応仁の乱とは 簡単にわかりやすく 下剋上の解説も

応仁の乱

応仁の乱に関して、学校の試験・テスト対策も兼ねて、簡単にわかりやすく解説したいと存じます。
応仁の乱(おうにんの-らん)は、1467年(応仁1年)から11年間も続き、戦国時代の幕開けとなった内乱です。

有力な大名であった細川勝元(ほそかわ-かつもと)と、山名持豊(やまな-もちとよ)が、室町幕府・管領家の家督争いで対立していたところに、室町幕府将軍・足利義政(あしかが-よしまさ)の後継ぎ・後継争いも加わって、武力衝突が始まりました。
幕府内での権力争いですので、主に、京都を舞台に合戦となりましたが、地方の大名も、東軍とされる細川家、西軍とされる山名家のどちらかに味方したため、戦火は地方にも広がり、全国のあちこちで合戦が勃発することなりました。
応仁・文明の乱とも言います。



1473年、細川勝元と山名宗全、両将の病死によって、応仁の乱は終わりました。
勝敗もはっきりしない長い戦(いくさ)で、両者は徒労に終わったと言えます。
ただし、長い合戦によって京都は荒廃して、乱を止められなかった室町幕府(足利将軍家)の権力も失墜しました。
そのため、地方では旧来の荘園制が崩壊し、その国で一番偉かった守護ではなく、守護代や、その下にあたる有力国人が台頭し、日本各地で戦乱が恒常化したのです。
戦国大名化する武将も現れたと言う事で、下剋上の世となり、あちこちで、合戦が絶えなく群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)となったため、日本は100年以上も続いた戦国時代に入ったと言う事になります。

下剋上(げこくじょう)と言うのは、簡単に申し上げれば、家臣が主君よりも上位の地位になることです。
会社で例えれば、社員が社長に勝って、その会社の社長になったと言うと分かりやすいでしょう?
これを主に「武力」や「策略」を駆使して、下の者が、上の者を倒して、なり上がって行ったと言う事を「下剋上」と言います。



最初に戦国大名になり上がったのは、北条早雲とも言われますが、ここでは、織田信長の織田家を例としてご紹介したいと存じます。
尾張で一番エライのは、室町幕府が任命した尾張守護・斯波義統です。
その斯波氏にはもちろん家臣がいて、その重臣のひとりが、越前時代から100年以上従っていた、織田氏・朝倉氏などがいます。
やがて、織田氏の惣領家(本家)は、尾張守護代となりました。
守護代と言うのは、ナンバー2の立場です。
織田氏も色々と分家がありますが、清洲城の清洲・織田氏(大和守家)が、尾張守護代となっています。
その清洲城の織田信友が、織田家の中では実力者であり、主家・斯波氏の当主・斯波義統を傀儡(かいらい)としていました。
この織田信友の家臣と言う事で、清洲三奉行のひとりとして、仕えていたのが、織田弾正忠家の織田信秀です。
織田信秀は、織田信友に仕える織田家の庶流(分家)でしたが、尾張・勝幡城から、那古野城、尾張・古渡城尾張・末森城と領地を拡大して勢力を伸ばし、尾張の戦国大名となりました。
そのあとを継いだ子である織田信長は。織田家の内紛を鎮め、名目上の主君である斯波義統が守護代・織田信友によって殺害されると、清洲織田氏(大和守家)も滅ぼして、清洲城に移ったと言う事になります。
更に、尾張・岩倉城の織田氏(伊勢守家)を滅ぼすなどして、尾張での最大勢力となり、今川義元桶狭間の戦いで破ったと言う事になります。



要するに、織田信長の織田大和守家は、織田一族の中でも、主家である織田家の下でしたが、主君である斯波氏をも上回ったと言う事です。
主君の家臣の家臣から、のし上がって行ったと言う事で、下剋上の象徴とも言えるでしょう。

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