日本一の境地と謳われた大坂(大阪)という地

大阪

 長く続いた群雄割拠の戦国期を、遂に天下統一という大偉業を成し遂げた豊臣秀吉が、それまで地方限定的な商業経済から全国に通用する大規模な商業経済体制を構築した、ことについての記述を以前させて頂きました。その豊臣秀吉が、豊臣政権および全国の商業物流網、中世経済の本貫地としたのが、『摂津国大坂』の地であったことは皆様よくご存知のことだと思います。
 現在の大阪府でも、大商都・大坂の礎を築いた英雄・豊臣秀吉を「太閤はん」と愛称を込められて語れられていることも、また有名でありますが、その秀吉1人が、摂津国の大坂(石山)という巨大城郭と城下町を造営するに相応しい淀川デルタ地帯を、最初に見出したのか?と言えば、「否」であります。寧ろ豊臣秀吉の優れた地相眼は、徳川家康を関東移封した際(1590年)に、当時湿地帯に覆われていたとされる武蔵国の寒村・江戸を家康の新たな本拠地として奨めたことに発揮されています。


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 大坂(当時は生玉荘、或いは渡辺郷)を見初めたのは、微弱な宗教勢力であった浄土真宗とされる『蓮如上人/本願寺蓮如(1415~1499、本願寺法主8世)』であり、秀吉ばかりでなく、織田信長でさえこの世に生を受けていない応仁の乱など戦国初期の動乱の中を生き抜いた一世の英傑であります。
 蓮如上人は、ご先祖様・親鸞聖人が開き衰退の極みにあった浄土真宗を再興し、日本最大の宗教勢力に仕立て上げたばかりでなく、(摂津大坂の地理を見初めた好例もあるように)、信長や秀吉にも匹敵するほど商才・地相を見抜く能力に優れており、大坂を見出す以前に、北陸・越前吉崎の吉崎御坊、次いで京都郊外・山科本願寺など、蓮如はそれらの場所を選定し、本願寺流の城郭と城下町セットと言うべき御坊と寺内町を築いて発展させています。
 蓮如が拠点(御坊と寺内町)を構える以前の越前吉崎は、蓮如本人曰く(57歳、1471年)『狼虎がすみなれし、この山中』(御文)という、京都郊外の山科郷野村についても、蓮如(63歳、1478年)は『山ふかく地しつかにして(以下略)』(同)と称し、両方ともそれまでは未開の地であったことを強調しています。
 越前吉崎、京都山科という以前は未開の地を見定め、本願寺勢力の重要拠点を築いていた蓮如は、既に老境に入っているにも関わらず、フロンティア精神(開拓精神)を更に高揚させ、1496年、既に何と82歳という後期高齢者になっていた蓮如は、新たなる未開の地を探し当てます。それが当時、摂津東成郡生玉荘と呼ばれていた大坂の地でした。やはり蓮如が来る前の大坂も、数か所の寒村(恐らく半農半漁の渡辺一族の拠点)がある程度の『虎狼のすみか也、家の一つもなく、畠ばかりなりし所なり』(『拾塵記』)と呼ばれた殆ど未開の地であったと言われています。
 しかしながら、摂津大坂(厳密に言えば上町台地)周辺には、古代より有名な聖徳太子が古刹・四天王寺を建立したり、中国大陸・朝鮮半島の交易船舶発着の港湾・難波津(後の渡辺津)が開かれ、724年には聖武天皇を難波宮を造営、遣唐使の発着港として経済外交の要衝としても開発されていたことが研究で解ってきています。即ち、15世紀末の蓮如が見初めた『虎狼のすみか也、』と呼ばれた大坂一帯は、古代より朝廷主導の国家プロジェクトとして開発されていた経歴があったのです。
 長年、大坂城と大阪の歴史をご研究されている中村博司先生(前:大阪城天守閣館長)は、著作『大坂城全史』(ちくま新書)内で、『蓮如が見初めた頃の大坂が、「虎狼のすみか」だったというのは、大坂御坊の繫昌を言うためのいささか誇張された表現と見なすべきかもしれない。』(「第1章 大坂本願寺の時代」文中)と書いておられますが、筆者もこの中村先生の説に賛成です。
 前掲の蓮如が『虎狼のすみかの大坂を見初めた』という一文の出典が『拾塵記』という古文書ですが、これは蓮如10男である願得寺実悟が著した蓮如一代記であり、実悟が、浄土真宗を全国的に広めた上、土地開発にも非凡な才能を発揮した父・蓮如の偉大さ(実際、偉大ではありますが)を、脚色した可能性も大いにあります。
 蓮如ひいては豊臣秀吉が拓いた西の首都・大坂、河川や港湾地形といった地理的条件や開発経緯が酷似している、徳川家康が開いた東の首都・江戸についても、家康が入る前の江戸一帯は湿地に覆われていた、『如何にも粗相な地で、茅葺の家が百軒ばかり、何処もかしこも海に浸った葦茂る野原也』(『岩淵夜話 別集』)と称せられるほどの不毛地帯であると強調されることが多いですが、この一文も『岩淵夜話』という書物は徳川家康の一代記(著者:江戸中期の大道寺友山という兵学者)であり、神君・家康公が、豊臣秀吉の強引な命令によって不毛地帯の江戸へ転封され、そこをゼロから大都市・江戸へと開発した家康の偉大な手腕をより強調するために、『(江戸は)粗相な地』と書かれた可能性が大いにあります。
 江戸開発史についても近年、学者先生方によってご研究が進み、江戸についても岩淵夜話に書かれているような全くの未開の地ではなく、江戸一帯およびその近辺には、645年に開山された隅田川沿岸の浅草・金龍山浅草寺が鎮座し、鎌倉期からは江戸湾の要衝の1つ品川湊が、関東と西国の物流拠点、兵糧集積地として殷賑を極めていたことが判明しております。
 蓮如が来る前の大坂、徳川家康が入府する以前の江戸は、湿地に覆われいた平坦地が広がっている『虎狼のすみか』『粗相な』未開発の部分も多々あったことも事実でしょうが、両方の土地とも、近隣に古刹、河川や物流拠点である港湾を備えている地理的好条件を有しており、天下有数の都市圏へと成長する有望な伸びしろがあったのです。蓮如、豊臣秀吉(織田信長も含む)、徳川家康の凄さは、その湿原が多い大坂・江戸の好条件を見定めて開発を進めていき、将来日本第1位と第2位となる大都市の礎を築いていったことでしょう。

 摂津の淀川などの氾濫によって湿地帯、河口部のデルタ地帯が主であったとされる大坂に蓮如は着目し、唯一小高い丘陵である上町台地に御坊と寺内町の建設を開始しています。この築かれた御坊こそ、全国一向一揆衆の総本山となり、覇者・織田信長を苦しめ、江戸幕末の歴史家・頼山陽をして『抜難き南無六字の城』と謳われた堅城『大坂御坊(石山本願寺)』であります。
 唯、蓮如本人は、本願寺勢力の1つ拠点と選定し、御坊とそれに連なる寺内町を設立した大坂の地が、後に天下の覇者を相手取る決戦場となり、後世の歴史家に『抜難き城』と評されるほどの歴史的重要地点になるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
 蓮如本人が大坂御坊を建立したのは、自身の隠居所とするためであったと言われ、蓮如在世当時の本願寺勢力の本拠地は、京都郊外の山科本願寺でした。蓮如は1496年から死去する間際の1499年2月までの3年間、大坂に腰を据え、真宗門徒衆の助力を得て御坊と寺内町の造営に着手。大坂御坊の礎を築いた後、1499年3月に山科本願寺で85歳で死去(「示寂」)しています。
 蓮如生存時の折、大坂御坊に付随して、御坊周辺には『6つの寺内町(「寺内六町」)』も随時開発され、多くの門徒衆が集住していました。この寺内六町(北町・北町屋・西町・南町屋・新屋敷・清水町)が大坂御坊の城下町中核部(『親町』)であったのですが、蓮如(本願寺)を慕って集住する民衆が増えるに連れて寺内町の規模も拡大してゆき、六町から派生した青屋町・檜物屋町・横町といった『枝町』も開かれてゆき、大坂御坊は活況をより呈してゆくようになり、1560年代(顕如法主期)には千戸以上の町屋や多屋(旅館)が町内に軒を連ね、全体の町内人口は『8千~1万』ほどの人口(前掲の中村博司先生の試算)があった可能性があります。
 現在における町内人口1万ほどは、過疎化が深刻しつつある侘しい田舎町のようでありますが、当時の大坂御坊周辺の寺内町人口の1万は相当発展していると考えてもいいと思います。故・原田伴彦先生(大阪市立大学名誉教授)の著作『中世における都市の研究』(三一書房)に拠ると、織田信長の本拠清洲で人口約7千、名門戦国大名の双璧というべき今川義元大内義隆のお膝元である駿府と山口が、それぞれ約1万、また信長の舅で「マムシ」の異名で知られる斎藤道三が築いた井ノ口(岐阜)城下町も約1万の人口となっています。
 先述のように蓮如が築いた大坂御坊の寺内町も8千~1万の人口が集住していたとすれば、上記の並み居る強豪戦国大名の同等の人口および、財力を成す人口を足下に抱えていたことになります。それらの民衆が蓮如に対して喜捨(お布施)を献納し、本願寺勢力は益々増大してゆくことは明らか事柄であります。
 寺内町には、蓮如上人や本願寺様を慕う門徒衆も集住していたのでありますが、非門徒衆である民衆も居住することが許されており、大坂御坊および寺内町で賄われる食糧(米穀・塩・魚介類)や食器や衣類などの生活必需品を生産販売する職人や商人も居たのであります。前掲の枝町である青屋町は、繊維を染める藍染業者が居住し、檜物屋町には檜でお椀などを造る職人さんたちが拠点としていた、というのが容易に想像が付きます。
 寺内町に住まう門徒衆と非門徒衆の全ての民衆は、諸役免除の経済的待遇が与えられていたと言われている上、周辺の守護大名の介入を許さない「守護不入」の特権もあり、大坂御坊を中心に発展する寺内六町と枝町は、戦国期には珍しく治安良き居住区であったと言われています。「蓮如様、本願寺様大事」という信者も寺内町に居住したいと強く思うことは勿論ですが、諸役免除の優遇措置があり治安が良い場所であれば、本願寺門徒でない人々も利と安全を求め大坂御坊へ移住したいと願望するのも頷けることであります。そして更に、本願寺勢力のお膝元である大坂近辺にに集住者が増え、物資や人の流れがより活性化していくという雪だるま式に本願寺が強大化していく仕組みなっています。
 これにより、本願寺独自の城郭城下町セットというべき御坊と寺内町は、摂津大坂に留まらず、尼崎・富田・枚方・富田林・貝塚・八尾といった河内和泉、現在の南大阪地方まで規模が広がりました。これらの御坊と寺内町、そして摂津大坂御坊と寺内六町がネットワーク化して運営されており、これを『大坂並』と呼ばれていることは有名であります。本城(大坂御坊)と各地の支城群(富田林など)が繋がり、領国統治を実行してゆくという戦国大名に酷似している体制を本願寺勢力も構築していたことがわかります。
 本願寺勢力が、寺内町内に住まう民衆に対して諸役免除を施策したり、他所の大名衆の介入を受け付けない守護不入の力を行使できるのは、それだけ本願寺には強大な経済力、多くの門徒衆で組織された相当な軍事力があったからであります。
 蓮如が大坂御坊や寺内町を建立するに当たって、京都・近江・堺などの有徳人(商人などの富裕層)、番匠(大工)・屋根葺職人・石工などの当時の建築関係を含めた様々な職種の浄土真宗門徒衆は勿論、以前蓮如が、越前吉崎を拠点として布教に勤しんだ北陸の真宗門徒衆なども、大坂御坊と町の造営に大きく寄与しました。御坊や町の防衛面でも、北陸や畿内の本願寺宗徒たちが、わざわざ上坂し、『番衆=兵力』として活動していた人々も存在していました。
 また10代法主・証如の代に、大坂御坊が本願寺の本拠地になった後にも、多くの番匠140人や加賀門徒衆57人たちが大いに働き、御坊の阿弥陀堂の礎石造営に協力した記録(「阿弥陀堂御礎之記」)もあるので、蓮如の大坂御坊の黎明期から終焉期の顕如までの間、大坂御坊(石山本願寺)と大坂の地は、全国本願寺門徒衆の助力によって発展してしていったのであります。
 後年の顕如の法主期になると、大坂御坊と寺内町に集う多くの真宗門徒たちによって殷賑極める状況を、イエズス会宣教師のガスパル・ヴィレラが永禄4(1561)年8月書簡によって西洋に報告しています。
 
 『日本の富の大部分は、この坊主(注:11代法主・顕如上人、大坂御坊)の所有である。毎年、はなはだ盛んな祭り(法会)を行い、参集する者ははなはだ多く、寺に入ろうとして門の前で待つ者が、開くと同時にきそって入ろうとするので、常に多くの死者をだす。(略)夜になって坊主が彼らに対して説教をすれば、庶民の多くは涙を流す。(以下、略)』

 報告者であるガスパル・ヴィレラは、キリスト教の宣教師ですから本願寺の殷賑ぶりを感嘆しつつも、異教の繁栄は喜ばしくない複雑な心境であったと思うのですが、本国・ポルトガルへ極東アジア国である日本(ジパング)の市場調査人をも兼ねているヴィレラは鋭い観察眼によって、摂津大坂を本拠として発展している本願寺勢力を見逃していません。因みに、大坂の隣地である貿易港の泉州・堺を『東洋のベニス』と西洋に向けて報告し、西洋諸国に堺の存在を知らしめたのも、このヴィレラであります。
 顕如の僅か3代前の法主・蓮如の前半生期の浄土真宗本願寺は、京都の青蓮院末寺の弱小宗教勢力であったにも関わらず、蓮如一代で全国屈指の巨大宗教勢力となり、顕如の代には前掲の宣教師・ヴィレラによって、『日本の富の大部分は、顕如坊主の所有である』と西洋に報告されることになるとは、自身の教団を創設を禁忌としていた鎌倉期の浄土真宗開祖・親鸞聖人が知れば驚愕の極みになっていたことでしょう。

本願寺法主8世の蓮如死後、法主の座は「9世・実如(蓮如5男 1458~1525)」、「10世・証如(蓮如曾孫 1516~1554)」、『11世・顕如(本願寺光佐とも。証如長男 1543~1592)』と続いてゆき、本願寺勢力(一向一揆衆)は増々強大となり、それに伴って大坂御坊の規模も壮大になりますが、そのころにはいよいよ戦国全盛期へと入ってゆき、本願寺もその渦中に巻き込まれていきます。その典型的な例が、戦災による山科本願寺の焼失であります。
 証如法主期の1532年・山科本願寺の戦いにより、京都法華経門徒衆と近江の有力大名・六角定頼の連合軍によって、それまで本願寺勢力の本拠地であった山科本願寺が焼き討ちにされてしまいます。これにより、全国一向衆の総本山として崇められ『寺院は広大かつ荘厳である仏の国』(二水記)と謳われた壮大な山科本願寺は灰燼に帰し、証如は本願寺第2の拠点というべき大坂御坊へ本拠を遷したのであります。
 一向一揆衆の総本山としての大坂御坊、即ち石山本願寺の歴史は、1532年以降に始まったと言ってもよく、証如嫡男・11代法主の顕如の時代になると、石山本願寺を策源地として戦国期を大きく揺り動かす一向一揆衆の最盛期となり、東海から畿内にかけて勢力を拡大した風雲児・織田信長との大抗争、通称:『石山合戦』(1570~1580)へと突入してゆくのは周知の通りでございます。

凡そ戦国期における殆どの著名な合戦の起因は、領土拡張や城塞奪取、敵勢力討滅による自勢力の覇権確立など様々でありますが、中には当時有数の経済先進地(例:穀倉地帯、流通拠点となる港湾や川港)の領有権を巡って敵味方が激闘を繰り広げ、その結果が我々後世まで語り継がれる名勝負として残っています。
 例えば、毛利元就厳島合戦(1555年)、織田信長の桶狭間合戦(1560年)、武田信玄上杉謙信の第4回川中島合戦(1561年)などの有名な合戦は、“各地方における経済要地の領有権”を理由に勃発したものでした。*(厳島合戦や桶狭間合戦を経済要地争奪戦とした記事は、以前書かせてもらっているので、詳細はそちらを読んで頂ければ幸いです)
 その経済の要地を巡る攻防戦で、最も大規模かつ長期間まで及んだのが、(重複しますが)、織田信長と本願寺勢力(顕如)との抗争・石山合戦であります。
 石山合戦は、無宗教主義である織田信長が、浄土真宗一向一揆衆の台頭と反抗的態度を採り続ける石山本願寺および伊勢長島や越前一向一揆衆を、憎悪一心で強攻したことが主因として語られています。勿論、敵対勢力に対して容赦しない織田信長ですから、それも大きな要因の1つであることは間違いないのでありますが、もう1つの要因は、信長が本願寺勢力の本拠地である「石山本願寺=摂津大坂という経済的要地」を渇望していたということであります。
 僭越ながら筆者は、これこそ(摂津大坂争奪戦)が石山合戦、織田信長が本願寺勢力討滅目的の主因および起因と思っております。足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、足利将軍家(事実上は織田氏)に対して本願寺勢力に矢銭(軍資金)5000貫の納入を命令します。
 本願寺勢力がその要求を飲むと、今度は『石山本願寺を開け渡せ』という本願寺にとって無理難題を、信長は突き付けた直後に石山合戦は始まっています。本願寺や顕如の立場からすると、「頭に乗るなよ、信長!」と叫びたかったに違いありません。
 そう思うと、石山合戦という日本史上最大の宗教戦争も、お互いの「カネ(矢銭)」と「利益産出地(石山本願寺)」という、現代でも国家や組織内における内紛の主因および起因となることが発端となっていることが解ります。
 「利害計算力=自己利益の損失」、「経済感覚」が鋭い織田信長にも関わらず、強大過ぎる本願寺勢力と自他共に人員や物資の経済的消耗が著しい合戦、しかも約10年という長期間に渡った石山合戦を繰り広げたのは、信長にとって摂津大坂という地は、どのような地理的好条件であったのか?この重要な点を、大阪府ご出身であられた国民作家・司馬遼太郎先生が、著書『歴史を紀行する』(文春文庫)内で、解り易く書き纏めて下さっておられます。

 『とにかく日本の(あるいは世界の)どの都会にくらべても都市の立地条件のよさは、大阪はあるいは最高かもしれない。その価値は、まず日本列島のやや西寄りの中央に位置しているということであろう。ついで琵琶湖という巨大な貯水池をもち、淀川が天然のパイプをなし、下流で数百万の人口をうるおしうること。さらには後背地(ヒンターランド)がひろく、地味が肥沃で、食糧の供給力が大きいこと。それらを総和してもうわまわるほどの価値は大阪湾と瀬戸内海であろう。風浪から船舶をまもるだけでなく、瀬戸内海という自然の回廊にまもられつつやがては外洋にむかってひらけ、その航路は大阪湾によって日本列島の各港をめぐり、あるいは神戸港によって世界に通じている。虚心にみればたれが考えても日本の首都は大阪であるべきであった。』

 (以上、「政権を亡ぼす宿命の都」文中より)

 些か長い文ではございますが、これほど摂津大坂(大阪)の地理的好条件を著述した文章はないと、(司馬遼太郎先生を尊敬している)筆者は思っている次第でございます。また今記事の表題で書かせてもらっている『(大坂という地は)日本一の境地=日本一の土地』という一文は、織田信長の祐筆の1人であった太田牛一著の『信長公記』の文中に書かれてあるということは有名であります。
 何故、摂津大坂が『日本一の境地』であるという事は、上掲の司馬遼太郎先生の紹介文の抜粋内容と酷似していますので、詳細は割愛させて頂きますが、太田牛一も、『五機七道集まって売買利潤富貴の湊である』(「第13巻」)という経済的好条件に恵まれている摂津大坂を絶賛した上、『四方に節所を抱える=要害堅固な土地柄でもある』という軍事防衛上でも抜群の地形をしているということも、摂津大坂を日本一の境地と呼ぶ理由の1つとして挙げています。
 事実、その立地を大いに活かしきり、8代・蓮如から11代・顕如の4世代を得て、政治宗教・経済・軍事的の全てにおいて巨大都市化した大坂御坊と本願寺勢力は、当時の戦国大名から一目も二目も置かれた畿内の大勢力となりました。また摂津大坂に似た地形、海上・河川交通に優れた上、四方を湿地などに囲まれた自然要害を擁する伊勢長島にも、巨大本願寺支社というべき願証寺などの御坊も伊勢の一向宗徒にも築かせて、後には隣国・尾張を本貫地とする仏敵・織田信長の喉元を脅かす強力な刃となったことは、周知の通りです。


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 日本一の境地・摂津大坂を本拠地とし、東海・北陸という広範囲にかけて強い影響力を持つ本願寺勢力を叩き潰すために、真っ向から戦いを挑んだ戦国の覇者・織田信長。10年間(休戦期間も含む)という長きにわたる日本史上最大の宗教戦争・石山合戦については、今度の機会に紹介させて頂きます。

(寄稿)鶏肋太郎

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