藤原道長の気になる「妻」「妾」一覧リスト【光る君へ】6人の妻と紫式部との関係は?

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藤原道長の気になる「妻」「妾」一覧リスト

藤原道長の妻とは

平安時代中期に栄華を誇った藤原道長(ふじわら の みちなが)には、何人か、妻や妾(めかけ)がいたとされます。
一説では「光源氏」のモデルのひとりにもなったともされる藤原道長。
その藤原道長に関連した妻の全員を一挙、どんな女性だったのか?、不明な点もおおいですが、どんな女性だったのか?ご紹介してみたいと存じます。


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基本は夜這い

夜這い(よばい)と言うと誤解があるかも知れませんが、平安時代の頃には男性から女性に求婚する手段でして、紫式部源氏物語でも描かれている、かつての日本文化です。

貴族の男性が女性の住まいを訪れると言う「通い婚」のようなイメージになりますが、事前にその女性と「約束」のようなものが存在します。
ぜんぜん知らない女性の家に、了解も得てないのに突然行くと言う事ではありません。
夜這いすることを、事前に「同意」してもらったとご理解願います。
とは言っても、スマホやLINEなどで連絡先交換や写真送信できる時代ではありませんので、前もって顔見知りだったとは限りません。
直接、顔を見たことが無くても、お互いに「存在」を知っていたと言えますが、女性が宮中に女房として出仕するなどして知っていたと言う場合もあり得ます。
いずれにせよ、平安時代には、男性側から意中の女性に「和歌」を送っては、何度もやりとりするなどして、相手の性格などを知る手段としてました。

公家の男性が女性に求愛する際、相手の家の女房・乳母を通して、意中の女性に手紙や和歌を送るのが一般的な作法だったとされます。
また、はじめて受け取った手紙に対しては、たとえ相手の男性を気に入っていたとしても、取り急ぎ「断り」の返事を男性に送ると言うのが慣例だったようです。
ただし、男性も諦めず何度か手紙や和歌のやり取りが繰り返します。

紫式部が代筆をしていたと言う事実は見つかりませんが、男性が女性(あるいは女性が男性)に和歌を送る際、代作を依頼することは珍しくありませんでした。
ただし、代筆・代作をするのは、依頼主の女房か母親だったのが一般的だったようです。
例えば、藤原道綱(藤原兼家の子)が女性にアプローチする際、和歌を代作したのは母(藤原道綱母)である蜻蛉日記の作者です。

そして、和歌のやり取りにてお互いに相手を思う様になると、夜に暗くなってから、男性が女性の屋敷(実家)に通って、初めて2人で会ったと言う訳です。
なお、平安時代は母親が娘の交際を管理していたともされています。


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貴族出身の女性は、基本的に自分の実家から外には出ませんので、このような出会い方になったのです。
また、普段は親しい人以外は、御簾(ミス)※スダレのようなものを介して会います。
よって、女性の顔もよく見れないので、その若い女性が、美人かも不明でわかりません。
その為、年頃の娘を持った貴族の親は、自分の娘の噂を「わざと言いふらして」若い男性の興味をひくようにしていたようです。
そして、そんな噂を聞いた年頃の男性は、噂の女性に和歌を送っては、どのような女性なのか?
性格などを「歌」から確認し、お互いに会いたいと言う事になったら、女性の部屋へ「夜這い」に行く訳です。

貴族の男性の場合、見つからないようにコソコソと行く訳ではなく、牛車に乗って供を連れ、堂々と行くこともありました。
そのため、決してこっそり訪れたと言う事ではありません。
これは、娘に対してどの男性を認めるのかは、母親から報告を受けた父親の役目・判断だったようです。
そのため、男性が通うと言うのはお忍びではなく、家中で認めていた公認と言うのが実情でした。
相手の女性の実家では、侍女以外の家人が気づいたとしても、来訪を知らないふりをしていたと言います。
こうして何回か通い、お互いの気持ちを確認すると、儀式を行って家人に紹介し、宴(披露宴)となりました。
女性側の家にとっても、相手のほうが身分が高かったり、良い男性であれば、親や兄弟の出世にも繋がりました。

結婚が成立したとしても、原則として妻となった女性は、自分の親元(実家)で暮らし、夫が通うのを待つ日々を送ります。
子が生まれても、妻の実家にて、妻とその家族が教育し、成人するまで養育します。
稀に夫から住まいを与えられたり、夫の邸宅に妻と子が招待されて訪問するようなケースもあります。

当然、その女性や男性の「親」も、かつては夜這いを経験している訳でして、娘が1度も夜這いを受けていないと「娘に問題があるのでは?」と心配をすることもあったようです。

ちなみに、平安時代「美女」の条件は、やせているなどではなく「容姿ふくよか」「長く豊かな黒髪」「深い教養と品性」だったとされます。

藤原氏の栄華

日本の歴史における最大氏族は藤原氏であり、平安時代・中期の貴族のうち約70%が「藤原氏」(ふじわらし)であったと考えられます。
そのため、NHK大河ドラマ「光る君へ」でも、藤原さんが何人も登場するため混乱するのですが、他には源氏(げんじ)や清原氏もいました。

藤原氏の祖は飛鳥時代の中臣鎌足(藤原鎌足)で、大化の改新の中心人物として活躍し藤原姓を賜りました。
なんで藤原(ふじわら)を授かったのか?ですが、奈良県橿原市高殿町あたりの地名が藤原で、中臣鎌足が生まれた場所だったようです。

源氏に関しては、皇族が臣籍降下する際に「源」の賜姓を受けたもので、同様に平氏や清原氏も同じですが、平安時代中期の平氏は関東など地方に散ってましたので平将門などが有名です。
平安時代後期に実権を握った平清盛も、地方の伊勢平氏でした。

そのため、京における貴族の結婚相手は、同じ貴族である藤原さんか源さんの一族が多くなりますので、藤原道長の妻とされる女性らも藤原氏の一族か、源氏の一族となってます。
もちろん、位が高い藤原氏、下級貴族になっている藤原氏・源氏など、身分は様々でした。

源倫子

藤原道長の正室とされる妻は、左大臣・源雅信の娘「源倫子」(964年生まれ)です。

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、俳優(女優)の黒木華さんが源倫子の役を演じられます。

源倫子(みなもと の りんし) は、父・源雅信の土御門殿(つちみかどどの)邸にて暮していました。
従一位と高級貴族である父・源雅信は、20歳近くになっていた倫子を天皇の后にしようと考えていましたが、花山天皇はすぐ一条天皇に譲位。
その一条天皇は980年生まれで、即位時に7歳と若すぎて年齢が合わなかったようです。
そのため、母・藤原穆子(中納言・藤原朝忠の娘)の勧めもあって、従四位上となっていた藤原道長と結ばれました。
当時、父・源雅信は、実権を握る藤原氏に唯一対抗できる源氏でしたが、この結婚で藤原氏と源氏の融和になったと言えるでしょう。


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987年に藤原道長(22歳)と源倫子(24歳)が結婚すると、土御門殿の屋敷(源倫子の実家)に藤原道長が住むようになりました。
極端な話、藤原道長は源氏に身柄(命)を預けたとも言えるため異例だったことでしょう。
そして、源雅信の死後に土御門殿は正式に藤原道長の邸宅となりました。

988年、長女・藤原彰子が誕生(のち一条天皇中宮・上東門院)
992年、長男・藤原頼通が誕生 (のち摂政・関白。
994年、次女・藤原妍子が誕生 (のち三条天皇の皇后・号中宮)
996年、5男・藤原教通が誕生 (のち関白)
1000年、4女・藤原威子が誕生 (のち後一条天皇の皇后・号中宮)
1007年、6女・藤原嬉子が誕生 (のち後朱雀天皇の東宮妃)

このように子宝にも恵まれていますので、藤原道長との関係も良好だったと言えるでしょう。
藤原道長の姉・藤原詮子とも仲が良かったと言います。
藤原道長の日記「御堂関白記」(みどうかんぱくき)によると、源倫子と藤原道長は、よく一緒に出かけていたようです。
4人の女子は全員天皇に嫁いでいます。
源倫子の長女・藤原彰子には、紫式部(むらさきしきぶ)が仕えました。

源倫子に関しては下記でも記事にしておりますので、あわせてご覧頂けますと幸いです。

源倫子の解説【光る君へ】摂関家の栄華を支えた藤原道長の正室

源明子

藤原道長のもうひとりの妻として有名なのは、975年頃?に生まれた源明子(みなもと の めいし) です。
源明子は左大臣・源高明の娘で、母は藤原師輔の娘・愛宮となります。

2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では、俳優(女優)の瀧内公美さんが源明子の役を演じられます。

969年、安和の変にて父が失脚していたため、源明子は叔父・盛明親王の養女となってました。
986年、その盛明親王も死去すると東三条院(藤原道長の姉・藤原詮子)の庇護を受けました。
そのため、姉のもとを訪れた藤原道長と源明子の存在を知ったようで、988年頃に結婚したとされます。(諸説あり)
正妻・源倫子のように正式な婚儀は行われず、公的な場にて夫・藤原道長と行動を共にすることはなかったようです。
ただし、妻としての地位は安定していたと考えられ、正室に近い側室といったところでしょうか?
父の源高明が造営した高松殿と言う邸宅にいたことから、源明子は高松殿と呼ばれました。
兄に源俊賢がいます。

993年、次男・藤原頼宗が誕生 (のち右大臣)
994年、3男・藤原顕信が誕生
995年、4男・藤原能信が誕生 (のち権大納言)
999年、3女・藤原寛子が誕生 (のち敦明親王の女御)
1003年?、5女・藤原尊子が誕生 (源師房の妻)
1005年、6男・藤原長家が誕生 (のち権大納言)


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源明子の兄・源俊賢は、安和の変にて、父とともに大宰府に流刑とになっていましたが、帰京すると藤原兼家・藤原道隆に仕えています。
本来ならば源倫子よりも血筋の良い女性でしたが、源明子が結婚した時、すでに父・源高明は亡くなっていたこともあり、子供たちの出世は遅れました。

藤原道長が東宮・敦明親王(小一条院)を失脚させると、娘・藤原寛子の婿として迎えて、共に桟敷見物をするなど、両者の緩衝として重要な役割を果たしています。

出家後の動向は不明で、1049年(永承4年)に源明子は死去。

源明子に関しては下記でも記事にしておりますので、あわせてご覧頂けますと幸いです。

源明子をわかりやすく1分で解説【光る君へ】藤原道長のもうひとりの妻

源簾子

妾とされるのが源簾子 (みなもと の れんし)。
父は源扶義(みなもと の すけのり)とされ、妹に小少将の君がおり、源簾子と一緒に藤原彰子に仕えていたようです。
<注釈> 小少将の君は同じく藤原彰子に仕えていた紫式部と親友だった。

紫式部日記によると、1008年に敦成親王(後一条天皇)が誕生した際に、源簾子が迎え湯を担当したと言う。

なお、源簾子ははじめ醍醐源氏の受領・源長経の妻のひとりであったようです。
源長経との間に娘を設けており、母と共に藤原彰子に仕え小兵衛と呼ばれていました。

源簾子は有能な女房だったようで、1011年には、東宮・敦成親王(後一条天皇)の上級女官である宣旨にもなっています。

<注釈> 宣旨(せんじ)とは、天皇のお言葉を下に伝えること。

なお、藤原道長と源簾子の間に、子はいなかったようなので、側室と言うよりは、愛人に近い存在だったのかも知れません。

源重光の娘

源重光の娘は、生年不明で呼び名なども伝わっていませんが、藤原道長の妾とされます。
父・源重光(みなもと の しげみつ)は、醍醐天皇の第3皇子・代明親王の長男で、最終官位は正三位・権大納言。
源重光の娘の子としては、1014年、藤原長信が誕生 (のち東寺法務僧正)
この1014年と言う事から、先の源倫子・源明子より約25年あとに、 源重光の娘と藤原道長は結婚したようです。
なお、源重光の娘の姉妹(同じく名前不明)は、藤原道隆の嫡男・藤原伊周の正室格になっています。

藤原儼子

藤原儼子(ふじわら の たけこ) は、太政大臣・藤原為光の4女で母は藤原伊尹の娘。(生年不明)
もともと藤原儼子は、984年に17歳で即位した花山天皇の愛人だったようですので、恐らく年齢も近かったのでしょう。
花山天皇は約2年で一条天皇に譲位したあと、藤原為光の次女・藤原忯子にほれ込んでいて通ってました。
ちなみに、ちなみに藤原儼子は藤原為光の4女で、花山天皇の女御・藤原忯子は藤原為光の2女ですので、なんと姉妹3人が花山天皇と言う男性1人から好かれていた言えます。

面白い話として、996年、藤原伊周(ふじわらの これちか)は、花山法皇が通う女性を、自分が好きな女性である藤原為光の3娘・寝殿の御方(979年生まれ)だと勘違い。
藤原伊周と藤原隆家は待ち伏せし、従者が放った矢が法皇の袖を突き通しため、政治問題となり藤原伊周は大宰府に左遷されました。


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1008年、花山法皇が崩御すると、藤原儼子は三条天皇の中宮・藤原妍子の女房として出仕するようになってます。
こうして、藤原妍子(ふじわら の けんし)の父・藤原道長と接点が生まれ妾となりました。
<注釈> 藤原妍子は、藤原道長と源倫子の娘で、三条天皇の皇后(中宮)。

1016年に藤原道長の子を出産するも死産で、母子共々亡くなったとされます。

藤原穠子

なお、花山法皇だけでなく、藤原道長も太政大臣・藤原為光の娘の2人に手を出しました。
よっぽど、藤原為光の娘たちは平安時代の美女だったのでしょう。
上記にて記載した藤原為光の4女・藤原儼子だけでなく、5女・藤原儼子にも藤原道長は接近したと言う事になります。

藤原穠子(じょうこ)は979年生まれで、はじめ源兼資の妻だったようです。
しかし、源兼資(みなもと の かねすけ)は1002年に死去。(享年43)
まだ、24歳くらいだった未亡人・藤原穠子は姉・藤原儼子と同じく藤原妍子の女房として出仕しました。
こうして、姉と同様に藤原道長の妾となった訳です。

のち藤原穠子は禎子内親王の女房としても仕えています。
藤原穠子は1025年に亡くなりました。

紫式部

紫式部は、1001年に夫・藤原宣孝が亡くなったあとから源氏物語を書き始めます。
その源氏物語が藤原道長の目に留まり、1006年頃から1012年頃まで、藤原道長の娘・藤原彰子の女房として教育係などを務めました。
紫式部日記によると、紫式部は藤原道長と思われる男性から言い寄られたと言うニュアンスの文章があります。

そのためか、尊卑分脈では、紫式部のことを「御堂関白道長妾」と記載していることから、紫式部は藤原道長の妾だったとする説もあります。
ただし、尊卑分脈は史料としての信用性は低いとされているため、絶対にそうだとは言い切れません。

紫式部が生まれた年は諸説あるため不明ですが、966年生まれの藤原道長より5歳~12歳年下の範囲です。
そして、紫式部の夫・藤原宣孝は生年不明ですが、藤原道長と年齢は近かったと推測できます。
そのため、紫式部と藤原道長は、年齢的に釣り合わないとは言えないかと存じます。
しかし、愛人だったと言う決定的な証拠がないのが現状です。

本当の名前が不明な理由

紫式部も同様ですが初めの女房名は藤式部ともあり、江戸時代の初期くらいまでの間、日本の歴史に登場する「女性」の多くは、本当の名前(本名)が不明なことが多いです。
もともと日本では、古代から貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣がありました。
また結婚した女性のことを、下の名前で呼ぶのはタブー(失礼)とされており、女性を本名で呼ぶのは親や夫だけが許されてました。
そのため、結果的に紫式部、清少納言なども本当の名前や諱(いみな)はわかっていませんし、藤原道長の妻や子も同じです。
名称や通称も伝わっていなければ、源重光の娘といったように、父の娘であると言う表現となります。

名前がわかっている女性に「子」とあるのは、官位を受領する際に朝廷に受領する者の名前を申請する必要があるためでした「~子」と登録するのが慣例となっていたためです。
ちなみに、清少納言の本当の名前は、清原諾子(きよはらのなぎこ)だともされます。

例えば、源頼朝の正室である北条政子も、朝廷から位をもらえる際に申請した名前が「政子」であったため、歴史的に北条政子だと伝わりますが、本当の名前は不明でして違っていたとも考えられます。
もしかしたら「まさ」(政)だった可能性はありますが・・。


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足利尊氏の正室も従二位に叙せられた際に赤橋登子として朝廷に申請。
豊臣秀吉の正室・北政所は「ねね」と言った名前で知られますが、從一位を受けた際の朝廷での文章には豊臣吉子と記載されています。
徳川秀忠の継室・お江はこのように名前が伝わっていますが、従一位を受ける際の諱は「達子」(みちこ)となってます。
幕末に島津家の分家から将軍家に嫁いだ天璋院篤姫も、最初の名は島津市(いち)と言う名前でしたが、島津斉彬の養女になった際に源篤子と改名し、近衛忠煕の養女になると藤原敬子と申請し從三位を得ました。

このように本当の名前があっても「子」をつけた別の名前として官位を受けるのです。

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