郡上八幡城~奥美濃~

郡上八幡城~奥美濃~

郡上八幡城~奥美濃、日本最古の木造再建城~

【郡上八幡城】
郡上八幡城(ぐじょうはちまんじょう)。
【所在地】
岐阜県郡上市八幡町柳町 一の平659
【別名】
積翠城、郡城、虞城
【形態】
平山城
【天守構造】
なし
独立式層塔型4層5階(昭和8年、1933年木造模擬)
【築城主
遠藤盛数
【築城年】
1559年(永禄2年)
【主な改修者】
遠藤常友
【主な城主】
遠藤氏、稲葉氏、井上氏、青山氏
【廃城年】
1869年
遺構 石垣
指定文化財 岐阜県史跡
郡上市有形文化財(模擬天守)
再建造物 模擬天守
  建面積118.98㎡(35.99坪)
  延面積309.11㎡(93.5坪)
  高さ17.18m
隅櫓
  建面積22.09㎡(6.68坪)
  延面積22.09㎡(6.68坪)
  高さ3.72m
正門・塀

2016年(平成28年)城御朱印発行開始になりました。
2017年(平成29年)4月6日、
続日本100名城(141番)に選定されました。
スタンプは城内の一階で押すことができます。

【施設】
【開場時間】   
9時-17時
6月-8月 8時-17時
11月-2月 9時-16時30分
【休館日】
12月20日-1月10日
【入場料】
大人(高校生以上):310円
小人(小・中学生):150円
<障がい者の減免について>
障がい者手帳 3級以上の方は
入場料が無料となります。
受付にて手帳をご提示ください。
※城内は史跡の為、バリアフリーが整っておりません。
<注意事項>
郡上八幡城敷地内及び施設内での
歩きながらのスマートフォンの使用などは
危険ですので控えてくださいとのことです。
また、危険な場所への立ち入りは
大変危険ですのでお止めください。
トラブルの発生を防ぐため、
スタッフが声掛けする場合があるそうです。

【交通アクセス】
【車】
<東海北陸自動車道>
郡上八幡インターチェンジから約7分

●郡上八幡城駐車場(山頂:普通車のみ) 約20台(無料)
●城山公園駐車場(中腹:普通車のみ) 約13台(無料)
※城山公園から山頂の駐車場までは道幅が狭く、
歩行者と共用となっているので
事故等のないよう十分にご注意ください。
車は一方通行です。

※中型以上の車両は通行できません。
【バス】
<岐阜バス高速八幡線>
郡上八幡城下町プラザ下車、徒歩約15分

【長良川鉄道】
<良川鉄道>
郡上八幡駅下車、タクシーで約15分

<長良川鉄道>
郡上八幡駅下車
<まめバス>
城下町プラザ下車、徒歩約15分

郡上及び郡上八幡城の歴史

【中世の郡上】
承久3年(1221)、下総国香取郡東庄、
千葉市の支流東胤行(とうのたねゆき)が
山田庄を賜り郡上東家の初代となりました。
7代東益之は応永16年(1409)、赤谷山に城を築きました。
応仁2年(1468)、
9代城主の東常縁(つねより)は
東征の留守の間に土岐家の守護代である
斉藤妙椿(みょうちん)に
篠脇城(大和町牧)と所領を奪われてしまいます。
東常縁は 和歌を詠み、はかない世の移り変わりを悲しみました。
この歌に深く心を動かされた斎藤妙椿は、
更に和歌10首を請い返歌とともに所領を返しました。
(文明元年 [1469])
文明3年(1471)、
飯尾宗祇が郡上に入り八幡の宮ヶ瀬河畔に住み
東常縁より古今伝授を受けます。
天分年間(1532~54)、
13代の東常慶は東殿山城(八幡町旭)を築きました。

【戦国時代】
戦国時代末期、郡上一帯は、
篠脇城を居城とする
東氏によって支配されていました。
その後、東氏は郡上八幡の町を流れる
吉田川の対岸にある赤谷山に
赤谷山城を構えました。
永禄2年(1559)、
東常慶の子常堯(つねたか)により、
遠藤胤縁(たねより)が殺害されました。
弟である遠藤盛数は弔い合戦の名目で
東殿山の東常慶を攻撃して滅ぼし、
八幡山に城を築いて移りました。
これで承久以来、
12代340年も続いた東氏は滅びました。
その時、赤谷山城を攻撃した時に砦を築いたのが
郡上八幡城の起源となります。

【初祖・遠藤盛数】
遠藤盛数は郡上一円を領し、
遠藤胤縁の子である胤俊に
木越城を継がせ、
所領のうち半分を分け与えました。

【初代城主・遠藤慶隆
永禄5年10月14日(1562)、
遠藤盛数が死亡し、
その子である遠藤三郎四郎慶隆が
13歳で2代目を継ぎました。

【稲葉氏で今日の城の基礎】
本能寺の変後、羽柴秀吉と対立する
織田信孝の傘下に属していたため
追放されてしまいます。
遠藤慶隆追放後、
天正16年(1588年)に
稲葉貞通が城主となり、
郡上八幡城の大改修を行いました。
その内容は八幡山の麓に新たに濠を掘り、
本丸に天守台を設け、
塁を高くして、塀を巡らし、
武庫と糧庫を増築し、
鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、
二の丸を増築して居館とした、とのことです。
この時、現在見られる近世城郭としての
郡上八幡城の基礎が築かれました。

【遠藤慶隆再び】
その後、関ヶ原の戦いの功によって再び
遠藤慶隆が城主となり、城の改修を行いました。
郡上八幡城は慶長6年(1601年)春から
慶長8年(1603年)秋まで普請を行いました。
5代藩主遠藤常久まで遠藤氏が城主となりました。
遠藤常久が7歳で死亡し、本来なら取り潰しになるところを
遠藤慶隆の功績が認められ、
大垣藩の一門戸田氏成の子、
数馬胤親に遠藤家を継がせて
常陸国(茨城県)下野国(栃木県)で1万石を与えられました。

【井上氏】
永禄5年11月、
常陸国笠間城主である
井上中務少輔正任(まさとう)が
5万石で八幡城主となりました。
以後井上氏2代続きます。

【金森氏】
元禄10年(1697)、
2代城主の井上正岑(まさみね)は
丹波国(京都府)亀山に移され、
同年6月11日羽州(山形県)上の山から
元高山城主であった
金森出雲守頼旹(よりとき)が
3万8千石で八幡城主となりました。
以後2代続きます。
元文元年(1736)、金森頼旹が死去し、
嫡孫の金森頼錦(よりかね)が
2代目城主を継ぎました。
金森頼錦は学識にすぐれ
文学書画をよくし、
先人の遺業を顕彰するなど、
文化的な城主でしたが、
晩年幕府の奏者役という
重職から出費が多くなり
国家老の年貢増徴の苦肉の策が嵩じ、
ついに宝暦4年(1754)、
領内の農民が蹶起して
世に云う宝暦騒動(郡上一揆)が起きました。
農民の代表が出府して
老中酒井忠寄に駕籠訴を行ない、
続いて同8年(1758)4月2日、
将軍徳川家重に箱訴をして
窮状を訴えたため、
金森頼錦は治世怠惰の責任を問われ
金森家は断絶となりました。

【青山氏】
宝暦8年(1758)、
丹後国(京都府)宮津の城主である
青山大和守大膳亮幸道(よしみち)が
郡上へ国替を命ぜられました。
同9年(1759)6月、
青山幸道が八幡城に赴任して
4万8千石の新しい城主となりました。
以来青山氏は郡上藩の領主として
7代111年間続き、
明治2年(1869)、
青山幸宜(ゆきよし)が
版籍を朝廷に返して郡上藩知事となりました。
郡上八幡城は、廃藩置県によって廃城となりました。
廃城の翌年の明治3年(1870年)に、
石垣だけを残し、取り壊されました。

現在の天守は、大垣城を参考に
昭和8年(1933年)、
模擬天守としては
全国的にも珍しい木造で造られました。
なお、本天守は現存する
木造再建城としては日本最古となります。
石垣が岐阜県史跡に、
天守が郡上市有形文化財に指定され、
内部は歴史資料館などとして利用されています。

城自体は小規模ですが、
城下から眺める城の風景や、
城から見下ろす城下町のたたずまいは
美しいものがあります。

魚の形に似ているともいわれています。

展示物や伝説

【金の弩標】
関ヶ原の戦いなどでの功績を認められ
徳川家康から拝しました。
第13代から第19代に渡り
城主となった青山家に伝わる家宝で、
10万石の格式を示したと言われています。
馬の首に付ける弓具(弩標)を
飾り物に仕立てた物で、
行列の先頭に用いられたとのことです。

【遠藤家の鎧】
第2代・第4代八幡城主であった遠藤慶隆が、
織田信長方について
奮闘した姉川の戦い
実際に着用したと伝えられている鎧です。
相手の攻撃をかわし易くするため、
胴の部分が少し山型になっています。

【「山内一豊の妻」の出身地】 
土佐藩主山内一豊の妻で、
内助の功で有名な「千代」は、
郡上八幡城主遠藤盛数の娘、
であるとする説があります。
郡上市の慈恩寺が所蔵する遠藤氏の系図に、
遠藤盛数の娘が
山内一豊室であるとの
記載があったことなどから、
遠藤盛数の娘であるとする説が
有力になってきているとのことです。
山麓の駐車場には山内一豊と妻千代の像があります。

【「人柱およし」伝説】
城の改修工事が難航した際、
人柱を立てることとなりました。
白羽の矢が立ったのは神路村の百姓吉兵衛の
17歳の娘「およし」でした。
何でも、用材となる大木の運搬を
不思議な力で手助けした噂が
奉行の耳に入ったとの事でした。
お城を護るためと意を決したおよしは
吉田川で身を清めて純白の振袖と帯を纏い
人柱として身を捧げました。
城内にはおよしを祀った祠、及び石碑があります。

【「赤髭作兵衛の力石」伝説】 
城の改修工事の際、
領内釼村の「赤髭作兵衛」が
350キログラム(現代換算)もの大石を
一人で担いで運び上げました。
それを見た普請奉行が褒め称えたところ、
作兵衛は感激のあまり卒倒して
息絶えてしまったそうです。
哀れんだ奉行は
この石を使用させなかったが、
昭和8年の模擬天守建設工事の際、
放置されていたこの石が発見され、
「力石」として安置され、城内に展示されています。

【凌霜隊】 
戊辰戦争の際、
17歳の朝比奈茂吉を隊長として
結成された郡上藩士45名による幕府側の隊で
凌霜隊(りょうそうたい)と命名しました。
旧幕府側に立って新政府軍と苦しい戦いを続け、
会津若松城の籠城戦では、
白虎隊と共に戦ったそうです。
「凌霜」とは、霜を凌いで咲く
葉菊の様な不撓不屈(ふとうふくつ)の精神を
意味する言葉で郡上藩・青山氏の家紋である
青山葉菊に由来するのだそうです。
城内松の丸に凌霜隊の顕彰碑があります。

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