東松山・正法寺「岩殿観音」の歴史解説~比企能員や北条政子などが再興

岩殿観音・正法寺

岩殿観音・正法寺とは

東松山の正法寺(しょうぼうじ)は、埼玉県東松山市岩殿にある真言宗・智山派の寺院で、岩殿観音(巌殿観音)とも言います。
創建は、奈良時代の養老2年(718年)と古く、沙門逸海(いっかい)が山腹の岩穴に千手観音を安置して、正法庵と称したのが始まりとされます。
沙門逸海が、ここで修行をしていると、霊夢に僧侶に化した観音様が現れたため、逸海は千手観音像を刻んで、九十九谷といわれた岩殿山の山腹の崖を削り、その岩窟に観音像を安置したと言います。

岩殿観音・正法寺

その平坦地は、古墳の石棺の材料として、石を切り出した跡ではないかと考えられているようです。

また平安時代初期の伝説として、岩殿の山のなかに、竜が住んで、夏に雪を降らせたり、冬に雷を鳴らしたり、田畑を荒らしたり、悪事を働いていたとされます。
村人が、通りかかった坂上田村麻呂に頼んで、退治してもらったと言う話があります。
この話は、あくまでも、伝説ですが、坂上田村麻呂がその時代にいたのは事実です。
しかし、亡くなったのは、711年ですので、正法庵が設けられる前の話と言う事になるでしょう。


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坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)が東国に派遣されたのは、概ね791年から、796年から、801年からと、何回かあります。
古代の道は、平坦路をずっと進むと言う事ではなく、必ず峠を越えます。
高い峠を通行して、その先、どっちの方向に進めばよいか?、確認しながら、軍勢を進めますので、すぐ南に「物見山」(標高135m)と名がつき岩殿を通行した可能性は充分にあるでしょう。
そして、盗賊なのか?、ヤマト政権と対立していた勢力なのか?、暴れて「竜」とされた部族が、坂上田村麻呂によって、駆逐されたも可能性があるでしょう。
その後、796年、桓武天皇の勅命にて、岩殿観音に伽藍が建立され、正法寺は諸堂62坊を有する大寺院になったとあります。

岩殿観音・正法寺

また、新編武蔵風土記稿によると、平安時代の初期、藤原利仁(鎮守府将軍)が武蔵守となっており、923年頃、再興して利仁山と名付けたともされます。

ちなみに、 吉見観音の安楽寺も、山号は岩殿山で、真言宗智山派で、坂上田村麻呂が堂宇を建立したと、共通点がいくつか見られます。

弁天沼(鳴かずの池)

岩殿観音・正法寺へ向かう入口(岩殿観音から徒歩10分)に、弁天沼があります。
坂上田村麻呂が岩殿山に住む悪竜を退治し、その首を埋めたところに、この弁天沼ができたと伝わります。

弁天沼

しかし、カエルが住みつかないことから「鳴かずの池」と呼ばれているそうです。

岩殿の谷戸地形

この岩殿の「地形」は、とても興味深いです。
現地に行きますと、特に実感できるのですが、北西にある弁天沼から、南西へと一直線なった谷戸(やと)になっています。

岩殿の谷戸地形

その最奥部の中腹に、正法寺(岩殿観音)がありまして、谷戸全体が、門前町のように栄えていたようです。
すなわち、周りの山が天然の大きな土塁でして、入口が北西の1箇所に限定されることから、平安時代初期としては、とても防御制に優れた場所と言えます。

岩殿の谷戸地形

要するに、規模としては、小さいかも知れませんが、豪族が本拠にするには最適な場所が、埼玉県にもあって、かつて栄えていたと言う話に、正直、驚きました。


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鎌倉時代初期には、源頼朝の命を受けて、この比企郡を領していた比企能員が、正法寺(岩殿観音)を復興したとあります。
と言う事は、平安時代末期には、比企氏の領地となっていたようですので、比企氏の館(比企能員館?)があったとしても、おかしくありません。
むしろ、比企氏が本拠地にするのには、最適な場所とも言えます。
源頼朝が没するとその意思を継いだ北条政子が、1200年に堂宇を建立したともされ、千手観音は北条政子の守り本尊とも伝わります。

正法寺(岩殿観音)

また、覚西が鎌倉にいながら、正法寺(岩殿観音)の別当を兼任したようです。
下記写真の山上(大東文化大学の脇)には、判官塚もあるそうです。
<注釈> 判官と言うのは比企能員の官職名(比企判官能員)


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比企氏は、1203年9月、北条氏との対立による比企能員の変で、一族の多くが、鎌倉で討死にしています。
この判官塚は、比企時員の子ともされる比企員茂が、1218年頃、比企能員の菩提を弔うため、岩殿観音から南東にある南新井に塚を築かれていたとされます。

巌殿山・正法庵に伝わる話によると、比企能員の妻が落ち延び、正法庵の向かいの谷間の小庵に、隠れ住んだと言う伝承もあるようです。
また、比企能員の子・比企時員の妻(足立遠兼の娘?)が、難をのがれ比企の地である正法寺(岩殿観音)に落ち延び、比企員茂を産んだともあります。
比企次郎員茂は、岩殿観音堂の別当の子として養育され、のち、順徳天皇に仕えていた比企能員の末子・比企能本(圓顕)が仲介し、朝廷の北面武士となりました。
1221年に、順徳天皇が佐渡配流になった際には、比企能本と比企員茂は、共に佐渡へ渡っています。


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大東文化大学のキャンパスが造成されたときに、現在の場所に移転されたようです。

南北朝時代には、鎌倉公方足利基氏と、芳賀高貞が争った、岩殿山の戦いもあったようで、近くには、鎌倉公方である足利基氏館跡もあります。

武蔵・足利基氏館(旧足利基氏館跡)の歴史解説~鎌倉公方・足利基氏とは

正法寺の銅鐘は元亨2年(1332年)に造られたことが銘文に刻まれています。
1561年、小田原城北条氏康が、武蔵・松山城を攻撃した際に、吉見観音などと同じく、正法寺(岩殿観音)は焼かれたようです。
上田朝直によって、1577年、七堂伽藍が復興を遂げたとあります。

下記の制札は、その武蔵・松山城主である上田宗調朝直が発した本物で、岩殿山一帯の木や草を刈り取ることを禁じる内容が記載されています。

上田朝直の制札

1590年、豊臣秀吉小田原攻めの際、北条勢の大道寺政繁(松井田城にて豊臣勢に降伏したあとと考えられる)が、正法寺の鐘を、引きずりまわして、 軍勢の士気を鼓舞するため、打ち鳴らしたと言い、鐘には傷がたくさん残っているそうです。

岩殿観音

徳川家康江戸城に入ると、1591年、徳川家から寺領25石の朱印地が与えられました。
寺領25石を頂いていることは、すごいですが、想像していたより少ないのにもビックリですが、江戸時代に岩殿観音巡りが盛んになります。
岩殿観音の門前町は、賑わいました。

岩殿観音の門前町

現在も、初詣などで、賑わっているようです。

しかし、江戸時代には何度も火災に見舞われており、現在の本堂は、明治12年に、高麗村から移築されたものとなります。

東松山・正法寺「岩殿観音」

御朱印受付は、朝8時30分から16時で、3月~10月は17時までのようです。
見学所要時間は、20分~40分といったところでしょうか?
正式な表参道ルートですと、階段を登る事になりますので、高齢者などは、物見山公園の裏参道から訪問されると、車椅子のスロープもあるようでして、良いみたいです。

岩殿観音

ぜひ、たくさんの皆様に、訪れて頂きたい、歴史ある、素敵な場所です。

交通アクセス

岩殿観音・正法寺への行き方・アクセスですが、電車バスの場合、東武東上線・高坂駅の西口から、川越観光自動車の鳩山ニュータウン・にっさい線「鳩山ニュータウン行き」バスに乗車して、大東文化大学バス停下車、裏参道経由(400m)の徒歩7分です。
バスのダイヤは、1時間に4本くらいと、結構あります。
無料駐車場は、2ヶ所あり、表参道の最奥部(仁王門の脇)だと、参道の階段を登る必要がありますが、歴史を感じられる正規ルートになります。


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県道212号線沿いの駐車場(物見山駐車スペース)のほうが大きくて、裏参道から200mの距離で、階段は無いようです。
高齢者の方やベビーカーなどの場合、裏参道からがお勧めです。

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