陰陽師「安倍晴明」謎の出自や父母と紫式部・藤原道長らの関係をちょこっと解説

陰陽師「安倍晴明」

安倍晴明とは

安倍晴明(あべ の せいめい)は、平安時代中期の陰陽師(おんみょうじ)で、921年に生まれたとされる。
2024年NHK大河ドラマ「光る君へ」では俳優のユースケ・サンタマリアさんが安倍晴明(あべのはるあきら)を演じられる。
諸説あるため下記の事項がすべて正しいと断言できる訳ではないが可能性がある話であることを確認する。

陰陽師で天文博士でもあった安倍晴明は、すなわち当時の最先端科学に精通していたと言えよう。
計算能力も高かったようで晩年になって重用されるようになった。
安倍晴明の発言は「天からのお告げ」とされ、国家の運命を占い、政治や行事の決定にも採用されていたと言う。


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安倍晴明の父は諸説あり、大膳大夫・安倍益材、または淡路守・安倍春材ともされるがよくわかっていない。
第42代・文武天皇の右大臣・阿倍御主人(あべ-の-みうし)の後裔とも言う。
また、陰陽学の名家・加茂保憲の高弟であった阿倍保名ともされる。

安倍晴明の母は絶世の美女で、信太妻、信田妻(しのだづま)とも呼ばれる葛の葉(くずのは)だと言うが、キツネが化けたとも言うので伝説とするのが一般的だ。
他には白拍子だった、貴族・橘家が出自の娘ともされるが定かではない。

ひとつ言えるのは、信太(信田)と言う名でも呼ばれているため、これが信太荘(しだのしょう)にいたと言う事になると、常陸国信太郡(茨城県土浦市南部、つくば市南東部、阿見町、美浦村、牛久市東部、稲敷市東部)あたりの出身だったのかも?知れない。
実際に、明野町猫島には安倍晴明の出身の地だとする伝承もある。
この場合、母の名は信太姫で、安倍晴明を産んでからは「葛葉」(くずのは)と称していた。
ただし、母は和泉国信太の森(大阪府)から筑波山近くに旅をしてやってきた白狐ともされ、常陸国筑波山麓の猫島(筑西市猫島)に3年間滞在した際に、安倍仲麻呂(あべのなかまろ)の子孫と出逢い恋に落ちたと言う。
安倍仲麻呂から9代あとが、大膳大夫益材とされる。
そして生まれた童子が安倍晴明だと言う事で、ある日、狐の姿を見られてしまうと母(信太姫)は明野を去ったらしい。
この白狐は、信太大明神の化身だったとも。
その後、吉備真備(きびのまきび)が筑波に来た際に安倍晴明(6歳くらい)を見出して京に連れ帰ったとも言うが、この吉備真備は奈良時代の学者・右大臣なので吉備氏の一族と言う事か?
しかし、吉備真備は695年生まれの775年死去のため、安倍晴明の921年生まれの1005年死去とは年代が合わない。
小生は、賀茂吉備麻呂の子孫である陰陽頭・賀茂忠行(かものただゆき)が安倍晴明を見出したと言う感じがしてならない。


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そのような縁があったのか?、京にて安倍晴明は、陰陽師・賀茂忠行と賀茂保憲の親子から陰陽道を学び天文道を極めた。
一条天皇藤原道長の信頼を得て、播磨守などの官職を歴任し、位階は従四位下まで昇っている。
また安倍晴明は、時の権力者である藤原道長に重用されたことで有名だ。

安倍晴明が京に行ったと考えられる6歳の頃(927年前後)だと、どうしても平将門が気になってしまう。
平将門は下総・豊田館だが、930年頃には京に滞在していた可能性がある。
そして、筑波山西麓の真壁郡東石田(茨城県筑西市)の常陸・石田館は、平国香がいたので明野のあたりも平国香の領地だったのかも?知れない。
935年、平将門は真壁の源護と平国香を滅ぼし「平将門の乱」へと発展している。
この反乱鎮圧を決定したのは時の権中納言・藤原師輔(ふじわら の もろすけ)であるが、安倍晴明が京で見出されたのもこの頃であろう。

翌年961年(応和元年)、安倍晴明は陰陽師に任じられた。

その後、986年、藤原兼家によって花山天皇が出家し、まだ幼い一条天皇が擁立されると、阿倍晴明は身の危険を感じたようで、故郷の筑波山麓にもどっていたともされる。
そして、銚子の根本義貞(根本右兵衛義貞)の娘・延命姫と婚約するも一夜で逃げだしたと言い、あとを追った延命姫は安倍晴明を屏風ヶ浦の崖上で見失い、身を投げたと思い込んだ延命姫は身を投げてしまったと言う逸話もある。


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なお、源氏物語の作者が紫式部と安倍晴明の関係だが、紫式部は970年生まれとされる。
その時、安倍晴明(921年生まれ)は約50歳であったとも考えられ、2人に面識があったのかは不詳といったところだ。
ただし、安倍晴明の母が橘家の娘だとした場合、紫式部と交流もあったと考えられる藤原道長の母・藤原時姫も橘家出身であるため、まったく接点がないと言う訳でもない。
ちなみに、藤原道長は966年生まれで、安倍晴明は45歳ほど年上だったとも言える。
<注釈> 紫式部と安倍晴明の生年が正しいか?の問題は残る。

1005年、魔を除き、天変地異を予測して国家の安泰を司っていた安倍晴明が死没。享年84。
墓所は京都嵯峨。

晴明橋公園

晴明橋公園は、茨城県筑西市猫島にある史跡
簠簋抄(ほきしょう)によると、安倍晴明誕生の伝承があり、小さな公園として整備されていて、無料駐車場も4台ほどある。

晴明橋公園

そして公園内には、安倍晴明生誕の地の石碑などが並んでいる。

宮山ふるさとふれあい公園

大きな宮山ふるさとふれあい公園の展望台1階展示室(無料)には、簡単にだが安倍晴明に関する資料展示もある。

宮山ふるさとふれあい公園

多少の土産物店やトイレ、無料駐車場も完備されているので、晴明橋公園とセットで訪れたいところだ。

それぞれの場所は当方のオリジナル関東地図にてポイントしている。
スマホで表示して、目的地として選択し「ナビ開始」にすれば、カーナビ代わりにもなる。
自動車用、歩行用でもナビとしてお使い頂ける。
お気をつけてご訪問願いたい。

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