豊臣秀吉の出身地「尾張・中村」をわかりやすく解説~中村公園の史跡みどころ

尾張・中村

尾張・中村とは

戦国時代に天下統一した豊臣秀吉は一説によると農民が出自であり尾張(名古屋)の中村が出身地とされます。
そんな豊臣秀吉の生誕地である「中村」に焦点をあて訪問時の見どころなどや歴史も含め、中村(なかむら)に関してわかりやすく解説してみます。

諸説ありますが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)は、尾張・中村の木下弥右衛門の子として1537年に生まれました。
幼名は日吉丸(ひよしまる)、母は「なか」(大政所・天瑞院)です。
下記は「日吉丸となかまたち」になります。

日吉丸となかまたち

中村がある場所は、現在の名古屋市中村区で区名の由来にもなっているくらいの場所で、JR名古屋駅から西に2.5kmと名古屋の中心部にも近くて便利な所と言えます。

豊臣秀吉が生まれたとされる場所は現在「中村公園」として整備されており、公園内に豊国神社(トップ写真)も建立されており参拝客が絶えません。
戦国時代の中村郷は、上中村、中中村、下中村と3つに分かれていましたが、豊臣秀吉は中々村の出身と言う事になります。


スポンサーリンク



ちなみに、豊臣秀吉だけでなく、刀鍛冶・加藤清忠の子であった加藤清正の生誕地も中村となり、現在の妙光寺がある場所だったと言います。
また、加藤清正は、現在の中村公園にある八幡社にて出陣する際に武運を祈願したとされます。

中村公園

このように武将らが生まれた屋敷はあったようだが、防御性がある城が中村にもあったと言う事ではなく、集落があったと言う事のようです。
すなわち周辺では稲作ができていたのでしょう。

日吉(藤吉郎)は中村で育ちましたが兄弟に、姉・とも(日秀、三好吉房の妻)、弟・小一郎(豊臣秀長)、妹・旭(朝日姫徳川家康の継室)がいます。

豊臣秀吉公生誕地

諸説ありますが、1543年に父・木下弥右衛門が死去したとされ、そのとき藤吉郎は7歳か8歳の時でした。
そして、母・仲は子供らを連れて竹阿弥と再婚したと言う事になります。
この竹阿弥(たけあみ)も、)尾張・中村(中々村)の生まれで、織田信秀の同朋衆であったとされます。
同朋衆(どうぼうしゅう)と言うのは、雑務や芸能にあたった坊主です。
小一郎(豊臣秀長)・旭(駿河御前)の父は、この竹阿弥(筑阿弥)であったとする説もあります。

ちなみに、前田利家は1559年に、織田信長の寵愛を受けた同朋衆の拾阿弥を斬ったことで一時浪人していますので、織田家の同朋衆は少なくとも何人もいたようです。

通説では、この養父(継父)である竹阿弥と藤吉郎の仲が悪かったともされ、10歳の頃より放浪することになったとも言います。
一説によると、藤吉郎は「針」(はり)を売り歩いて生計を立てていたともされますが、武士になることを願っていました。
そして、浜松に赴くと遠江・頭陀寺城主である松下之綱に仕えたのが天文19年(1550年)頃と推測されます。
松下之綱とはほぼ同い年だったこともあり、意気投合したともされます。
そして、藤吉郎は松下氏の雑務を担当した訳ですが、早くも頭角を現したので松下氏の家臣などから嫌われたともされます。
そのため、遠江を去ると1554年頃から尾張の織田信長に仕えるようになりました。
この時、藤吉郎は「竹阿弥入道の子」であると名乗ったともされます。

有名な逸話としては、織田信長の草履取りをしていた際に、冬に冷えた草履を懐で温めていたことで気に入られたと言う話があります。
このように、藤吉郎はどうすれば喜んでもらえるか?計算できたようで、まさにアイデア豊富な若者だったのでしょう。
やがて他の武士がやりたがらないような任務も、率先して引き受けると清洲城の普請奉行として短期間で完成させたり、台所奉行などを行うと撒きを節約するなど織田家に貢献して行き「足軽」として採用されるようになりました。

1560年、桶狭間の戦いにて今川義元が討死。
そして、永禄4年(1561年)に、足軽組頭・木下藤吉郎は浅野長勝の養女・ねね(杉原定利の娘)と、清洲城の城下にて結婚したと言う事になります。
前田利家は、1558年頃に「まつ」と結婚しており、「ねね」とはこの頃から親しかったとされます。

1561年の段階でだいたいの年齢ですが下記の通りです。(多少の誤差はご勘弁を)
木下藤吉郎(24歳)、ねね(14歳)、前田利家(22歳)、まつ(14歳)
まつは、1559年に 長女・幸姫(前田長種の妻) を産んでいますが、満11歳11か月で出産したと言う事になります。

母・なか(仲)は、再婚した竹阿弥にも先立たれましたが、1573年に浅井長政が自刃し、羽柴秀吉が近江・長浜城主となると、おね北政所)と、なか (仲) らも長浜城にて一緒に暮らすようになりました。
豊臣秀吉は生涯、母・仲(大政所)を大切にしています。

なお、大政所と加藤清正の母が従姉妹(あるいは遠縁の親戚)であったことから、加藤清正も小姓として仕えました。

加藤清正の誕生地

また、大政所の妹を正室にした小出秀政も中村の出身であり、のち岸和田城3万石となっています。
ねねの実家の兄弟・木下家定の子である木下勝俊(杉原勝俊)の木下屋敷も中村にあったようで、現地では木下長嘯子宅跡となっています。

木下長嘯子宅跡

また、常泉寺の境内に豊太閤産湯の井戸もあります。

豊太閤産湯の井戸

駿府城主になった中村一氏も、中村の住人・中村一政(中村孫平次一政)の子ともされ、中村出身とする説があり、秀吉が長浜城主になると300石で召し抱えられました。

歌舞伎役者の初代・中村勘三郎(1597年~1658年)も、中村出身だったので中村と称したとされるようです。

以上のように現在「中村公園」として整備されていますが、見学所要時間は30分~60分と言ったところです。

交通アクセス

中村公園への行き方ですが、名古屋市バス名駅25、中村巡回「豊国神社」バス停下車してすぐです。
地下鉄東山線では、中村公園駅にて下車し、3番出口から北に徒歩約10分となります。
有料駐車場がありますが「予約車専用」のため、普通車の場合には周辺にあるコインパーキング利用が無難です。
史跡がある場所は当方のオリジナル地図「名古屋・北陸」方面にてポイントしています。

木下藤吉郎とは 1分でわかる藤吉郎
豊臣秀吉と言う戦国武将に迫る【豊臣秀吉】性格・人柄・死因は?
豊臣秀吉の詳細解説 農民の木下藤吉郎が天下を取れた理由
羽柴秀吉(豊臣秀吉・木下藤吉郎)~下層民から天下人~の生涯を手短に!
豊臣秀次~豊臣一族としての役目を果たすも最後は静粛された
おね【ねね】北政所~豊臣秀吉の正室 内助の功
大政所【豊臣秀吉の母・なか】と朝日姫(旭姫)とは
中村一氏の解説 秀吉に信任され対徳川家康の最前線を守った譜代の臣
豊臣兄弟!【キャスト・出演者一覧リスト】NHK大河ドラマ2026年

フィードバックする
スポンサーリンク
スポンサーリンク

関連記事一覧

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

コメントするためには、 ログイン してください。