清少納言はどんな女性?【光る君へ】枕草子とは?平安時代の女流作家

清少納言

清少納言とは

清少納言(せいしょうなごん)は、平安時代中期の女性で、随筆「枕草子」の作家として知られる歌人・随筆家。
父は貴族の清原元輔(もとすけ)で、万葉集の訓読や後撰和歌集の編纂にも携わった歌人。
966年頃に清少納言(せい・しょうなごん)が生まれたと考えられるが母は不詳。
清少納言と言うのは女房名であり、本名は清原諾子(きよはら の なぎこ)とする説がある。


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974年、父・清原元輔の周防守として周防へ赴任した際に清少納言も同行したようで瀬戸内海を航行した模様。
その船旅が枕草子でも描写されている。
4年ほどで都に戻ると、981年頃、清少納言(16歳くらい)は橘則光と結婚した。
この橘則光(たちばな の のりみつ)は、枕草子ではやや気弱な人物として描かれている。
翌年、長男・橘則長を産んでいるがのち夫とは離婚。
そして、20歳以上年上と考えられる藤原棟世と再婚し、娘・小馬命婦(上東門院小馬命婦)を儲けた。
ただし、最初の夫・橘則光とは異なり、枕草子で藤原棟世の名が出てくることはないため、もしかしたらもっと後に再婚した可能性もある。

才能が認められると、993年から、一条天皇の中宮・定子(藤原道隆の娘)のもとに出仕し、約10年間の女房生活を送った。

<注釈> 平安時代の女房(にょうぼう)とは、 宮中に房(部屋)を与えられた上級女官の意味で、要するに身の世話や教育を行った。
例えば、例えば、藤原道長が娘・彰子が一条天皇に入内させる際には40名の女房がつけられたと言う。

この頃、清少納言と呼ばれるようになったとも考えられるが、清は清原氏を意味に対して、少納言とよばれた理由は不明である。
同時期に活躍した女性として、紫式部や和泉式部などがいる。


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藤原定子の兄・藤原伊周(これちか)が清少納言に貴重な紙を献上すると、中宮定子(ていし)から「これに何を書かまし」と言われて随筆を開始。

随筆(ずいひつ)とは、特に形式や制約なく、自然・人事・歴史・社会など見聞・批評・思索・考察・日記と言うように多岐にわたって、自由に筆の赴くままに書き記すこと。
枕草子(まくらのそうし)においては、中宮のめでたさを賛美し、自己観察した世界が記されており、赤染衛門(あかぞめえもん)、和泉式部(いずみしきぶ)ら女流歌人とも交流した。

このように枕草子が綴られた訳だが、枕とは寝具の事ではなく、集めて記した書籍と言うような意味と考えられる。

995年、中宮定子の父で関白の藤原道隆が死去すると、一条天皇や中宮定子が推す藤原伊周(藤原道隆の嫡男)と、藤原道長(藤原道隆の弟)が、次の関白を争う。

996年頃、源経房によって「枕草子」が世の中に広まり始めた。
しかし、同じころ、清少納言は藤原道長に内通しているといった噂(うわさ)もたち、宮廷を離れて私邸に住んだらしいので、その屋敷から枕草子が持ち出されたと考えてよいだろう。
この源経房(みなもと の つねふさ)の姉・明子(高松殿)は藤原道長の妻と言う繋がりがある。

その後、清少納言の晩年に関してはよくわかっていない。
再婚相手の藤原棟世とは離婚していないと考えられることから、赴任先の摂津に赴いた時期もあったようで、内裏からの使いとして蔵人信隆が摂津に来たという記録がある。

清少納言は、1025年頃に没したと推測されているようだ。

清少納言の娘は、母が枕草子の作者だとわかり女流歌人として招かれ、一条天皇の皇后・上東門院彰子に仕えたことで、上東門院小馬命婦(じょうとうもんいんこまのみょうぶ)と呼ばれた次第だ。


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「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎわは すこしあかりて……」

清少納言は、京にも知られた人気温泉地として「湯は ななくりの湯 ありまの湯 たまつくりの湯」と綴っている。
有馬温泉、玉造温泉、七栗の湯は三重の榊原温泉だと考えられるが、有馬温泉くらい堪能したことがあったかも知れない。
下記は、榊原温泉 旅館 清少納言さん。


榊原温泉 旅館 清少納言

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