本證寺・空誓上人のわかりやすい解説【どうする家康】三河一向一揆の中心になった城郭伽藍寺院

本證寺

本證寺とは

本證寺(ほんしょうじ)は愛知県安城市野寺町にある真宗大谷派の寺院で別名は野寺御本坊。
戦国時代には三河・一向宗の3か寺として鼓楼や土塁を備え、水濠をめぐらした城郭寺院(城郭伽藍)となっており三河一向一揆の拠点になった。

本證寺

本證寺の境内は本堂と庫裏を囲む内堀と東西約320m、南北約310m規模の外堀からなる二重の堀構造となっており、まさに防御するための城と言える。
本證寺境内の国指定史跡となっており、鎌倉時代の絵画絹本著色と善光寺如来絵伝は国の重要文化財に指定されている。

開基は鎌倉時代の1206年頃(建永元年頃)で、親鸞門侶の慶円(きょうえん)が開創。
この慶円は下野・小山城主・小山朝政の2男だったようで、俗名は小山靫負佐兼光(ゆきのえすけかねみつ)。
13歳で比叡山に登ると慈円から教えを受けた。
本證寺の場所(野寺の地)に堂宇を建てると故郷に帰ったあと、越後・国府にて親鸞の教化を受け改宗し、名を慶円に改めたと言う。


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1549年(天文18年)の門徒連判状では、三河の武士門徒115名が署名しているなど多くの支持を得ているのがわかる。
寺の周りには寺内町が構成され、宿屋、店舗、学校、病院もあったとされる。
松平広忠(徳川家康の父)は本證寺に対して不入の特権(検断権の拒否である年貢・諸役の免税)を与えており、松平家の家臣の中には本證寺からお金を借りる者もいた。
そして、三河一向一揆では、上宮寺、勝鬘寺と並んで一揆の拠点となった。

現在の本證寺・本堂は、江戸時代の寛文3年(1663年)に建立されてもので境内にある建物類で一番古い。

本證寺

また、中庭には本多正信の墓があるらしい。

三河一向一揆

三河一向一揆(みかわいっこういっき)は、戦国時代の1563年~1564年まで約6ヶ月間にわたり行われた一向一揆である。
できる限りわかりやすく解説したい。

1560年、桶狭間の戦い今川義元が討死すると三河・岡崎城に徳川家康(松平元康)が復帰。
1561年、松平元康(徳川家康)は松平好景酒井忠尚らを率い、吉良義昭との間で善明堤の戦いとなり、藤波畷の戦いにて吉良義昭の排除に成功。

1563年、本證寺に侵入した無法者(坊主)を三河・西尾城の酒井正親(松平家の家臣)が捕縛したため、守護使不入の特権を侵害されたとして一揆になったとある。(諸説あり)
中心勢力は、三河三ヶ寺(宮寺・本証寺・勝鬘寺)と本宗寺、一揆に呼応した三河守護家である吉良義昭、そのほか荒川義広(吉良持清の子)、尾張・品野城だった松平家次、松平信次、松平昌久などであった。
松平元康(徳川家康)の家臣の一部にも本願寺門徒がおり、松平家から離反して一向宗に味方して寺院に立て籠もった。

三河一向一揆

三河一向一揆に味方した松平家の家臣としては下記のメンバーなどがいる。
渡邊高綱、渡邊守綱、酒井忠尚、夏目吉信(夏目広次)(夏目漱石の子孫)、鳥居忠広(鳥居元忠の弟)・内藤清長(内藤家長の父)・加藤教明(加藤嘉明の父)・石川康正(石川数正の父)・高木広正・本多正信・本多正重・蜂屋貞次・榊原清政(榊原康政の兄)・大原惟宗・矢田作十郎・久世長宣・筧助太夫など。

三河一向一揆

このように多くの松平家家臣らも門徒武士として門徒側に与したために、松平氏の内乱の様相も呈することになった。
窮地に立った徳川家康は、三河を統一するうえでも、本證寺などの一向宗ら解体する必要が生じたのだ。
本多忠勝は宗派を変えて、徳川家康についている。

空誓上人

当時の本證寺住職は空誓上人(くうせいしょうにん)で、本願寺蓮如の曾孫にあたる。 生没年は不詳。
1562年、加賀一向一揆に参加していた本證寺9代玄海が討死したため、空誓は近江・堅田の慈敬寺から本證寺に移った。

空誓上人

守護使不入の権利を侵害されたことを理由に、上宮寺や勝鬘寺と本願寺門徒をあつめ、上宮寺近くにあった菅沼定顕の砦を襲撃した。
空誓は怪力の持ち主であり、自ら鎧を身につけ、鉄棒を振り回して戦ったとある。
大久保氏の上和田砦や小豆坂の戦いなどで戦闘が行われ一時、松平氏の本拠、三河・岡崎城まで攻め寄せ、徳川家康を窮地に追い込んだ。
和議の機運が高まると一旦和議となったがすぐに破棄され、徳川家康は一向宗寺院の破却、僧徒追放を断行。
また一向宗の武将・門徒衆・寺院道場に対し改宗を求め、一向宗を禁止するなど対抗した。

そして小豆坂の戦い・馬頭原の戦いにて徳川勢が勝利すると再び和議となって一揆は解体された。

全部の武将ではないが門徒武士らも徳川家康がいない場面では戦ったが、徳川家康が合戦場の最前線に出向くと、さすがに主君とは戦えないと逃げ出したともある。
そのため、徳川家康は有利に一向宗との戦いを進められたとも考えられる。
また、一向宗の寺院から借金していたため一揆に加担武将も多かったため、徳川家康は自分に従えば「徳政令」を出して債務返済を免除したため、旧臣らも復帰しやすかった。

本多正信以外の武将は概ね意に従ったが本証寺・勝鬘寺・上宮寺などは従わず、坊主衆と門徒侍は領国から追放され空誓は足助へ逃走したため、本證寺は一時廃寺となって境内の建物は全て解体されたほか、三河では真宗禁制となった。

空誓は妻子を伴って足助・香嵐渓から約8㎞ほど離れた菅田和にある大きな洞穴に約20年間隠れ住んだと言う。
足助の門徒山中14ヶ寺が援助したともされる。


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その後、徳川家康の叔母・石川妙春尼の尽力もあり天正11年(1583年)に一向宗門徒が赦免され、1585年には本證寺の空誓上人など三河三ヶ寺の僧侶も復帰が許されたとある。

江戸時代に入ると1663年(寛文3年)までに本證寺は再興され、現在に至っており、鐘楼や山門などの当時の遺構がきわめて良好な状態で残ってる。
本證寺の公開時間は朝9時~16時。
現在は小山興圓(おやまこうえん)ご住職との事。

交通アクセス

名鉄西尾線・南桜井駅から徒歩約15分。
表の山門から入った本堂前の広大な空間が境内駐車場?になっているようだが、攻め込むような感じでとても気が引ける。
隣接する売店「総合食品すずき」さんの道路反対側駐車場(4台ほど)が、本證寺参拝での駐車も可能と寛大なご配慮があるためありがたく利用させて頂いた。
駐車場は当方のオリジナル地図「名古屋・北陸方面」でポイントしている。
オリジナル地図「名古屋・北陸」方面
スマホ画面などで表示して「検索窓」から検索して、カーナビ設定することでも使用可能。(徒歩ナビとしても可能)

このあとは小川的場丘城に向った。

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