惟任日向守とは 明智光秀が「これとう」になった理由

惟任日向守

惟任日向守明智光秀)は、どうして「惟任」(これとう)と言うのか?
惟任の由来に関して考えてみました。

惟任(これとう)と言うのは、惟任氏と言う意味で、朝廷(天皇)から、明智家がもらった姓名となります。
そのため、明智光秀じたい、惟任日向守、明智惟任日向守、明智惟任日向守光秀と記載されることがあります。
これは、明智光秀が出した書状には、よく「惟任日向守」と自分の名前を明記しているためでして、時代劇などでも、よく「惟任日向守」と明智光秀は呼ばれたりしています。

では、なぜ明智氏が惟任氏とも称したのでしょうか?



南北朝時代の武将に美濃源氏の土岐頼貞がおり、足利尊氏に味方して戦功があり、美濃守護を任じられました。
その9男に土岐九郎(長山頼基)がいますが、その美濃・長山城主である長山頼基の子・明智頼重(あけち-よりしげ)が、明智頼兼の娘と結婚して養嗣子となって明智家の家督を継ぎ、土岐明智氏の祖となりました。
その明智城主である養父・明智頼兼は、子の明智光行が早く亡くなったため、養子を迎えたともされます。
その早世した明智光行の母は、豊後・大神一族の娘でした。

豊後の大神氏(おおが-し)は、惟任氏(これとう-し)の祖でもあり、土岐明智家の祖となった明智頼重の子の一人が、惟任頼秀(惟任彦六)と称しています。

では、明智光秀が、なぜ、明智一族の姓名でもある惟任と称したのか?

これは、織田信長の命があったようです。
織田信長は、全国統一の総仕上げは、九州になることがわかっており、どうやら、朝廷に働きかけて、一部の重臣に、九州にまつわる名族の氏名を与える勅許を得たとされています。
1575年のことです。



実際に、簗田広正は別喜(戸次)姓を下賜されて、別喜右近(戸次右近)と名乗りましたが、豊後大神系の戸次氏と言う事になります。
丹羽長秀は鎮西九党のひとつで、明智光秀の惟任(これとう)に近い、惟住氏(これずみし)の名を賜り惟住長秀と名乗っています。
塙直政は、九州・大蔵氏の嫡流である原田の姓を下賜されました。
これらと同じように、明智光秀は惟任と日向守を賜ったのです。

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