鎌倉・実相寺~工藤祐経の屋敷跡

鎌倉・実相寺

工藤祐経の屋敷跡

鎌倉・実相寺(じっそうじ)は、神奈川県鎌倉市材木座にある寺院で、鎌倉時代の有力御家人・工藤祐経の鎌倉屋敷があった場所とされます。
實相寺とも書きます。
工藤祐経(くどうすけつね)は、曾我兄弟の仇討ちより、1193年に、富士・白糸の滝近くで、亡くなっています。
その後、工藤氏の家督は、子の伊東祐時が継いでおり、館は、引き続き工藤氏(伊東氏)が、使用していた可能性があります。
1252年、伊東祐時が死去しており、継いだのは伊東祐光(妻は後藤基綱の娘)と見られますが、日蓮が、1261年~1263年に、伊豆に流された際に、伊東氏は日蓮に帰依したものと考えられます。


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1271年6月、平頼綱に逮捕された日蓮は、佐渡に流罪となります。
その際、鎌倉に残った、日蓮の弟子・日昭は、引き続き日蓮の説を広めるための拠点として、工藤祐経の屋敷跡に、濱土法華堂を開設したと言います。

工藤祐経の屋敷跡

鎌倉の浜土(はまど)に草庵を構えたとありますので、当時は、ほとんど、海に迫っていたものと推測できます。
日昭(にっしょう) は、下総・印東氏の印東祐昭の次男で、兄は印東祐信です。
母は工藤祐経の娘・妙 (妙一尼)であり、もともと、印東氏(いんとうし)は、伊東氏(工藤氏)から分かれた氏族ともされます。
そのような縁で、鎌倉にある工藤祐経の屋敷跡を使ってもいいよと言う話になったのでしょう。

工藤祐経の屋敷跡

なお、日蓮が佐渡に流される前(当初は処刑される予定だった際)に、近くの鎌倉・常栄寺付近にいた、桟敷の尼が、日蓮に「ぼたもち」をふるまったと言う伝承があります。
その桟敷の尼は、印東祐信の妻ともされますが、老婆ともあるため、印東祐信と日昭の母・妙一尼(みょういちに)と、印東祐信の妻・妙常日栄であった可能性も考えられます。


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身延山・久遠寺などを起こした日蓮は、病となり、温泉に迎え途中、1282年、東京の池上氏館にて亡くなりました。
ちなみに、その池上にも、大変立派な實相寺(実相寺)があります。
池上氏には、印東祐昭の娘が嫁いでおり、印東氏と縁がありました。

その後、1284年、濱土法華堂(浜土の法華堂)と言う寺が建立されたようですが、この法華寺は、のち、直峰城主・風間信昭の寄進もあり、伊豆・玉沢(三島市)に移転したようで、現在、三島に玉沢妙法華寺(妙法華寺)があります。


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江戸時代に入り、1621年、日潤が再建したのが、現在の鎌倉・実相寺だと伝わるようです。
見学所要時間は5分~10分ほどで、トイレはありません。

交通アクセス

鎌倉にあった工藤祐経の屋敷跡(鎌倉・実相寺)への行き方ですが、JR鎌倉駅の東口「6番」バス乗り場から、九品寺循環に乗車して、五所神社バス停下車の徒歩3分となります。
鎌倉駅から歩くと、20分くらいの距離です。
車の場合、近くのコインパーキング利用となります。
鎌倉・実相寺の場所は当方のオリジナル地図にてポイントしてあります。
地図の検索窓から「実相寺」と検索して、鎌倉のを選択して頂けると、すぐに表示されるかと存じますし、スマホでカーナビ代わりにもお使い頂けます。

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