キリスト教と戦国時代

キリスト教と戦国時代

ザビエル来航

戦国時代の1547年 スペインの宣教師フランシスコ=ザビエルが日本にやって来た。
その目的はキリスト教の布教であり、カトリック教会の使命として世界中に信徒を増やすことであった。
これは確かに彼が属するイエズス会など神の教えを説く立場の者が抱いた意思に則した行動であっただろう。
ただし、彼らとてその意思だけでは日本をはじめ世界中の様々な地域に布教活動をすることは出来なかったはずだ。
というのもこの大航海時代、新たな航路の発見や航海術、帆船の性能向上があったにしてもヨーロッパから遥か彼方に位置する日本までの航海は多くの危険と苦難に満ちた旅であり、多くの人員と資源を必要としたからだ。
そのような航海を行うにあたっては、スポンサーが欠かせなかったのであり、それは当時のヨーロッパにおける海洋進出国家の二大勢力であったスペイン帝国とポルトガル王国であり、両国は競って他地域への侵略を行っていたのである。


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ザビエルが日本に辿り着く半世紀前、両国はトルデシリャス条約を結び、勝手に世界を二分する境界線を引いてそれぞれの進出範囲を定め、スペインは中南米を侵略し、そこに栄えていたアステカ帝国やインカ帝国を滅ぼし、原住民を奴隷化した。
さらにアジアではフィリピンを侵略し、植民地化した。
そのような中で日本が侵略の標的にされても不思議ではない。
さしずめ黄金の国ジパング征服事業といったところだろうか。
この国家の思惑と宣教師達の布教意欲が重なり合ったことが、ザビエル日本来航の背景にあったのである。

布教活動

さて苦難の航海の果てに日本は鹿児島に上陸を果たしたザビエル一行は京の都を目指した。
国王すなわち天皇に謁見し、布教の許可を得るためである。

キリスト教と戦国時代

しかし、その道中で彼らは動乱の最中で乱れに乱れた日本の姿を、そして応仁の乱によりすっかり荒れ果てた都と権勢の衰えた天皇そして足利将軍家の姿を目の当たりにするのであった。
それでも布教を諦めなかったザビエル一行は各地で有力者の理解と支援を受けながら神の教えを説いて回った。
ザビエル自身は2年ほどの滞在の後、日本を去ることになるが、その意思はルイス=フロイス、カブラル、ヴァリニャーノなど後続の宣教師達に受け継がれ、徐々に信者を獲得していった。
その数は1580年代末には30万人に達していたとされており、当時の日本の総人口が1200万人程であったことから見ても驚異的な現象と言える。
ではどのような者が信者になっていったのであろうか。


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それは大名から庶民まで身分を問わず様々であり、前者はキリシタン大名と呼ばれ、摂津高槻の高山右近や豊後の大友宗麟がその代表的な人物である。
特に高山右近は武将としても勇猛であったが、キリストに対する信仰心は人並み外れたものがあり、最終的には武士としての身分を放棄してキリシタンとして生きることを選んだほどである。
そんな高山の姿に影響を受けた者は数知れず、彼の治める高槻一帯のほとんどの領民がキリシタンとなったほか、小西行長黒田官兵衛といった大名までも改宗に至らせた。
それにしてもザビエルの来航から僅か30年程の間に何故これほど信者が増えたのであろうか。
宣教師達の懸命な布教活動も去ることながら、これは戦国の世という残酷な現実も大いに関係していたと考えられる。
すなわち武士は身分の高い大名であっても戦場はもちろんのこと、下克上により家臣や親兄弟などに討たれたり身分を剥奪される危険が常につきまとっていた。
庶民は戦に駆り出されて討たれたり、戦に参加しなくても敵の乱取りに遭って奴隷同然の立場にされたり、農地を荒らされて苦労して育てた作物を台無しにされたりといった悲劇が日常茶飯事であった。
このような状況下では神に救いを求めるのも当然であり、厳しい戒律や修行を課されることなく、ただデウスの神に祈りを捧げれば誰もが天国に召されるといったキリストの教えに引き込まれるのは必然だったと言えよう。
宣教師達にとって当時の日本の情勢下で布教活動を行うには多大な苦労を強いられたであろうが、乱世であったことはかえって信者を獲得しやすい環境でもあった。

天下人とキリスト教

乱世を天下統一へと導いた三人の天下人、織田信長豊臣秀吉徳川家康はそれぞれどのようにキリスト教と向き合ったのであろうか。
まず織田信長はキリスト教に寛容な態度を示し、宣教師ルイス=フロイスと深い親好を交わしていた。
もっとも信長の場合は天下統一の途中であり、その際に石山本願寺などの仏教勢力と激しく敵対していた事情からキリスト教を保護していた側面があり、仮に彼が天下統一を果たしていたらその後に自身の統治体制を揺るがしかねない存在は徹底的に排除したであろうことを考えると最終的にはキリスト教も弾圧された可能性は高い。
そして信長が本能寺の変にて討たれた後、統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は当初キリスト教に比較的寛容であったが、九州平定の際にキリシタン勢力の不穏な動きを感じ取り1587年にバテレン追放令を発した。
この時点では布教活動のみを制限するにとどまっていたが、1596年に起きたサンフェリペ号事件により事態はさらに深刻化する。
偶然土佐沖に漂着したスペイン船の取り調べをしている中で、乗船していた宣教師がスペイン帝国による他国侵略の手口を話してしまったのだ。
つまり対象地域にまず宣教師を送り込み信者を増やし、キリシタン勢力に内乱を引き起こさせ、その混乱に乗じて軍隊を投入して制圧するといった手法である。
これを聞いた秀吉は激怒し、キリシタンに対して一斉に弾圧を開始した。
そして翌1597年には長崎にて凄惨を極めたニ十六聖人殉教事件が起こる。
秀吉の死後、天下人となった徳川家康は当初キリスト教を黙認していたがキリシタン勢力に危険性を感じ、1614年には禁教令及び宣教師の国外追放令を発した。
以後明治時代までの長い期間、キリスト教は激しく弾圧され続けた。
 
むすび

キリスト教はザビエル来航以後瞬く間に日本国中に広まった。
しかし乱世が収束に向かう中で為政者によってその存在を危険視され、最終的には国内から大方駆逐されるに至った。
また、スペイン帝国による日本征服事業も戦国時代の終焉とほぼ時を同じくして頓挫した。
これは当時の日本が戦国の動乱を経て世界有数の軍事国家になっていたことで軍隊による制圧は困難であると判断されたこと、スペイン自体がイギリスやオランダの台頭によって衰退し始めたことが主な要因である。


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しかしキリスト教が日本にもたらしたものはイエスの教えや侵略の脅威だけではない。
これは日本と遠く離れたヨーロッパとの史上初の接触であり、そこから言語、文化、歴史の全く異なる西洋文明との交流を通じて日本人の世界観は大きく変革した。
これまでの外交といえば朝鮮半島と中国ぐらいであったのが、西洋諸国さらにその植民地となっていた地域までその対象に入り、以後鎖国による幕藩体制の下でキリスト教の影響力は排除されても彼ら西洋諸国の動向は決して無視し得ないものとなっていく。
戦国時代はもちろん戦乱に明け暮れた時期である一方、グローバリゼーションを認識する先駆けという側面を持ち合わせていたのである。

(寄稿)Alphan

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