織田信秀とは わかりやすく2分で解説

織田信秀

織田信秀(おだ-のぶひで)は、戦国時代の大名で、1511年に勝幡城主・織田信定の子として生まれました。
母は織田良頼の娘(いぬゐ・含笑院殿)です。
織田信秀が生まれた織田家は、清洲三奉行のひとつで、主家である尾張守護代である清州織田氏(大和守家)に仕えて家臣でした。

主君が清州織田氏(大和守家)の織田達勝・織田信友で、その下にある清洲三奉行が、因幡守家・藤左衛門家・弾正忠家と3つあり、その弾正忠家が織田信秀の家です。
なお、主君・織田達勝は、守護代ですので、尾張守護・斯波義統を補佐する立場でしが、織田家とは争いとなっていました。


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1527年頃、家督を譲られた織田信秀は、津島へと勢力を伸ばしたようで、更に主家・織田達勝と、清州三奉行のひとりである小田井城の織田藤左衛門との和睦をまとめます。
1534年、継室・土田御前との間に織田信長が生まれると、1535年、岡崎城主の松平清康が、今川家の支援を受けて侵攻すると、尾張・守山城の戦いになりますが、守山崩れで勝利を収めています。
更に1538年頃に、那古野城主・今川氏豊を策略をもって攻略しました。
1539年には、古渡城を築城し、熱田神宮付近も支配下におさめ、経済力を強めています。
1540年、安祥城を攻略すると長男・織田信広に守備を命じました。
1544年には、斎藤道三稲葉山城の城下まで攻め込みましたが、加納口の戦いにて敗れています。
1547年、お市の方が誕生した年、松平広忠の岡崎城を攻め落として降伏させ、人質として竹千代(徳川家康)を預かりました。
1548年には、末森城を築いて本拠を移し、朝廷に献金も行い、室町幕府の第13代将軍・足利義輝にも拝謁しました。
その後、斎藤道三が今川義元と協力して、織田氏を挟み撃ちしようとし、今川勢の太原雪斎にも敗れたため、美濃・斎藤家と和睦して、嫡男・織田信長と帰蝶の婚約が決まりました。
1549年に、帰蝶が輿入れしています。
しかし、安祥城は太原雪斎らが攻め込み、織田信広の奮戦で一度は退けたものの、安祥城は陥落し織田信広が今川家の捕虜となったため、竹千代(徳川家康)との人質交換が行われました。

この頃から、織田信秀は病になったようで、1551年には鳴海城の山口教継が寝返り、困難の中、1552年3月3日、織田信秀は末森城にてで死去しました。享年42。


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こうして、嫡男の織田信長が、尾張を代表する勢力まで拡大させた父の偉業を継いでいくことになります。

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