が三河・岡崎を追放された際には、三河・東条城の吉良持広が保護して伊勢に逃がした。
そして、1536年、吉良持広の家老・富永忠安が松平広忠を三河・室城(牟呂城)に招き入れ、松平広忠の三河・岡崎城への復帰を大きく助けた。
1539年、吉良持広が死去すると、西条吉良氏・吉良義堯の次男で養嗣子の吉良義安が継承している。

吉良義昭

吉良義昭(きら よしあき) は戦国時代の武将で吉良義堯の3男として生まれた。

上記の通り1539年、三河・西条城(西尾城)主である兄・吉良義郷(吉良義堯の嫡男)の弟・吉良義安(吉良義昭の兄)が、三河・東条城主(東条吉良氏)である吉良持広の養子になった。
しかし、織田信秀との戦いで三河・西条城(西尾城)主の兄・吉良義郷が討死したため、弟・吉良義昭が三河・西条城を継いだようだ。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優の矢島健一さんが吉良義昭の役として演じられる。

1549年、駿河の今川義元が尾張の織田信広を攻撃した際に、弟・吉良義安は織田家に協力した。
しかし、今川勢に捕縛され駿府へ送られ、今川義元は西条吉良氏になっていた吉良義昭に東条吉良氏も継がせ、吉良氏を統一し今川家の配下に組み込んだ。
なお、この時、吉良義昭の祖父とされる後藤平太夫が今川勢によって処刑されたと伝わる。


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1560年、織田信長との桶狭間の戦いで今川義元が討死すると、三河・東条城の吉良義昭は今川家の後ろ盾を失い、1561年には岡崎にいるので没落したようだ。
代わりに、兄・吉良義安は松平元康(徳川家康)と駿府で親しくなっていたようで、家名を存続することになった。

1561年、三河・東条城のすぐ西側にて藤波畷の戦いで、吉良勢の牟呂城(三河・室城)主・富永忠元が討死。
吉良義昭は降伏し三河・岡山城で一時過ごした?あと、岡崎で謹慎になった模様。
東条城には松平家忠(深溝城松平伊忠の子)が入っている。

徳川家康・三河統一の戦い「善明堤の戦い」松平好景の討死【どうする家康】「藤波畷の戦い」

1562年、吉良義昭は許されて東条に戻っていたとする説もあるが、いずれにせよ三河の一向宗門徒と結んで東条城に立て籠もり徳川家康に対抗した。(三河一向一揆
最初は一気に加勢していた久留正勝(久留善四郎正勝)なる武将が徳川家康に寝返り、近くにある三河・岡山城に籠城して東条城攻めの一番槍りの武功があったとも言う。
このように敗れた吉良義昭は三河から逃亡し近江に逃れたあと、摂津国芥川で死去したとされる。

吉良義昭

この結果、兄・吉良義安が東条と西条の吉良氏を統一し、徳川家の傘下として領主になることが認められた。
この三河・吉良氏は徳川家に代々仕えたが、のち江戸時代に赤穂浪士の事件となった吉良義央(吉良上野介)のときに改易となっている。

なお、兄・吉良義安は東条と西条の吉良氏を統一したもの軍勢は持てなかったようで、東条城の支配は青野・松平氏になっていたようだ。

松平家忠(松平忠茂の子)が三河・東条城に入ったようで、徳川家康に従い姉川の戦い長篠の戦いなどにも参じている。
しかし、体が弱かったようで1581年に松平家忠は死去。
無嗣で病没したため、徳川家康の4男・松平忠吉が養子になる形で東条松平家を継いだ。(1万石)
ただし2歳だったこともあり三河・東条城には入っておらず、1582年、武田滅亡後に松平忠吉は駿河・沼津城主(4万石)となったので東条城は廃城になった。
ちなみに、松平忠吉は、関ヶ原の戦いのあと清州城主となっている。

三河・東条城跡は古城公園として整備されている。
1992年に模擬櫓門と模擬櫓が復元されたが、老朽化の為、2021年に取り壊された。
ずっと行きたかったのだが訪問が2022年となってしまい、櫓などの撮影は間に合わなかったのが残念。
そのため、現在はあまり整備も行き届いていないようだ。


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春には桜が咲き、花見でも有名なようだ。

交通アクセス

三河・東条城への交通アクセス・行き方であるが上横須賀駅から2.3km、徒歩約35分といったところ。

三河・東条城は幹線道路から入る所がわかりにくいが、民家の庭先のようなところが駐車場として用意されているのでありがたい。
ただし、駐車場から城跡までどのように行って良いのかわからず、辺りも暗くなってきたので遠景撮影に留めた。
駐車場の入口は、当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」にてポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

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