満江御前の墓(曽我・法蓮寺)~曽我兄弟の母が眠る地

満江御前の墓(法蓮寺)

満江御前の墓(法蓮寺)

曽我・法蓮寺にある満江御前の墓です。
満江御前の墓がある場所は、曽我・法蓮寺の裏にある墓地の一角となります。


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曽我・法蓮寺の境内に入らず、左わきの道(緩やかな坂道)を登っていくと、案内標柱が見つかると存じます。
そして、満江御前の墓の近くには、立派な案内板もありました。

満江御前の墓(法蓮寺)

ただ、小生が訪問した際には、肝心の、満江御前の墓が、どこにあるのか不明と言うより、わかりにくい状態でしたが、なんとか、見つけることが出来ました。
上記写真にある右側の階段から、まっすぐに進んで、その道の左側にあると言う感じです。
下記写真が、満江御前の墓になりますので、ヒントにどうぞ。

満江御前の墓(法蓮寺)

墓石の横には「管理者 別所字坊田 武藤家」の柱があるとの事ですが、どれが意味をしているのか?、よくわかりませんでした。
武藤家は、満江御前が曽我荘に入った際に、伊東から同行した家来とされます。

知足尼ゆかりの二宮・知足寺にある、二宮朝忠・花月尼(二宮御前)・曾我十郎祐成・曾我五郎時致の4つの墓も、同じような自然石の塚になっているのに気が付きます。
もしかしたら、同じ時代に、同じ石工が、設置したのではとも感じてしまいます。
ちなみに、二宮・知足寺の墓は、江戸時代の元禄年間(1688年~1704年)に建立されたとされているようです。


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満江御前と言う女性に関しては、下記でも触れておりますので、ここでは割愛させて頂きます。

満江御前(万劫御前)の謎に迫る~伊豆・伊東氏にまつわる女性

曽我祐信の夫妻は、1195年に出家して、曽我氏館がある曽我別所に、大御堂を建て、曽我兄弟の菩提を弔ったとされます。
満江御前は、1198年5月28日、曽我兄弟の命日に没したともされます。

近くに、満江御前が住んでいたとする、曽我氏の下屋敷(現在の曽我別所公民館の場所)があり、満江御前屋敷跡などの石碑もありますので、セットでどうぞ。
また、城前寺にも、曽我兄弟の墓などと共に、満江御前の墓があります。

交通アクセス

曽我・法蓮寺にある満江御前の墓への行き方ですが、JR御殿場線・下曽我駅から徒歩15分です。

クルマの場合、15台ほどの新しい駐車場がありますので、入口を当方のオリジナル地図にてポイントさせて頂きました。
その駐車場脇に、墓地があります。
なお、有名な曽我梅林がある地ですので、梅の季節は道路が渋滞します。


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近くには、満江御前屋敷 (曽我氏下屋敷)がありますが、公民館に駐車場もあるので、車で移動できますが、道路は狭いです。
また、少し離れますが、曽我氏館跡や、曽我兄弟の墓がある城前寺にも、満江御前の墓がありますので、セットでどうぞ。
梅林の上(標高が高いほう)には、曾我祐信の墓がありますが、急坂なうえに、道路も狭いです。

城前寺の解説~曽我兄弟の墓・曽我祐信の墓・満江御前の墓(曽我荘)
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